浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-05-31 02:17:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                講演集 一


       「心の法則を利用して感謝する」


一つ一つしか思えない人間の心をうまく利用したらいいのですね。
人様に尽くさせてもらう時には、その尽くす思いしか持てません。
また有難いなと思う時は、その心だけを持つことができます。
その時は不足は言えませんね。
宗教はすべて感謝を教えます。
感謝している時は、さっき言いました砂袋に砂を詰めることはできないのです。

「有難うございます、有難うございます」という感謝の心を持っている時は
愚痴も言えませんし、怒ることもできません。
また不足も言えません。
感謝しながら不足を言ったり腹を立てたりはできません。
一日の内で一時間、いえせめて五分間感謝し、有難いなあという時間を持たれたら、
その人の二十四時間のうちの五分間は心の中に魔が入って来ません。
もし一時間感謝の心を持ちますと、今日一日の中の一時間は安らぎの
時間が保てるわけで、その間に一切の苦しみの原因を入れることはできません。
心は一つしか思えないのですから、一生のうち今日の一日をすべて感謝に満たさせますと、
一生のうちの今日一日を心に曇る原因をつくらずに済むわけですね。
感謝は心を魔から守る武器です。

感謝には、そういう深い意義があるのです。
先程、神を信じるなら人を信じなさいと言いましたが、
そういう時間を少しでも長く持つことが幸せを守っていくコツであり、
幸せになる要領なのです。
苦しみに心を向けることをできなくさせるからです。
無理やりでも構いません、感謝の対象を見つけて、感謝していったらいいのです。
その時幸せになります。
そういう思いを長く続けますと、やがて自分の肉体は勿論のこと、
或いは環境、或いは経済的に、また商売や仕事の面で喜びに満たされてきます。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-30 02:19:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一


       「一つ一つしか思えない心の法則」


不思議なことに、人間の心というのは、
一つ一つしか思えないことになっています。
「いやそんなことはない、私は器用だから二つ思うことができるよ」
といわれるかも知れませんけど、そんなことはありません。
「ああ悲しいよう、ああ嬉しいよう」というように同時には思えません。
悲しい時は悲しいだけ、嬉しい時は嬉しいだけしか思えません。
「腹が立つなあ、やあ幸せだなあ」と同時には思えないでしょう。
幸せな時は幸せな思いだけですね。

禅定といって心を安らかにする修行をしておりますと、
最初はよく皆困るんですね。
今日は一度心静かに安らぎ、禅定の世界に入りたいと思って坐ります。
するとカタカタと誰か下駄の音をたてて道を通ります。
せっかく禅定しようと思うのに、うるさいなあと、まず心が動かされます。
次にあれは男の人かなと思い、あれは音が少し軽いから女の人だなあ、
どこの人だろうか、それは分からないけどその人は別嬪さんかいなとか、
身体つきは大きいかな、小さいかな、と心はもうとどまることを知らず飛び回ります。
しかし一つ一つしか追っておりません。
必ず一つずつしか心は動いていないのです。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-29 01:13:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


           講演集 一


       「信じ、褒めたたえ、愛する」


神様を信じるとよく言いますね。
いったい神様とはどんな方でどこにおられるお方ですかと
尋ねられたら皆さんは何と答えますか。
(参加者の中から)「環境一切天の声と言いますから、
見るもの一切が神様と思えば間違いないと思っています。」
それは結構ですね。神様を拝みたいと思えば身の回りのもの
すべてが神様ということですね。
神様がご主人であり、親であり、兄弟であり、
またお友達そのすべてが神様。
神様を信じることが人を信じることであれば、
人の悪口を言って一方で神様を信じるというのは、
おかしいことになります。

人それぞれの心に神が坐(ましま)す。
全部神の分け御霊です。
夫婦で喧嘩をしたら神様同士が喧嘩をしたことになります。
これは不調和ですね。
それでいて一生懸命信仰しているとしたらおかしなことです。
まず神を信じるとは、自分に縁ある方を信じることです。
「神を賛美せよ」と言いますが、賛美とは褒めたたえることです。
自分に縁あるすべての人を賛美、褒めたたえるのです。
良き所を褒めたたえることが神を賛美することです。
「神を愛する」ということは、自分の身の回りの縁ある人をすべて
愛することです。

奉仕することです。
これが神様に愛を捧げている姿になるのですね。
人間などは放っておけと言って神様を信仰し、
信仰しない奴は駄目だと言い、
信仰信仰宗教宗教という人がありますが、
これは通用しません。
私のように泥棒まで信じていたらいいのです。
泥棒に罰を当てないで下さいと言っていますと、
その時自分自身が
苦しみから救われます。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-05-28 00:31:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


              講演集 一


     「僅かな悪口に翻弄されて罪をつくる」


僅かのことで、あの人はああいうことを言うとか、
つい目の前に現れてくる出来事に翻弄されていきますが、
どんなことを言われても心から精一杯尽くした時、
また他から尽くしてもらえます。
それを「あの人はこうなんですよ、人に言うたらあきませんよ、内緒です」
と陰口をたたきますと、もう翌日にはちゃんと向こうに伝わっています。
すると又、あの人はいやらしいと悪口を言います。
自分が悪口を言われたければ、人の悪口を言えばいいのです。
忽ちに言ってくれます。
言ってほしくなかったら言わないことです。
ちょっとのことで心が動かされ罪を作っていくのです。


             ~ 感謝・合掌 ~







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「講演集」より。

2014-05-27 03:08:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一


      「自分を殺す者への許しを乞うキリスト」


「ただ、させていただく」自分を犠牲にしてさせていただくことです。
「究極の愛」というのは自分を犠牲にし、
自らを滅して相手を生かすことです。
イエスはゴルゴダの丘で十字架に上げられました。
イエスの話をしますが、私はキリスト教ではありません。
磔にあって大きい釘を手と足に打たれてあの十字架に上げられ、
しかも下から槍で突き殺されるのです。残酷な死刑ですね。

生きているのに釘を打ち込んで突き殺そうとした時、
イエスはこのように祈られました・・・
神よ、どうぞこの者達を罰しないで下さい。この者達は、
ものの正しい意味を知らないで、今この過ちを犯しています。
この者達の罪を許して下さい。この者達を罰しないで下さい」。
こう言って息を引きとられたそうです。

自分を殺している者の罪を許し、罰を与えないで下さいと言うのです。
これこそ究極の愛です。
ですから二千年経っても尚イエスを慕う地球上の何分の一かの方々が
キリスト教を信仰しておられます。
あの人が私をいじめる、などと言うのは、
凡そ関係がない些細なことです。
いじめられようが殺されようが尽くすことです。
この時、苦しみはなくなっていきます。


              ~ 感謝・合掌 ~








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「講演集」より。

2014-05-26 01:44:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一

先の続き・・・

亡くなられた時には、
生きておられた時よりも真にきれいなお顔になっておられ、
何とも表現しようのない程きれいで安らかなお顔だったそうです。
死後の硬直は全くおきず、身体がふわふわと柔らかくて冷たくならないので、
出棺の時、皆が火葬場に連れて行くのは惜しい、
勿体ないと思う程だったそうです。
私にはこういう心の友は多いですから、
その亡くなられた方をお送りしなければならない場合が多いのですが、
縁あるお方は皆さん、亡くなられた時、何とも言えないきれいなお顔になられます。

ちょうど観世音菩薩の掛軸のお顔のような、或いは阿弥陀様のような、
ああいうお顔になられます。
硬直は一切おきず、そして亡くなられた後がとても明るいのです。
普通は死後硬直がおきて恐ろしい顔になっていると、辺りがすごく
陰気くさいです。成仏されきれいなお顔でこの世を去られますと、
その後は大変明るくて陰気くささは一切ありません。
その奥さんから、「きれいなお顔のおばあちゃんを送らさせてもらいました」と言って、
亡くなられたその場ですぐに電話がありました。
しかも、「お陰様でで至らないけれど、自分にできるだけのことはさせていただいて、
私も幸せでした」と、この間訪ねて来て喜んでおられましたね。


              ~ 感謝・合掌 ~






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「講演集」より。

2014-05-25 04:24:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                 講演集 一


        「姑にできる限りを尽くした例話」


この間、大阪の資産家で財産が何兆円というお宅の若い奥さんと
ご縁がありました。
ここのおばあちゃんが先日亡くなられたのですが、
半身不随となって以来九年間寝たきりだったそうです。
この若い奥さんが九年間お世話をされたのですね。
いい加減くたびれます。しかもこのおばあちゃんは喜びが少なく、
一言も感謝の言葉を言われない。
それで「私は何の為におばあちゃんの世話をしなければいけないのか、
とてもつらいです」と言って、相談に来ておられたのです。

「おばあちゃんが喜んでくれてもくれなくても、或いは謗っても、
あなたは精一杯尽くしなさい。
喜ぶ喜ばないは関係ないので、自分にできるだけ尽くしてみなさい。
やがておばあちゃんがこの世を去られました時に、あなたはあんな
難しいおばあちゃんに、よくこれだけのことがさせてもらえたと、
御自身の心に満足感、喜びが与えられます。
それはおばあちゃんの為にするのと違います。
自分自身の為にするのです」と話しておりましたら、
お陰で自分の心が楽になって、
おばあちゃんが喜ぶ喜ばないは気にならなくなりました。

これだけのことをさせてもらおう、尽くさせてもらおうということで、
いよいよ亡くなられる前に私の話をテープ起こししたものを読んであげたり、
お話のテープを聞かせてあげたりしたそうです。
家の側におばあちゃんの実の娘さんもおられるそうですが、
娘さんがおばあちゃんの介抱に来られても、終わり頃にはもう受け付けない。
というのもお嫁さんが尽くしておられる程には、
実の親子でも尽くしておられないから、拒否反応を起こすのですね。
すっかりお嫁さんに頼って自分の娘よりも頼りにされたのです。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-05-24 02:46:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一


     「与えるが故に与えられる法則」


出せば入る法則というのがあり、この法則に従って
「私は与えるが故に与えられる」という言葉がありますね。
愛するから愛されるのです。
自分が愛さないのに一体誰が愛してくれますか。
自分が与えないのに誰が与えてくれますか。
もし不幸になりたかったら、
人を不幸にしてやったらいいのです。
すると必ず不幸にしてくれます。
相手から憎んでほしかったら相手を憎んだらいいのですね。
必ず憎んでくれます。これは法則です。
しかも避けることはできません自分が幸せになりたかったら、
まず身の回りの人を幸せにすることです。


        ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-23 00:55:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一


   「都合がよいとは誠心誠意尽くすこと」


都合の良い自分とはどういうことかと言いますと、
私達は自分の為に良くしてもらったら都合が良いのですから、
相手の為によく尽くすこと、尽くさせてもらうことです。

相手にどう思われようと、どうされようと、
とにかく精一杯心から尽くすこと、その時、
相手の為には都合が良いから、
必ず相手は「この人は必要な人だ、大事な人だ」と
思うようになっていきます。

イエスはこのことを「汝の隣人を愛せよ」とおしゃいました。
隣人と隣家とは意味が違います。
隣人とは自分の最も近くにいてくれる人、つまり夫婦であり、
親子であり、或いは兄弟、これこそ最も近くの隣人であり、
この隣人に尽くしなさいと言っているのです。

職場にあっては、職場の同僚の方、上司または部下の方、
商売をされる方は売って下さる方、買って下さる方にとって、
都合の良い自分になることです。
誠心誠意尽くすことです。その時、必ず自分が尽くされます。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-05-22 00:49:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


              講演集 一


       「自分に都合の良い人は好き」


では、好きになるにはどうしたらいいかと言いますと、
これは簡単な理論で割り切れるのです。
人間の心というのは、
地球上の全人類が共通して持っている思いがあるのです。
それは「自分にとって都合の良い方は全部好きで、
自分にとって都合の悪い方は皆嫌い」という思いです。
思いです。

皆さんの中で自分にとって都合の悪い人が好きだという方が
ありますか。
そんな人はありませんね。
都合の悪い人は嫌いという自分の心の行動からしていけば、
自分が相手にとって都合の良い人間になればいいのです。
出会う人すべてにとって都合の良い自分になっていくのです。
その時必ず、相手の方から好きになってもらえます。
これはまず自分から先にせねばなりません。
夫婦の間で、親子の仲で、兄弟の仲で、
都合の良い自分になることです。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-21 00:50:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


      「人生は出会いによって展開する」


世の中に生きていますと、人生は出会いによって展開してます。
オギャーと生まれますと、まず両親と出会います。
そして親は子と出会います。成長する過程においては、
友達と出会い、結婚する相手の方と出会い、
また子供を授かればその子供と出会います。

その出会いによって人は苦しみ喜びいろんな体験をします。
その出会う出来事によって私達は自分を不幸にし、
また幸せにしています。
喜びよりも苦しみのほうが多いのがこの世の定めです。
出会う人は都合の悪い人も嫌な人も出会うようになっているのですから、
その人達を全部好きになるように努力したらいいのですね。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-20 00:46:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一


       「自分を知ると相手が分かる」


自分で自分を知っているという方は案外少ないです。
自分とはどういう人間かということがよく分からないでいます。

自分とは一体どれほどの悪を犯した人間か、
どれほどの良いことを積み重ねたか、
自分の悪さえ気付かないというのが殆どですね。
自分の過ちに気付かないのです。

自分というものを一つ知った時に人の心を一つ知ることができます。
自分を二つ知った時に人を二つ知ることができます。
だから自分を十知った時にすべての人の十を知ることができます。
心とはそんなふうにつくられています。


         ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-05-19 06:46:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一


            「作善止悪}


日々の生活を正しく行じるとは、最も簡単に言いますと、
過ちをできるだけ犯さないように、
自分の良心に恥じることをしないことですね。
そして良き行いを少しでも多く積み重ねること、
たったそれだけでいいのです。
それで極楽へ行けるのです。悪しき行いをとどめ、
良き行いを積み重ねる「作善止悪」―――簡単なことです。
「三世の諸仏はすべてこれを説き給う」過去の仏も現世の仏も
来世の仏もすべてこの法を説かれるそうです。
悪をとどめるというのは先程言いました沙袋の中に砂を詰めない
ことですね。

そして善を行うと心が軽くなります。
日々の生活で一度自分の過去を振り返ってもらって、
自分にどれだけ砂が詰まっているかを今ちょっと振り返ってもらっただけでも、
自分が死んで行く世界は、ちゃんと分かります。
「自分は大分重い深い所へ行くなあ」とか、「自分は高い所へ行くなあ」
とか、しかしこの場にいる人で「死んで私は一番高い所に行けるなあ」
という方は一人もありませんね。
私は便利がいいです。

こうしてお話をさせてもらうと、ああこの方は地獄の一丁目へ行かれるなあ、
この方はどの辺りだなあということが皆見えます。
見えるようになっているのです。
お顔には皆証明書を書いておられます。
顔は心の看板です。
肉体とは魂の表現体、しかも目の玉は心の窓です。
こうして見ますと、心の奥底が皆見えます。
霊能力とか奇奇怪怪の能力とかいうのとは全く違うのですね。
五感を通してそれが分かるのです。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-05-18 00:31:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一


          「内在された知恵」


今日のようなお話会も、ほんとうにあちこち招いていただきますが、
今日はこの場所でこういう話をさせてもらおうとかは一切私は思って来ません。
全く何も考えないで来ます。
そして長い時は、朝八時からお昼までと、会場は変わりますが、
午後一時から夕方五時までと、そのあと夜七時から十一時までというように、
日に三回お話をさせてもらいます。

この会場から次の会場へ行かせてもらう道中は、
皆さんと楽しい話をしながら行きます。
何も話すことについては考えません。
皆さんの心の段階に応じた話しが自然と出て来ます。
これは内在された知恵ですね。
そういうことが自然と分かってくるのです。


         ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-05-17 00:34:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


              講演集 一

先の続き・・・

「般若心経」も有難いと言いますけど、あのお経の意味をちょっと説明させて
もらったのです。
「摩訶般若波羅蜜多心経」は「マーハ パニャーパラミターストラ」と言い、
その意味は「心の奥底に内在されている偉大な智慧に到達する心の教え」ということです。
摩訶はマーハ、偉大、般若とはパニャ、智慧です。
波羅蜜多は「腹を見た」のではなく、パラミター、到達するという意味、
心経は心の教えです。

「観自在菩薩」とは過去・現在・未来を見通す能力を持たれた仏を目ざして
修行されるお方のこと、そのお方が正しい生活を日々深く行じられた時
「行深般若波羅蜜多」なのです。「照見五蘊皆空度」の照見とは照らして見ること、
ブッダは人間を観察し、人間を五つの部分に分けられました。
色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)識(判断・理性)。
色は人間の肉体つまり物質的要素で、受想行識は精神的要素、心の作用で
この五つを五蘊といいます。

その五蘊はみな、空なり、つまり実体がない、と説かれています。
その話をちょっとしますと、院主様は突然ハッと正座されまして
「先生は一体何年修行されたのですか」今迄とはうって変って急に先生と言われたのです。
「いえいえ、私は何も修業はしておりません」と言いますと、
「恥ずかしいことだが、私は坊主をして八十年になるけれど、
先生が今説いて下さったことを知らなかった」とおっしゃるのです。
寺門のプロのお坊様がそれを知らないで素人の私が知るということは、
これは不思議ですね。
日々の生活を正しく行じますと、
こういうことは習わなくても勝手に分かってくるのです。


              ~ 感謝・合掌 ~



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