浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「独り言」より。

2015-10-31 00:31:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


          ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆


私たちはこの環境の中に肉体を持って生きていると思っています。
そして、幸不幸を左右するのも環境だと思っています。
私はこんな環境だから幸せになれないのだとか、
別の職場に移りさえすれば幸せになれる筈だとか言って、
私たちは何でも環境のせいにしたがります。
が、果たして本当にそうでしょうか。

この肉体が空気、水、太陽によって育まれ、雨露をしのぐ屋根の下に住んで、
家庭や職場といった人間関係を含む環境の中に生きているのは確かです。
では、空気がきれいで、水が良くて、気候も温暖で、十分な広さの家を持ち、
家族に囲まれ、生活の糧を得るための職場が与えられたら、毎日は幸せと言えるのでしょうか。
誰が見てもうらやむような完璧な環境の中にあっても、
本人の心が満足していなければ幸せとは言えません。
ダイヤモンドやサファイアの輝きに燦然ときらめくたくさんの照明と、
大理石の床や金の壁や銀の柱で荘厳された御殿のような大邸宅に住み、
金銀財宝に埋もれて暮らしている人がいるとしましょう。

しかし、やれ床が冷たいだの光がまぶしすぎるのだと言って心に不平不満をいだいたり、
泥棒が入って財宝が奪われたりしないかという不安や恐怖の思いを持っていたらどうでしょう。
その人の心は決して満足でも平安でもなく、はたから見るほど幸せではないはずです。
一方、古い諺にある「竹の柱に茅の屋根、筵を垂らして壁戸の代わり」というような粗末な家でも、
この竹の柱のお陰で屋根を支えてもらい、茅の屋根のお陰で雨露をしのぎ、
筵のあるお陰で風を防いでいただくと思えば、そこは天国です。
質素な生活をしていても、わずかな物で足りていることの幸せに常に心が感謝に満ちていることでしょう。
すると、どんな環境の中にあっても、心の持ち方さえ感謝と喜びに向いていれば、
その人は幸せだということになります。

私たちは現在与えられている環境や境遇に対して、
それをそのまま有難く感謝して受け取ることがなかなか難しく、
何かにつけ不足な点を見つけては嘆いているものです。
感謝の理由を挙げるよりは、不満の理由を挙げるほうが得意です。
ところが、心の羅針盤が感謝のほうに向いていれば、朝起きて太陽を見ても、顔を洗っても、
ご飯をいただいても、お手洗いに入っても、道を歩いても、常に有難いはずです。
反対に不満のほうに向いていれば、何を見ても、何をしてもつまらないでしょう。
人間関係も環境の一つです。
親切で温かい人々に囲まれ愛されていても、独り心に深刻な悩み事をかかえていれば、
決して幸せとは言えません。
周囲の人も他人も心の中に入って思いを変えるわけにはまいりません。
反対に厳しくつらいことの多い職場などの人間関係でも、
それを精神を鍛えるためのいい機会であると思えれば、かえってそれらの人々の存在が貴重に思え、
そういう環境にも感謝できます。


                   ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より、

2015-10-30 00:49:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道


             ◆人々の喜びが無限のエネルギー◆


どこへ行こうと神様といっしょであるということを実感していただきやすいように、
体験を書かせていただくことにします。
まず、神様は光であり愛であり、命でありエネルギーであります。
自分の心の状態が真に神様の御心と一つになっていくと、
これらをいただいて自分の内に感じさせていただけます。
私は常に全国を飛び回っております。
休ませていただくのは、だいだい夜中の二時、三時前後です。
最近では、一週間ほど皆さんと中国に行きまして、浄心庵に帰り着いた晩に、
地方まで帰られるのに一泊された方々と夜中まで習字を習い、
れから明け方まで一人で書いていたことがありました。
その日はまた午後から夜中までこの本を作るための打ち合わせがありました。

朝まで寝ないことも珍しくありません。
自分の身を、生命を燃え上がらせております。
燃え尽きてしまいたいと思っています。
燃え尽きたら、あの世に帰らせてもらえばいいのです。
精一杯この命を燃え上がらせて、その結果として一人でも多くの方から「会えてよかった」と、
喜んでいただけたら、使命は果たせたことになります。
命を賭けて法を実践させていただいております。
「命を捨てるものは命を得る」又、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という言葉がありますが、
肉体の命は関係ありません。
だから、無限の命、無限のエネルギーが与えられます。
こんなことが人間としてできるのかと思うほど不思議なことを見せていただきます。
お招きいただきますと、どこへでも飛んでゆきます。
その時は、ただのご奉公、いっさいの報酬は求めません。

せめてその時間だけでも、神の子になりたいと思って、神の御心どおりに自分が行い、
そのように生活させていただいております。
求める心があると、得られないからと言って腹を立てることもありましょう。
しかし、どこへ行っても心安らかです。
癒しを求めて来られる方が何百人、何千人おられてもかまわない、私の体が潰れるまで
ご奉仕いたします。
以前、東京に招いて頂いた時に、たくさんの方々に囲まれながら、汗だくになり、
もう帰らせていただく時間ぎりぎりまでお話をしました。
その後、色紙に字を書いてる間にズボンをはかせていただき、
シャツを頭から着せていただいて着替えをして、走って飛び出しました。
何処へ行かせて頂きましても、はじめての所ではお茶一杯、タバコ一服吸わせていただく
時間もありません。
肉体の限界にいどみ身はクタクタになりますが、心は喜びに満たされます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-29 02:38:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道


       ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


先の続き・・・

世の中には様々な霊格を持った異なる段階の方々がおられます。
その中には普通人以下の人格・霊格を持った「迷わせ人」という存在があります。
なぜなら、必ず、この迷わせ人にひっかかる「迷い人」がいるからです。
それでないと迷わせ人は仕事になりません。
迷わせ人の一種である低級な霊能者や占い師、予言者には人の悩み苦しみにつけこんで、
相手を脅かし、不安を与えるようなことばかり伝え、
ちっとも当の問題そのものを解決してあげられない方があります。

あるいは解決して挙げるからと言って、高額なお金を要求してくる方もあります。
そう言う人々の餌食である「迷い人」にならないためにも、
自らが光となり、神の御心を行えるようになることです。
何処へ行っても、何処に居ても、またどんな状態であっても、常に安心しているためには、
いつも「我、神とともにあり。神、我とともにあり」という思いを持ち続けることです。

人間の都合によって、その国を治めた権力者や宗教指導者らの都合によって、
いろいろと自分たちに都合のよいように作りあげただけの話しです。
そうして定められたものが、場所や方角の迷信として世に広まっていったものです。
地球は神のご神殿であり、ご神体です。
地球上どこへ行きましても大いなる神の手の届かない場所というのはどこにもありません。
トイレでも、お風呂でも、暗闇でも、山に登っても、海の中にもぐっても、
全部神様の中にあります。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-28 00:12:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道


      ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


先の続き・・・

ドッジボールほどの地球儀を持ってくれば、日本の面積は小指ほどもないでしょう。
そこにある何県の何市などといったらもう針の先で突つくほどもない小さなものです。
そんなところだけ神様がおられるなどということがありましょうか。
神様は遍在されています。
ちょうど太陽の光が地球に平等に降り注いでいるごとく、あまねく神様の光は届いております。
私たちの住む地球を包んでいます。
日本だけにおられる神様で、外国におられない神様であれば、これは世界に通用しない神様です。
日本なら日本だけ、韓国なら韓国だけ、その国だけしか通じない教えであれば、それは
正法ではない、つまり真理ではあり得ません。
今お話させていただいている教えは、宇宙の果てまで行ってもこの同じ話をさせていただきましても、
「ああなるほどそうか、そのとおりだ」と、通じる話です。
ただ、私たちの心の中にも同じ神様の意識の光が隅々まで照らしてくださっているのだと
強い信念で思い、それを日々の生活の中でさらに深め、体験と行いを通して自覚していくことです。
方角を気にされたり、占いや予言などに頼るあまり、かえって心に不安をいだかれる方も
いらっしゃいます。

何事も中道を失ってはなりません。
不安を与えるような情報を心に入れたり、またあれこれと取り越し苦労をするならば、
もうその行為自体が神の御心に反しています。
神様は、「自らの心を苦しむることなかれ」と仰せられます。
お釈迦様の弟子が或る時、師に対して質問しました。
「人が惑い少なく生きるには、どのようにしたらいいでしょうか」
お釈迦様は次のように答えられました。
「人がそのように生きたいのであれば、星を占ってはならない。
点変地変を占ってはならない。
あらゆる相を占ってはならない。
占ってもらってもならない。
そのように生きた時、惑い少なく生きるであろう」
惑いとは迷い苦しむことです。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-27 00:10:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第三章 天上界への道


   ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


私たちの肉体こそ「神の宮」として、神が造られた神殿です。
どんな科学の進歩によっても、それは造ることのできないものです。
また、この巨大な宇宙そのものも大神体であり、地球もその一つです。
神様にお参りするにはどこそこへ行かなくてはならない」とか、
「神社の便所を掃除したらうまくゆくのや」とか言いますが、
この地球そのものが神の御姿の現れであり、ご神体です。

それなのに、
定められた場所に行かなくては神様はいらっしゃらない
などということはあろうはずはありません。
方角が悪いとかなんとか言いますが、
神様のお体の中に悪い所があるわけがありません。
何処へ行きましても、神様の慈愛は満ち満ちています。
たとへトイレの中であっても、
生まれたままの姿でお湯につかるお風呂の中であっても、
例外ではありません。
正神殿とか御本尊とかおみたまとか称するものを高額なお金で
信者に頒布している方がいますが、これもおかしなことです。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-26 00:10:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道


     ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


先の続き・・・

この私たちを取り巻く大自然も大宇宙も、すべて神様の意識の現れでないものはありません。
言ってみれば、それらは神様の御心の表現された神様のご神体です。
私たちの肉体もけっして自分のものではなく、神様から貸していただいているもので、
いつの日にかそれをお返しして、あの世に帰らなければならない借り物にすぎません。
この肉体が自分のものならば、「私は年をとりたくない」と思えば、年をとらないはずですし、
「白髪よ消えよ」と言えば消えなくてはならないはずですが、これはどんな方でも思いどおりにはゆきません。
肉体は時とともに移ろい変わる無常なものです。
こんなものに執着していては、心ははなはだ不自由です。
しかし、この借り物の肉体を動かしている生命エネルギーは形こそ見えませんが、
大自然や大宇宙を動かしているのと同じ一つの意識の働きです。
この姿なきものを神様と呼んでおりますが、この意識の中心が私たちにも与えられた心です。
私たちは何をするにもまず心を動かし、心を遣います。

意識するとしないとに拘わらず、その心の命令によって肉体が行動します。
ところが、本来は自由自在で無限の広がりを持つ心が肉体に同化して、
肉体が自分だと錯覚するところから、その自由性を奪われてしまいます。
私たちはそれぞれの個体を持っていますから、一人一人の身体も心もバラバラで、
ちょうど海面の上に多くの島が点在しているように、個々別々に分離しているかのように思っています。
しかし、それはそんなふうに見えるだけです。
寝ている時は意識が肉体を離脱しています。
幽体や霊体というもっとも波動の微妙な体に移り、あの世に行ってそこで浄められたり、
エネルギーをいただいたり、修行したりしています。
私たちは昼間起きている時は、10パーセントにすぎないと言われる表面の意識にいますが、
寝ている間はもっと深いところへ下りて行き、90パーセントを占める潜在意識に
近い想念帯の中で夢を見たり、それで魂の汚れが浄化されたりしています。
奥に行けば行くほど、個人の記憶や個人の感情想念の記録された自我意識や個体意識の
部分は少なくなり、やがて海底ではすべてが地続きとなっているように、集団や人類の
意識になり、最後にはそれさえも超越した宇宙意識とか神意識と呼ばれるレベルにまで
到達してしまいます。

これが神様の御心であり、大宇宙を動かしている意識と同根同質のものです。
それはすべてを生かし、育もうとする愛の意識であり、すべてを調和へと導く永遠にして
変わることのない巨大な意識です。
一人一人の心の奥に、内在する智慧に到達する教えである般若心経で説かれている
「内在する智慧」があります。これが神我の神意識です。
そこに到達するのに、この神我を覆っている思いの曇りを除く必要があります。
座禅して空を求めるのもその一つの方法です。
空になると努力というのは自己保存と自我我欲を滅し、神我を求めることです。
そうすると、「色即是空 空即是色」という形にも何ものにもたらわれない境地に達します。
しかし、別に誰もがそんな難しい修行をしなくてもよいのです。
当たり前の日常生活の中で、神様の御心を行なわせていただき、もしそこから外れた行為をし、
思いを出してしまったら、早めに反省し、その分だけつぐないの善き行為をすればいいのです。


                 ~ 感謝・合掌 ~






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「独り言」より。

2015-10-25 00:46:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第三章 天上界への道


       ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


先の続き・・・

四行目に示されるのは、姿ある天地自然や万象万物の中でも特に人間のことで、
これも神の表現として形ある肉体を与えられ、地上に生かされております。
三行目の「姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ」とは、形あるもの
の背後にあって生命の原動力、エネルギーを与えている存在としての神を知りなさいということです。
神というものがなければ、すべてのものには魂も命も宿らぬことになり、ただの物体、
物質ということになってしまいます。
人間も同様です。

だから、四行目、五行目では「汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ、
姿なき汝らの神我となりて、我は証せん」というのです。
つまり、あなたたち人間を肉体ある存在として地上に生かしながら、
私の存在を証し示すことにしようということです。
どうやって、証し示すかといったら、
各人の肉体の器の中に神の分け御霊である神の御心の一部が最初から注ぎ入れられ、
それがだんだんと完全に現わされてくるにしたがい、
人間が神そのものの行為をこの地上に現わし、人間がまさしく神の子であり、
神と人間は常にともにあり、
一つであるということがはっきりとしてくるという過程においてなのです。

科学が客観性を重んじるのに対して、宗教は体験を重んじてきました。
科学は証明できないものは真理として認めません。
しかし、神の存在は否定しても、自然のエネルギーを否定できる人はありません。
大宇宙、大自然のエネルギーと呼ぶか、神と呼ぶかの違いだけです。
私たちは、ただ自分たちの心の内奥に、
神様の御心がそのままに分け与えられた神我を見出すことによってのみ、
神様の存在というものを知ることができるのです。
これは一人一人の体験の中でのみわかることですから、
「太陽の心」として前に示したような神の御心にかなう言葉と思いと行いを実行した時に、
それがだんだんと本物の体験になってくるはずです。
これをやるやらないはもちろん各人の自由です。
ただ、真実の生き方というものを求めるのであれば、
どうしても避けて通ることのできない道なのです。


            ~ 感謝・合掌 ~



※ 恩師のご命日にあたり、当ブログの開設日(2008-11-11)より本日(2015-10-25)までに
  当ブログに訪問して頂きました述べ人数と閲覧数をご報告させて頂きます。

  訪問者数 166,392 一日平均 66人
  閲覧回数 510,470 一日平均 202回

  沢山の皆さんに訪問、閲覧をして頂きましたことに心より深く感謝申し上げます。
  恩師「長尾弘」先生も天上の世界から大変喜んで下さっていることと拝察いたします。
  今後とも宜しくお願い致します。


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「独り言」より。

2015-10-24 00:06:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道


         ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


神様は私たちの目には見えません。
しかし、目には見えなくても神様を知る方法はあります。
それを神様ご自身が教えてくださっているのです。
そのことは、神様のおおせられる御言葉によってよくわからせていただけます。

我は姿あって姿なし
姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ
姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん

二行目の天地自然・万象万物とは、山や川や草木や動植物、そして星々や月や雨や風など、
あらゆる自然、命あるもの、天象の一切を言います。
たとえば、初夏の青々とした稲田のひとつにしても、ある人はその美しさを俳句に詠み、
また或る人は私たちの命を育んでくれるお米とそれを作る人々に感謝をしたい気持ちに駆られることでしょう。
その美しいなあと思う心とありがたいなあと思う心と同時に、
私たちはその美しさやありがたさを与えてくれる稲田の奥に神の御心を見出すことができます。

「なんだ、ただの田圃じゃないか」と、それを見てもなんとも思わないことだってできるわけです。
しかし、美に感動し、生命の糧に対し深い感謝の念を抱けるほどの微妙な波動の心になれば、
自ずとそこに目には見えないけれども、いや、目に見えないからこそ、それだけ厳かな気持ちとともに、
尊い神の存在というものを感じないわけにはまいらなくなるのです。
雨の音に神の足音を聞き、風の中に神の声を聞く。
形あるものをただ形あるものとして見ることができないうちは、神を知ることも難しく、
この世の表面の出来事とかお金などに引き回され、翻弄されて生きなくてはならないので、
人間はなかなか救われません。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-23 00:38:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道


     ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆


先の続き・・・

二、三年もしないうちにその時はやってまいりました。
息子さんが「やっぱり先生の言われたとおりです。もう癌で入院させているんですが、
苦しんで痛がってたいへんです。お医者さんが痛み止めを打ってくださっても効かず、
転げ回るんです。子としてこんな辛いことはおまへん。なんとかしてください」と
おっしゃるのです。
「しゃあ、どのテープでもよいから持っていって聞かせてあげてください」と言うと、
「でも、そんなテープを聞ける状態と違います」と言われます。
確かにその苦しみというのはたいへんなようで、頭髪をかきむしってしまったり、
俯せで痛みを耐えるために畳をかきむしり、
畳の中の藁をみんな引っ張り出してしまったなどという話もあります。
病院のベッドの周囲の金属のパイプを曲げてしまう方もおられるそうです。
それほどの痛みがおばあちゃんにも襲ってきたということです。
そこで、聞いても聞かなくても、とにかくそのおばあちゃんの耳元で私のお話のテープを
かけてもらうことになりました。

すると、一時間もしないうちに痛みはすうっと消えてしまいました。
おばあちゃんは、「己が悪かったんじゃ」と言って泣き叫んで、
「神様かんにんしてください。己の生き方が間違っていました」と泣いて泣いて詫びられたのです。
そこへたまたま本家の兄さん夫婦が見舞いに来られまして、部屋に入るやその声を聞き、
「このクソ婆は死ぬ時になってもまだお前が悪いと言っている」と言って、夫婦で顔を
見合わされたそうです。
しかし、弟さんが「いやいや、兄さん、違うんや。このテープをかけると痛みがなくなり、
自分が悪かった、かんにんしてくれなはれと泣き出したや」と説明しました。
兄さん夫婦も、それはよかったと喜びました。
それから、まったく痛みも苦しみもないまま三日間安らかに過ごされて、
四日目に安楽往生なさいました。

おばあちゃんは、「有難うございました」と言って、安らかに亡くなられたということです。
そして、驚くべきことにそのおばあちゃんの皺だらけのお顔が、皺一本ないツルツルのお
顔になられたということです。
この出来事で思いました。
人間は、たとえ九十年もの間、間違った人生を送ってきても、その死の間際に法に触れて
自分の間違いに目覚め、「えらい間違いを犯しました。どうぞゆるしてください」と必死で
お詫びできたら、必ず赦していただけるということです。
安らかなお顔で皺がなくなったのはその証しです。
法とはまことに有難いものだと思います。
しかし、よいことを聞いたといって死ぬまで好き勝手に生きて死ぬ前に
お詫びすればよいと思わないでください。
私の話を聞いた以上、ご自分の良心が自分を責め裁くことが起きます。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-22 00:03:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                    第三章 天上界への道


          ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆


棺に遺体を納める際にマイナス八十度くらいのドライアイスを詰めるのですが、
私がこれまでにご縁があって見せていただいた方々の遺体には不思議なことがよく起きます。
遺体の胸に手を当てるとまるでホカロンを入れたように温かく、
背中に手を回しても冷たくないといった奇蹟的なことです。
正しい法に触れて、心が救われた方は死後硬直も冷たくなることもありません。
マザーテレサさんがお亡くなりになった時に、死後四時間目の写真をいただきました。
以前お会いした時とはまったく違う美しいお顔になっておいででした。

落ち窪んでいたはずの目も若い時のようにふっくらとし、とても死んだ方のお顔とは思えませんでした。
やはり、素晴らしいお方は、素晴らしい死を迎えられるものだと思いました。
しかし、有難いことに、あまり素晴らしくない人生を送られた方でも、
死の寸前にこの法をいただき、反省によって気づかされ、ああ私の人生は間違っていました、
たくさんの過ちを犯してきました、と悔い改めたなら、救われます。
その一つの素晴らしい例を紹介します。
九十歳近いおばちゃんの息子さんにご縁がありまして、
「恥ずかしいことですが、私の母は
絶対にいい所へは行けないと思います」と言ってこられました。
このおばあちゃんは、自分の子供たちからさえ、「死んだら地獄行きだ」と確信されていたのです。
「どうしてですか」と尋ねますと、「お恥ずかしいのですが、
私の母は恨みと憎しみの塊です」と答えられます。
人の悪口は言うし、人を信ずることはできない。
出すことは大嫌い。もらうことは大好き。九十年間のおばあちゃんの人生は
苦しい日々だったと思います。

「出すことはベロを出すのも嫌い。もらうものは余所様の葬式でもでもほしいな」と、
実際にこのおばあちゃんは口にされていたそうです。
人の悪口は言う、嘘はつく、という人生だったと、その息子さんが保証するのですから、
間違いありません。
それで、「どこから見てもいい所に行けそうにありません。なんとか救うてもらえませんか」と、
息子さんからのご相談がありました。
「お歳は?」と聞くと、「九十近いです」と答えられるので、「そりゃあもうあきまへんわ」
と言いました。
九十年間、ご本人は自分を正しいと思って人生と思って人生を過ごしてこられたのです。
その頃は私は五十前後でしたから、四十年もの年齢の隔たりです。
私みたいな若造が言うことなど聞いていただけないでしょう。
だから、どうしようもないと思ったのです。
けれども、もし間違った人生を過ごせば、必ず清算の時が来ます。
貸借対照表で赤字か黒字かというのがはっきりと出てまいります。
正しければそれなりの、間違っていればそれだけの結果の現れる時が来る筈です。
その時が訪れたならば、またいらしてください、と言っておきました。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-21 00:06:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第三章 天上界への道


              ◆生き地獄とあの世の地獄◆


先の続き・・・

昔か地獄というと、餓鬼界や阿修羅界など、
その苦しみの思いの種類によっていくつかに分類されてきました。
たとえば、「足ることを知る」ということを忘れ、貪欲に溺れれば、
その思いは自ずと餓鬼界へ通じていきます。
また、権力闘争など争いの思いは阿修羅界へと通じていきます。
これら二つの地獄は、人間の煩悩にうちでも最も気をつけなくてはならない
自我我欲の思いと自己保存の思いが原因となって現れてくるものです。

「残水の小魚 食を貪りて時に乾くを知らず」という諺が仏典にあります。

川の水が引いた後に残された水たまりの浅い水にピシャピシャと小さな魚たちが
尾びれを動かしながら群れて、餌を奪い合っています。
雨も降らず、もうじきに水が干し上がってしまおうとしているのに、
そのことにさえも気付かずに食を漁り貧ぼるのに夢中になっております。
「残水」とは余命のたとえです。
人間でもいろいろな欲望を追いかけて、
もっと財産や土地や家を手に入れたいと躍起になっているうちに、
だんだんと死が近づいてくるのですが、それにも気付かず、自我我欲に
とらわれたあさましい姿とその運命をうまく言い表わしたものです。
私は二十歳の頃からこれをすごい言葉だなあと思っておりました。

人間はみんな足ることを知らないでいつまでも欲望にとらわれて右往左往している。
そして、やがて死ぬということも忘れている、なんと浅はかなんだろうと考えたり、
仕事仲間のうちで友達がいじめられ、根性悪くされるのを見てもとてもつらい時期があったし、
人の死を多く見せられたので、なおさら実感をもってこの言葉の意味が胸に入ってまいりました。
あってもあっても充足しない心は、そのまま餓鬼界の意識につながっていきます。


       「糞中の穢虫 居を争いて外の清さを知らず」


という諺も私たちに人間世界における真実を示してくれています。
政界や宗教界において組織の中で自分の地位を確保しようとポスト争いをする様が、
ウジ虫が糞の中にありながら互いに居場所を争っている様子にたとえられています。
権力闘争の思いは、事後保存の欲望や自我我欲の欲望から来るものです。
互いに自分の地位を守ろうとし、また相手を失脚させて望む権力の座におさまろうという
権謀術数が渦巻く世界にあって、やがて対立闘争の思いはカルマとなって、
阿修羅界に通じてゆきます。
そんな心の休まる暇もない世界を一歩外に踏み出せば、清らかな世界があるとも知らずに、
自らの煩悩の火で自らの心を苦しめていきます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-20 00:16:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道


            ◆生き地獄とあの世の地獄◆


たった今幸せであったとしても、
次の瞬間に心を苦しめてしまいますと、心は極楽から地獄へ一挙に転げ落ちてしまいます。
それが長く続き、苦しみの程度が甚だしければ生き地獄ということになります。
ふつう地獄と称せられるあの世の苦しみの世界は、肉体がなくなってもなお意識がけが存続し、
生きている時の苦しい心の状態を持ち越したまま、別の次元に移行した時に、
自らの思いによって展開されてくるものにほかなりません。
宇宙の運行が一秒たりとも休まず、自然界が変転すること絶え間のないように、
人間の心と身体の細胞組織も一瞬毎に変化しています。
それらが発する波動が常に変化しているとも言えます。
もう怒りっぽい自分は克服できたろう、もう大丈夫と思っていても、
何かの縁に触れてまた激怒してしまったなどということは誰にでもありそうなことです。

不調和な思いの波にさらわれ、低い所に転落することから自らの心を守るためには、
出て来た嫌な思いや辛い思いをできる限り早く切り替えてしまうことです。
そうすれば、まず生きながら味わう生き地獄に喘ぎがなくなります。
魂の修行の場としてのこの世で出会う人々や起きる出来事の縁に触れ、
様々な課題や試練に遭遇することになります。
けれども、それらを乗り越えて行く時、今迄どうしても乗り越えられず、
自分が直そうとしても直らなかった癖や欠点などがやがて修正できて、
それが自信につながり苦しみは喜びとなります。
私たちは偽我の本当の姿に直面するのを恐れています。
そして、社会で人から期待される、それぞれの人から都合がいいと見られる自分であろうとして、
仮面をかぶり、偽りの人格をまとってしまいます。
それでいて、自分の嫌な面や醜い面は人から見えないところに押し隠しています。
それが潜在意識にたまり、汚れや曇りとなって心の輝きを失わせてしまいます。
生きている間に真実の自己の姿に直面して、精一杯魂を浄化すべきです。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-19 02:11:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道


            ◆本当の神は罰など当てない◆


「神のみ名において赦しません」などと戒める宗教がありますが、
そんなことは絶対にありません。
神の心の中には責め裁く思いはありません。
太陽の心と同様に、神の心は無限の赦しです。
ただし、私たちの心は人に嘘をついても自分自身に嘘をつくことは決してできません。
良心があるからです。
この良心が私たちが罪過ちを犯した時、人は誰も知らなくとも自らを責め裁きます。
私たちが罰を恐れるのも、私たちの思いの中に自らを責めたり裁いたりする心があるからです。
しかし、それが悔い改めて真理に目覚めるためならいいのですが、
ただ不必要に自らに罪悪感を背負わせるためにだけ、自らを責めさいなみ続けるのなら、
これも一つの業であり、心に潜む魔です。

その時、自分の心は必ず苦しむはずです。
また、責める対象が他人であってもやはり自分の心は苦しみます。
もちろん、この場合相手の心にまで苦しみを与えてしまいます。
その結果、自分の心を暗くし、人様の心をも暗くしてしまいます。
そして、同時に心は重くなり、光の量は減ってゆきます。
それはなぜかというと、神の御心にない心というには、
光に対する影となって心に闇をもたらし、光の量を減らすからです。
自分の心が明るくならなければ、いくら宗教をやってもなんにもなりません。
正しい法を実践すれば、正しいものの見方と正しい心の持ち方と正しい言葉の話し方と
正しい行いというものが、その人の身に必ず現らわされてきます。
古い人格は消え去り、
それまでとはまったく違う生まれ変わったかのような神の子としての本来性が現れてきます。
神様は、「己自身を苦しむることなかれ、己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ」
とおっしゃいます。

そしてまた、「汝らの喜びは我が喜びなり、汝らの苦しみは我が苦しみなり」ともおおせられます。
「我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ、もし我が心と離れし箇所に気づかばそれを悔い改めよ、
その時、汝らの魂は浄まれり」というのが神の御心です。
私たちの誤まてる行為さえも神様は大きな心で赦されておられるのです。
いつでも自ら間違いを反省によって知り、悔い改め、
つぐないの行為によって挽回するチャンスをくださっています。
だから、やり直しがきかないということも、罰せられるということもありません。
自分の失敗なり過ちを素直に悔い改めて、
二度と再びその間違いを犯さないようにすればいいのです。
「人は先に過ちを犯せども後に過ちを犯さざれば、その人の世間を照らすこと、
雲を離れてひとり輝く満月の如し」という仏典の言葉があります。
現れては消えて行く実体のない現象界の出来事にいちいちとらわれることなく、
過ちを繰り返さぬ前向きな努力をしていけば、過ちを犯して、
それを自覚したがゆえにかえって新しく生まれ変わり、
今度はより立派な人格となり、世間の人々に光を放つ存在となれることです。
希望を与えられる言葉だと思います。


内奥の神の御心罪深き この身を通し示す現わす。
我が行為 神の御心あらわさん 父(神)の御心世に示さんがため

                               
           ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-18 00:12:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道


        ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

それまでは想念の厚い雲が実在界より来る神様の光を遮っていたわけですから、
この曇りがなくなれば現象界のほうにまでその光が届き、差し込んできます。
霊魂の器の内部に神我はあります。
表面意識のほうから見れば、いちばん内奥にある意識です。
想念の曇りを除きつつ奥に分け入ってはじめて到達できるのが、潜在意識の最深部にある
神の分け御霊としての神我であり、キリスト意識であり、宇宙意識です。
ところで、私たちの命のふるさとは、個別の霊魂の容器の彼方に無限に広がる大宇宙体を
つかさどる一つの偉大なる意識のほうにあります。
コップの口のあいたほうです。

肉体の五感に影響された理性、知性、本能、感情などから見て、神社仏閣や教会やお墓や
仏壇などを死後の世界とイメージで結びつけたがるのは、
単なる習慣上の思いにすぎません。
まったく想念が浄化され、なんのとらわれもない自在無礙の空そのものの意識になってしまいますと、
仕切り板がなくなったコップを常に神様から来る光がサァーッと突き抜けいく状態となります。
その時、この世の現象界にまであの世の実在界の光が完全に通り、
すでに心は自由にこの世とあの世とを往還できるようになっています。
この世に肉体がありながら、もはや心は肉体の五感にとらわれずに、自由自在に意識を働かせ、
宇宙大に意識が拡大しています。

こういう方を如来と呼びます。
如来という言葉には、「来るが如し」という意味があります。
それは、今説明させていただきましたような、あの世の実在界のほうから来た神の光その
ままであるということなのです。
つまり、この地上にあっても、肉体の五官に振り回されずに、神様の御心を行いに具現し、
その存在自体が神の御姿を如実に示し現わすことができたなら、その時その人の心は如来の心と言えます。
又、神人とも言えます。
心の奥にある神我に到達せんと心を磨き、
少しでも如来に近づく努力をしていこうとする人が増えれば増えるほど、
この地球世界は実在界の写しのような大調和した理想世界となってきます。
仏国土、ユートピア、神の国、地上天国などと呼ばれる世界です。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-17 00:27:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                  第三章 天上界への道


             ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

そのためには、今迄に述べましたように、思いのスモッグが晴れて、
生命のもとの神からの光が入ってこなくてはなりません。
その思いのスモッグが発生する場所は、図1(先日投稿)で説明しますと、
コップの中を二つに仕切っている仕切り板(想念帯と呼ぶことにする)のような思いの層となります。
だいたい一対九くらいの割合でコップの中の空間を仕切っています。
これを境にしてコップの開口部のほうが五官を超えたあの世、実在界、
反対の方向が五官の世界、この世、現象界ということになります。
五官の感官により生ずる思いの層には、
自己保存や自我我欲といった所謂エゴの生み出す煩悩もたまり、
それらが思いのスモッグのように厚い堆積層となって実在界から来る光を遮っています。
そこで、これがだんだん薄くなり、実在界のほうから差し込んでくる神の光が現象界の
表面意識にまで通りやすくなってくる必要があります。

それには自分の心を見つめる反省をして、自己の想念行為の過ちに気付かなくてはなりません。
想念帯には日々のいろいろな感情や考えが完全に行為に表わされ消えていかずにたまっていて、
過去に犯した過ち、思い出したくない不都合な出来事の記録、不愉快な感情まで
も押し込まれ、記憶の底に沈んだり、たまに浮上してきたりします。
それは丁度録音テープに記録されているようなものです。
心の発する叫びや独り言や雑音までも想念帯に記録されています。
また、遠く過去世にさかのぼる想念感情もあります。
すべて肉体の五官にまつわる想念感情です。
それが心に曇りをつくり、神の光を遮る原因となっています。
反省をしていくと、この部分に照明が当てられ、
しだいに沈んでいた想念が表面意識のほうに映し出され、浮かび上がってきます。
それを悔い改め、償いの善き行いを積んだ時、過ちの原因だった不調和な想念は、
明かりがもたらされて闇が去るように、
想念帯の中から消され、取り除かれてゆきます。


               ~ 感謝・合掌 ~



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