浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2022-04-30 00:30:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一

    「思い」の力と「言霊」の力

想念、思いはものを造り出すのです。
まさに「思いはものを造る」といって、
人間の思いはものを造る力を持っています。
悪いことを思ったら必ず悪いことが起こってきますし
良いことを思えば良いことが起きる。
思いはエネルギーです。

常に建設的な安らかな思いに心を満たしていくことが大事ですね。
心配はしたらきりがないものです。
できるだけ正しく、
できるだけ過ちのない思いを常に描くようにすることです。

私の幼い頃の友達で、
恵まれた人だったから神も仏もないという考えの人がいました。
ところが、
肝硬変になって寝たり起きたりの生活をしておられました。
この人がお医者さんから肝臓が悪いと言われて、
お医者さんに病状をいろいろ尋ねるけれど、
余りはっきり教えてもらえない。

そこで心配して医学書を読みあさり、
更にお医者さんの勉強する本を借りて来て、
肝硬変について勉強を始めたのです。
初期、中期と経て末期症状になると、
手に持った箸がポトッと落ちると書いてある。
恐ろしいなあと思っているうちに、食事の時、
箸がポトッと落ちた。

それを「ああ私はもう末期だ、いよいよあかん」と思って、
お医者さんに箸が落ちたと話したところ、
「そんなことはない、あなたはそんなに悪くないですよ」と言われて、
その途端に病気が治ったというのです。

そんなもので、余計な心配で悪いように思ってくと、
実際に悪くなっていくもので、
非常に恐ろしいことです。
しかも、もっと恐ろしいのは人の言葉です。
言葉は「言霊」といって物凄い力を持っています。

ましてや信じた人の言葉は余計に強いものです。
私を信頼してくれていた或る方が、私より偉い方があると聞いて、
その先生の所へ掛かって行かれました。

私は全く自然のままに生きさせてもらっていますから、
私のほうに来ていただきましたら、
どなたが来て下さっても平等にお迎えします。
しかし去って行く人はあとを追って行きません。


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「御垂訓」

2022-04-29 01:05:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一

        「心が主で肉体は従」

ある方から相談を受けました。
私は元来、餅肌のように白く綺麗な肌をしていましたが、
こんな蟇蛙のようにブツブツいぼのある体になっています。
O大学の皮膚科の偉い先生に診てもらいましたら、
これは目に見えない霊にとりつかれているのだから、
医者では治らないと言われました」というのです。
私もその背中を見せてもらいましたが、
何とも言えない不気味な感じです。

そこでいろいろと心の持ち方について話させてもらいました。
その方は「心を入れ変えます」と言われるので、
「では神様にお願いしてみましょう」と
祈らせてもらいましたところ見ている前で
すっかり綺麗になったのです。

こんなことを言いましても、「瞬間に消えたなんて、
そんな馬鹿な」と言って信じてもらえないでしょうが、
私もわざわざ嘘をつきにここに来ているわけではありません。
また、こういうこともありました。
二十四、五歳の耳の聞こえない女性の方が来られました。
生まれつきの難聴なのですが、
電話などとてもかけられなかったその方が、
やはり心の持ち方を変えて治療をさせてもらいますと、
その場で電話で話ができるようになったという
不思議な現象も現実に現わしてもらいます。

それは心の在り方を変えた時に、奇蹟が現れるのです。
今まで痛い痛いと言っていたのが消えるのは、
心というものがいかに大切かということを示しています。

心の持ち方や、自分の思うことぐらいでまさかと思われるでしょうが、
私達の肉体を支配している心が変な方向に向かっていたら、
肉体もまた変な方向に向かうのです。
心が主で肉体が従です。
皆さんにこの会場に来ていただいたのも、
大阪からこういう人が来ると聞いて、
心が納得してその日を待って下さったからこそ、
おいでいただけたわけです。

心で決めて集まって下さったからこそ、
今こうしてご縁がいただけたのですが、
もし「私はそんな話は聞きたくない」と心で決定を下したとしたら、
この場には来られません。


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「御垂訓」

2022-04-28 00:43:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


              講演集、 一

            「反省の一例」

道場のほうに「反省させてください」
といって次々に訪ねて来られます。
最初はどなたも皆「私は何も間違いをしていませんが、
なぜこんなに苦しい目にあうのでしょうか」と言われます。
「幼い時から一度ふり返ってみて下さい」と言って、
反省をしてもらいます。一日や二日ではなかなか出て来ません。

ずっと続けて反省されますと、あるお方の場合は小学校低学年の頃に
お母さんの財布から十円盗んで、
それでお菓子を買たことを思い出されたのですね。
こんなことは反省をしなかったら、
全く記憶の底に沈んでいるものです。

そして、その部分について深く掘り下げて行ったのです。
なぜそういう行為をしたか、なぜ十円盗んだか、
その時にお母さんがどんな思いをされたか、
十円盗んだことをお母さんは知らないでおられたか、
もし知っておられたらどんな思いをされたか、

それらをよく考えて下さいと言って、
その方は翌朝までそのこと一つに
絞って反省をされたのです。
そうしますと、
お母さんはわが子のことはどんなことでも知っていて下さいます。
子供は隠してしたことであってもお見通しです。

お母さんが、わが子の十円盗んだ行為について思うことは、
「今ここで注意をすべきか、或いはお父さんに話すべきか、
このまま放っておいたら又繰り返すのではないだろか、
家でお金をきちんと片付けたら、

今度は他所のお金に手をつけはしないだろうか」ということです。
ましてや終戦間もない頃で、
お母さんは買い出しをしておられたそうですが、
その買い出しの大事な十円だということに
この方は気付かれたのですね。
反省しておられる部屋に私が入ろうとしましたら、
その方は大きい声をあげて泣き叫んでおられたのです。
その泣き方はまるで幼い子の泣き叫び方をして泣いておられました。

それでもう少し泣いてもらおうと思ってそのままにして、
私は部屋の外に出まして、
その後、もうこれくらいで自分の過ちに気付かれたのだからと思って、
「どうかこの方の罪をお許し下さい。
この方は今自分の心に目覚められました。

この方の過去をお許し下さい」と祈りますと、
泣き声はピタッと止まりました。
私が部屋のなかに入って行きますと、
「お母ちゃん堪忍してや、堪忍してや」と全く幼い子のように
繰り返していました。自然にこういう文句が出てしまうのです。

この方は十五、六年来、腰から下が筋無力症で全く動けなくて、
松葉杖で歩いていても足を交互に振り出すようにして歩いておられました。
その足が動きだして、
全く健常者とはいきませんが歩けるようになったのですね。

反省をさせていただくことによって、
現代医学ではどうすることもできなかった
下半身不随の筋無力症の病気が治ってしまったのです。
自分の中にそんな心の原因があったとは、
まさかその方も思いもかけなかったでしょう。
しかし「反省」によってこんな不思議な例も見せていただけます。

私も幼い頃を反省して泣き懺悔をさせてもらいましたが、
本当に反省をさせてもらいますと、涙が滝のようになって出て来ます。
そして鼻水も出て来ますけど、鼻水も涙も拭う間もありませんね。
私達の心の中に知らずに曇ってしまったスモッグを、反省することによって
晴らすことができるのです。
反省は、お釈迦様が私達を心の苦しみから救う為にお説き下さった心を磨く
一つの方法です。


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「御垂訓」

2022-04-27 00:17:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


            講演集、 一

      反省の体験

私は十年前、
山の中で四日間程坐って反省をさせてもらいました。
「お母さんと自分」について反省をさせてもらいました。
ずっと幼い時から振り返ってみますと、
お母さんにはいろんな恩恵をいただいております。
しかしそれに対して私がどれだけのお返しをできたか、
いただいたお母さんの無償の愛に対して、
その万分の一のお返しもできていません。

それどころか、心配をかけたり、
嘘を言ったり、けがをしてお世話をかけたり、
病気の時にはずっとわが子に付き添ってくれた、
そういうお母さんに対して自分が幼い時からしてきたことを
振り返ってみますと、もう、申し訳なくて、
羽があれば今すぐ飛んで帰ってでもすぐにお詫びをしたい、
という心に目覚めてきたのです。

親からいただいたご恩というのはどれ程お返ししても
お返ししきれないものですね。
しかしそれを当たり前のように思っていました。
感謝することも知りません。
そのお母さんに対してせめて万分の一のお返しでも
させていただかなくてはいけないという心に目覚めてきたのです。
これが反省の功徳ですね。

そして山から降りてたまらなくなりまして、
お母さんに電話をかけました。
私もその時は子供が大きくなっておりましたから、
おばあちゃんと呼んでいましたが、
幼い時の記憶に戻って反省をさせてもらいますと、
自分の心がふっと幼い子のようになっていました。

電話をしますと、幸いおばあちゃんが出てくれたのですが、
幼い頃私達は「おかちゃん」と呼んでいましたので、
それでおばあちゃんの声が電話に聞こえて来ますと
「おかちゃん堪忍してや、堪忍してや、とても申し訳ないことでした」
と泣いてお詫びをしたのです。
自分では、
そういう反省をさせてもらうまでは全く気付かないでいたのです。
反省を通してお母さんだけではないですね。
夫婦の場合もそうです。子供に対してもそうです。
その至らない、できていない自分に目覚めるのです。
そして今度はその償いのために善を行っていけば、
それは必ず幸せにつながっていきます。

「家内と私」についても反省させてもらって、
目覚めました時には、もう二時間ぐらい泣き続けました。
ちょうど三月頃で、パッチ二枚とジャージのズボンを穿いておりましたが、
目を開きますと、目に最初に入った二本のものがあり、
これは何だろうかと思いますと、鼻水が切れないで繋がって垂れていたのです。
涙と、その鼻水とでズボンもパッチ二枚も濡れて、
座布団までボトボトになっておりました。

反省というのは、深く入りますと、自分の過ちの深さに目覚めた時に、
涙と鼻水でグチャグチャになってしまうものです。
そのような反省の涙は、自分の魂の汚れを流してくれる法の雨です。
常に反省し反省させてもらうのです。



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「御垂訓」

2022-04-26 00:49:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 ~ 恩師の「講演集」より ~


          講演集、 一

   「自然界さえ証明してくれる――例Ⅲ」

こういうこともありました。
これは大阪の柏原市という所に行って
お話をさせてもらった時のことです。
チューリップの固い蕾の細長いのを十五、六本
生けていただいておりました。

「まあ綺麗なチューリップを生けて戴いたのですね」
と坐らせていただいたのです。
私は近くの場所にお話しに行きます時は、
自宅からウイスキーの瓶を持って行きます。
その空瓶には「あなたさまの愛を恵まれない不幸な方にどうぞ。

私も実践しております」と書いて貼ってあるのですが、
五円、十円、一円或いは千円と思いのままに入れて下さっている瓶で、
そのままさげて出掛けます。
お話の受付の所に置いておきますと、
会場の皆さんが又思い思いに入れて下さいます。

私自身はびた一文いただきません。
一杯になりますと、福祉施設とか身寄りのないお年寄りや赤ちゃんの
世話をしていただいている施設に寄付させてもらうのです。

幸い大きな瓶二本が一杯になりましたから、
これをその市の福祉の方に使ってもらって下さいといって
預けたのですね。
その時にもしも神様がいて下さったら、
その神様は私達に何をしてもらったら一番喜んでいただけるでしょうか。

本当の神様は私達よりもまだ恵まれない不幸な人の為に、
お金や物を用立てさせてもらった時、「よくしてくれました。
私はその思いでいっぱいだけれど、それを形に表すことができない。
私の心をあなたはよくやってくれた」
と言って受け取って下さいますと説明しておりますと、
今まで固い細長いチューリップの蕾だったのが、
一斉に全部開きました。

「皆さん見て下さい。私が話をさせてもらいますと、
こんな植物も私の話が間違いないということを証明してくれます」
ほんとうに全部の蕾が一斉にパッと開いたのです。
そしてチューリップの茎というのは、
皆さんもご存じのように生けると首が重たい為に皆曲がっています。

それが見ている間に全部スーッと立ちあがって、
しかも一本だけはこういう形だったというのを示して曲がっていました。
あとは全部ピンと立ち上がりました。
そういう不思議なことを現象として見せていただくことがよくあります。

自然の法の中に生活しました時、自然界さえ変えるといいますか、
普通の現象界では考えられないような不思議なことを見せてもらいます。
それは何も難しいことではなく、山に入って厳しい行をしたり、
護摩を焚いたりというそんなものはいっさい要りません。
日々の生活の中で安らかな調和された気持ちで正しい法の中に
生きる――簡単なことです。

あとから実験してみて戴きますが、
胃の下がっているのも一度に治ります。
これは医学では考えられないことですし、
医学では決して治らないことです。


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「御垂訓」

2022-04-25 00:39:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


         講演集、 一

   自然界さえ証明してくれる――例Ⅱ

去年、奈良県の当麻という所にお話しに参りますと、
会場の机の上にそこの奥さんがバラを
一輪ざしに生けて下さっていました。
私は気が付かなかったのですが、坐らせてもらって暫くすると、
そのバラがパーッと開いたのです。

そんなに固い蕾が急に開いて、その葉のグリーンといい、
花の色といい、水の中に漬けたのを今取り出し、
水がしたたり落ちるような瑞々しさになったのです。

夕方五時に話を終わらせてもらって、
近所のお宅のお仏壇に参って欲しいと言われ、
暫く皆様に待っていただくことにして、私が会場を出ますと、
そのバラが元に戻って蕾になってしまったそうです。
あの満開に咲いたバラが萎むなんて

何と不思議なことがあるものだなあと話し合われたそうです。
そこへ用事が済んで私が会場に戻って席につきますと、
またパッと花が開いたものですから、皆さんはもう呆れてしまわれて、
それを見られた方はひどく感激すやら、呆れるやら、
えらいことが起こるものですねえとびっくりされました。


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「御垂訓」

2022-04-24 00:34:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


     「自然界さえ証明してくれる――例Ⅰ」

安らかな気持ちで本当に法の中に生活しました時、
自然界さえも変わってくれるのです。
現象が起きるのですね。
日本国中雨雲にぴったり覆われている時に、
ひまわり衛星によると雨の確率百パーセントと
テレビで言っておりましても、
お話に招いていただきましたら、
必ずといっていいほど天気になってくれます。

自然界が変わってくれるのです。
前回山口に寄せてもらいました時も、
連日の雨降りで、
山口県下でも水害の出ていた時に招いていただきましたら、
その日はものすごく良いお天気でした。

そのあと長門のほうに行きまして、
私が帰りましたらまたドシャ降りだったそうです。
どこに行かせてもらいましても、
お天気は殆ど守って下さいます。


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「御垂訓」

2022-04-23 00:35:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


            講演集、 一

お釈迦様は「中道」という道をお説きになりました。
真ん中を行きなさいと。
それはお釈迦さまがウルヴェーダーで苦行をされた時に、
「私ほど厳しい行をした者はこの世始まって以来ないであろう」
また「私のあとに私ほどの苦行をする者もないであろう」
と言われたのですが、それ程の厳しい行をされました。
死の寸前までいかれた時、肋骨はすべて浮き出し、
肋骨の上に血管がみみずのように這いまわる程
痩せ衰えてしまわれました、

そんな在る朝、ネーランジャラ川の水面に映った自分の姿を見ると、
まだ三十歳半ばであるのに、
九十歳とも百歳とも思えるような姿が映って見えたのです。
「このまま行けば命はもういくばくもないだろう。しかし、
もし死んでしまったならば、この世に生まれた目的が分からない。
死んでしまっては何にもならない」

と思われた丁度その時、川上の方から天女のようなすばらしい声で
「絃はきつく締めたら切れてしまう。弱く締めたら音色が悪い。
中ほどに締めれば音色が良い。絃に合わせて歌えや歌え、踊れや踊れ」
という歌声が聞こえてきました。
この時にお釈迦様は次のようなことがお分かりになったのです。
「私は以前、あのお城の中で栄耀栄華を極めて暮らしていた
(釈迦は元々王子であった)。

肉の林の如く多くの女性を側に侍らせて酒の池に遊んでいたが、
その中では悟ることはできなかった。
これではいけないと思って今度は厳しい修行を重ねて一心に
苦行をしたけれども、その果てに危うく死ぬ所であった。
そのいずれの両極端に片寄ってもいけない」と。
「両極端に片寄ってはいけない」ということはすべてに通じることです。

例えば食物についても、量はそれ程たくさんは要りません。
ご飯もお茶碗一杯あれば良いし、
おかずも片寄らないようにまんべんなく食べるようにして下さい。
そして感謝していただくことです。
不足を言っていただいたら、どんなご馳走も身につきません。
すべて生きた生命をいただくのです。

米粒一つも野菜も魚肉もすべて新鮮な生命をいただくのであり、
その命に対し感謝をして下さい。
「日々の生活の中で業に報いさせていただきます。
この喜びに対して何分の一かのご恩返しをさせてもらいます」
と言って食事をいただくと、すべてが身体にとって薬となります。
宗教においても同じです。余り打ち込むのも、
また無神論者になるのもいけません。

思想についても、共産主義に陥っても資本主義に陥っても両極端です。
よくストレスが溜まると言います「歪」という字を当てますが、
それは心をひずますから、しんどくなってくるのです。
心を丸くしてひずませないように、何事も片寄らないようにすることです。
私が今こうして話していることを初めから全部信じてもらわなくても
いいのですよ。

まず疑問を持って、これは本当だろうかと検討してみて下さい。
どちらから見ても本当ならば信じていただいたらいいのです。
盲信、狂信は阿片と同じです。


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「御垂訓」

2022-04-22 00:40:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
~ 恩師の「講演集」より ~


          講演集、 一

      「得難く尊い夫婦の縁」

人の命は、明日の命の保証をいただいている者は誰もありません。
私も今日ここに寄せてもらいましても、
明日そこらで車にはねられてしまったら、
この世から消えなくてはいけない存在です。
これは皆さんも同じことです。

あなたは何歳まで生きさせてあげましょうという
保証は誰もいただいておりません。
ですから悔いのない一瞬一瞬を努力することが大事ですね。
私は十年前に四十半ばで家内を亡くしまして、その後、
幸か不孝か忙しい独身生活で、

俗の一般の生活から離れて、清らかにいっさい正しく生きております。
家内が亡くなりました時、私自身ほんとうにできが悪かったのです。
家内に対してもいろいろ迷惑をかけましたし、大事にすることもなく、
口を開けば喧嘩ばかりしておりました。

そのような家内でも亡くなった時は、
実に自分の身体を半分ちぎって持って行かれたような感じがして、
もう何をする気もありませんでした。
喧嘩して常に争っているような夫婦であっても、先立たれてしまったら、
身体が半分ちぎれてしまったような侘しさというのでしょうか、
これはもう体験した者でないと分からないですね。

私は「さつき」の鉢を庭にたくさん置いていますが、
そのさつきが咲けば家内にきれいだなあと言って欲しかったのです。
それは死んでしまった後に分かったことです。
死んでしまってからは、一体何の為にさつきの手入れをしているのか、
見てもらう人もいないのに、
ぜ自分はさつきに水をやらなければいけないのかと思いながら、
水やりをしたことがあります。

夫婦の縁といいますのは、
私達が生まれる前の天上界で
「どうぞ魂の修行に出たら夫婦となって共に修行をいたしましょう」と
ご縁をいただいているのであって、
この世ではまるで別々の環境や習慣の中で生活をしていても、
約束の時が来たら、めぐり合うようになっています。
ある場合は恋愛の形で、ある人の場合は仲人さんを通して知り合い、
結婚します。

その時には既にその子供となる者がちゃんと約束されています。
親子、夫婦、その子供という約束ごとは、
この世に出る前に既に決められておりますのに、
生まれ出たらその約束を全部忘れてしまって、
「本当にうちの主人といったら・・・」とか、
「うちの家内は全く・・・」と文句を言って、
夫婦としての尊いご縁をいただきながら不足を言って、
何とも思わずおろそかにしています。

考えてみますと、
僅か五万分の一の宝くじがなかなか私達の手には入って来ないです。
宝くじを買って「私当たりました」という人を余り聞きません。
あの確率たるや五万分の一になっていないのですね。
では夫婦のご縁はどうでしょうか。

この地球上に四十五億人からの人口があるそうです。
その中の半分は女性、半分は男性の方ですが、
世の中がこんなになって、
早い方は中学校で赤ちゃんを生んだという世の中です。
また男の方が男のお嫁さんを持ってみたり、
女の方が女のご主人を持ってみたり、世の中はまさに末法です。
何をするか分からないこの時代ですね。

こういう見方からすると、
夫婦のご縁というのは実に四十数億分の一の確率で、
この地球上に生まれた男と女が夫婦のご縁をいただくのです。
いかに得難いご縁かということですね。

この得難いご縁をいただきながら、
私達はお互いを粗末にして文句の言い合いをして、
幸せを失っていきます。
この世に自分の魂を磨く為に生まれ、それは幸せにつながるのですが、
この世での修行が終わりますと、つまり死んだ時に、
私達はこの世界はほんとうの研修会場であったということを悟って、
元のふるさとに帰ってこそ、成仏ができるのです。


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「御垂訓」

2022-04-21 02:40:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


             講演集、 一

         「三位一体の現象」

イエス様は地方を歩いて野原で、又家を借りたり、
馬小屋を借りたりして方々で話をされました。
偉大な方なので霊視がききますから、
妙なものに憑依されている人が話を聞きに入って来るなり
「サタンよ去れ」と厳しく言われるので、
その取り憑いているものが驚いて逃げる際に、
取り憑かれていた人が吹き飛ばされて倒れたりしました。

そこで、取り憑かれていた人は、自分が入って来るなり、
自分に向かって、「サタン(悪魔)」と
言われたのか思い違いをした為に、
イエスは人々から反発を買うことがよくあったのです。
私の場合は、取り憑いているものがあれば、
「どうか私の中に来なさい。

その方に取り憑いていては、あなたは救わないから、
その人から離れて私の中に来なさい」と言って、
私の中に招いてあげるのです。
すると取り憑かれていた方の具合がホット良くなる。

私はそれを受けたままにしておくと
自分が苦しいから、神様にお祈りして、
本当に帰って行かれる世界に連れて行っていただくのです。
その時、相手の方も救われるし、また私も関係がなくなり、
神様が連れて行って下さるのですが、

このことをキリスト教では三位一体と言っています。
これは特定の私にだけしか出来ないのかと言いますと、
そんなことはありません。
自分の心をしっかり持ち、心を調和し、
自分の心を知って悟ったならば誰にでもできます。

こんな私にも三位一体の現象は見せてもらえます。
ただ人間はそれぞれ皆神の子として生まれ、
尊い魂を持っているのに気付かないでいるのです。


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「御垂訓」

2022-04-20 00:31:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


             講演集、 一

         「自分の間違いに気付く」

今まで、自分が正しいと思っていたけど、
とんでもない間違いだったと気付いた時に人は救われていきます。
不思議なもので、私は間違いない、
私は正しいと思っている間は皆苦しんでおられますね。
申し訳なかった、

私は悪うございましたと言って自分の非に気付かれた方は、
苦しみが少なくなっておられます。これは人間の真理であって、
私達の常識と人間の心の中とは反対なのです。
例えば、つまらないことで人の半分ぐらいしか知らないのに、
人の十倍も知っているように自慢する人があります。
偉そうに自慢するといのは一番損な行いです。
人はつい自慢したがる。

自分が偉いと思ってのけ反りますと、
人の心は「なんや、あんな奴」といって、
周囲から引き下ろしにかかります。
自分が上がったら必ず引きずり下ろされます。
できた方が私は未熟者ですと言って下へ下へとさがられますと、
今度は周囲がその人を持ち上げようとします。
自分の思いとは反対になるのですね。

自然界は常に「低く低く生きよ」と教えています。
田の稲穂は実れば実るほど穂を垂れてきます。
「実るほど頭の垂れる稲穂かな」これは自然が教えてくれているのです。
あの垂れた稲穂の中に、つっと立っている稲穂は、籾を開けますと、
中は空っぽです。

若い間に雀が栄養を皆吸ってしまって滓だけが生長して立っています。
ところが実った穂は必ず頭を垂れていますね。
頭を上げている中でも、一番愚かな人は、自分の財産を誇る人です。
これは、より多く持っている人から見たら、
「あの人はあれだけしかないのか」と笑われますし、
自分より少ない人から見たら今度はやきもちを妬かれます。
嫉妬を買って損をします。

自分が過ちに気付いて、その過ちを悔い改めた時、
その罪は許されます。
キリストは「悔い改めよ。汝の罪は許されん」とおっしゃいました。
お釈迦様はこのことを仏教を通して次のように教えて下さいます。
「先に過ちを犯すとも、後に過ちを犯さざれば、
その人の世間を照らすこと、雲を離れて一人輝く満月の如し」と。
私達は先に過ちを犯しても、
のちに犯さなければ世間を照らすことができるのですね。
しかし、過ちを何回も犯したら何にもなりません。


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「御垂訓」

2022-04-18 11:43:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


先の続き・・・

この話をしますと、その霊が「嘘をおっしゃい。
それならば死ななくてはいけません」と
ひどいことを言います。
「神とは自らの命捨つる者に命を与え、命求める者の命を失う。
自分を捨てた時、神は命を与えて下さいます。
あなたは正しくなかった」と言って懇々と話しますと、
「なぜ私はこのように苦しまなくてはならないのか分からない。
どうぞこの苦しみの原因を教えてほしい」と、
やっと目覚めてくれたのです。

この人が、そのように人に尽くし、尽くし、また人を愛し、
愛して間違いのない生活をしていたのに、死後なぜ、
地獄の生活をしておられたのか。
それは、人様の為に尽くして自分がすばらしかったら、
人様も皆すばらしいと思っておられたのですね。
しかし、この世に生まれる前は、皆次元の違う世界にいて、
それぞれの所から生まれて来ている。

すばらしい世界にいた人は、人の難儀しているのを見て放っておけない。
しかし次元の低い世界の人は、
人から恩を受けても平気で裏切っていきます。
人の為に必死で尽くしても、人は平気で裏切っていき、
その都度この方は夜も眠れないぐらい苦しんでおられたのです。

「どうしても分かりません」とおっしゃるので、
それではあなたが地獄へ行っておられる謎を解いてあげましょう。
それは、あなたはお人が良かった。
貴方自身魂の次元が高かかったのです。
まずそのことを知りなさい。

それで難儀な人や苦しんでいる人、
不幸な人を見ると放っておけなかった。
人の苦しみを救おうと一生懸命に尽くされたのです」
「その通りでございました」「あなたは自分がすばらしいが故に、
他もすばらしいと思っておられる。

しかし魂の次元はすべて違うのですから、あなたがいくら尽くしても、
次元の低い人は、低いが故に人の世話にならなくてはならない。
魂の次元の高い人は、人から世話になれば必ず恩返しをいたします。
しかし低い方は低いが故に平気で裏切って行きます。

あなたの大きな間違いは、魂の次元を同一と見たことにあります。
その時にあなたの心はいかがでしたか」と聞きますと、
「尽くし切って裏切られた時、
この胸がはり裂けるぐらいの苦しみを味わいました」と言われます。
しかもあなたは一度で止めておけばいいのに、
自分の魂の性ゆえにそれを止めることができず、

裏切られても裏切られても人の為に尽くし、愛し続け、
善なる行いの数が多くなると共に、裏切られる数も多くなっていき、
あなたはご自身の心を数多く苦しめてこられました。
その苦しみが、あなたが地獄に行く原因となっています。
そのことを知りなさい」と言いますと、
「この世はつれないものでございますね」と言って泣いておられました。
「この世には、嫌いな人で、あんな嫌いなと思うような冷たい人が
幸せに暮らしている場合がありますが、

それは他人が苦しんでいても悲しんでいても見向きもしない
次元の低い人であって、他人に対して親切はしません。
従って裏切られることはないから、自分の心を苦しめることもなく、
案外この世的にうまくいくのです」と説明させてもらいましたら、
「よくわかりました、私が間違っていました」と言って、
自分に目覚められました。

「私を安らぎの世界へ導いて下さい」とご本人が目覚められましたから、
「では、私がほんとうの神様の使いとして、
あの光の世界へお送りしましょう」といって、あの仏教でいう極楽ですね、
私達がこの世に生まれて来る前に住んでいたすばらしい世界へ
送らせてもらいました。

その苦しみの心の罪は、腹立ち、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、
そして嘘をつくことです。嘘を言うのも、ひどく自分の心を苦しめます。
どんなに上手に嘘をついても、
自分では嘘をついていることを全部知っています。
自分に嘘はつけません。いかに天才の嘘つきでも、
人は騙せても自分は騙せないのですね。

これは神の証しです。
嘘をつけば必ずばれてくるようになっていますから、
人にばれるのではないかと恐れ、
もしばれたら又次の嘘をつかねばならないことになって、
自分の心を苦しめます。心の罪を犯してはなりません。

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「御垂訓」

2022-04-17 12:38:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


            講演集、 一

   「善行のあと心を苦しめる―――例Ⅱ」

先日、岐阜へ招かれた後、
夜七時頃から愛知県の犬山で三時間お話をさせていただき、
そのあと身体の不調和な方に一人ずつ光を入れて、
心を直してくださいと治療をしていただいたのです。
すると一人の方が急に身体が揺れて唸り出されたので、
あなたはあとにしましょうということで、
他の皆さんの治療を先に済ませたのです。

もう夜中の一時でしたが、順番が回ってきて、
その方にどうか光をお与えくださいと
お祈りをしていました。
するとその方に霊が憑依してきたのです。
髪の長い四十歳前後の女の方で、
汚い鼻汁を流してひどく泣いています。
その泣き声の気持ち悪さは、この世のものではない。
ヒーヒーという凄い声で、私のほうにすがり寄って来られるのです。

「どうしてあなたは成仏できないのですか。
なぜ迷っておられるのですか」と尋ねますと、
ぼちぼちと生きていた時のことを話し出されました。
その方は生前カトリック系のキリスト教を信仰され、
教えの通りに人様に心から尽くし、
また人様を心から愛して、
教会には必ずお参りをして一度も欠かしたことがなく、
何一つ間違いのない生活をしてきたそうです。

それなのになぜ迷っているのか、
自分でも分からないと言われるのです。
自分は完全に生きたと思っておられるのですね。
この方は最初私に対して「欲しいんでしょう?」
と面白いことをおっしゃるんです。
お金が欲しいんでしょうと言っているのですね。

「私は何も求めません。
求めるものは何もありません。
ただあなたが救われてくれたら、それでいいのです。
いっさい求める心はありません」
と言いますと、「嘘をおっしゃい。
あなたは求めている」と、また言われます。

「あなたは神の光を求めているのでしょう」と
言っているのですね。
それで、「私は求めません。
しかし、神の光はすでにいただいております。

あなたは目覚めなさい」と言いましても、よく勉強しているので、
なかなか分かってくれなくて、私の言うことを聞いてくれません。
「私は尽くして尽くして、その愛の故に身を滅ぼした」
と言いますから、「ではあなたはなぜ苦しむのですか。

私の心には何の迷いも苦しみもありません。
あなたはそれほど信仰厚くして、
なぜ迷い苦しむのですか」と言いますと、
私に対して「お前にこのような生き方ができるか、
愛の為に自分を犠牲にすることができるものか」と言うのです。

「恐れ入ります。
私にもかつてこのようなことがありました。
まだ六、七歳の幼児が小児癌にかかって、
その母なる方からどうか助けて欲しい、
この子は医者から見放され、
命はもういくばくもありません、と頼られ、
私はどうすることもできず、その晩神様に祈りました。

私には癌の子供さんを救う力はありません。
しかし私の過去五十年を振り返りますと、
もう十二分に生きさせてもらいました。
喜びも十二分にいただきました。

それに引き比べてあの六歳の子が、
今まさに息を引き取ろうとしています。
もし許されることでしたら、私の命を今召して下さい、
私にこれから先、何年許される命か知りませんが、
その私の命をあの子に譲って下さい。

どうぞ今私の命と引き換えにあの子を救って下さい。
その時、私も今この世を去らねばいけませんから、
感慨無量になって泣いて泣いて祈り続けました。
するとその子の癌が消えました。
瀬戸内海の家島の子供です」

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「御垂訓」

2022-04-16 12:24:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


             講演集、 一

    「真の愛とは―――その愛の実践」

キリストは「汝の隣人を愛せよ」と言われました。
最も近い隣人である夫婦親子を大事にしなさいということですね。
では「愛」とは何でしょうか。
ある迷っている霊が出てきた時、
「愛の本質が分かっていますか」と尋ねると、
その霊は「男に裏切られて・・・」とかおしゃいます。

それは愛ではありません。
男女の愛は、愛でもその下に欲がついている「愛欲」といいます。
あの愛欲なるが故に、愛する方がもし心変わりされた時、
たちまちその愛は憎しみとなり、怒りとなり、怨みと変貌します。
しかし、本当の愛は怨みも憎しみもありません。

「愛」とはただ、させていただくのみ、他を生かす無償の行為です。
究極の愛とは自らを犠牲にして他を生かす行為ですね。
これが本当の愛です。
その極端な例があのキリスト最後の姿です。
生身に釘を打ち込み、自分を突き殺している人達にさえ、
なお「この人達の罪を許して下さい」と言っているのですが、
これは別に聖書を読んで知ったのではありません。

しかし、私達が正しい生活のうちに瞑想、或いは禅定を通して、
そういうことがはっきり分かってきます。
この話を大阪で話しさせていただいておりますと、突然、
何人もの方が大きな声をあげて泣き出され、
日本の言葉とは違う言葉とは言葉で泣き叫びながら出て来られました。

「あなた達は今私が話をさせてもらったことを、
あのゴルゴダの地において見ました。
イエスはまさにそのようにおしゃって亡くなられました」
と言って泣いておられました。
心の奥底で知っているのですが、
これは普通のこの世的な常識では考えられない心の世界です。

これが本当の愛です。
その愛をまず自分の家族の中に現わして下さい。
妻は夫に、夫は妻に、子は親に、
親は子に対してその愛を実践するのです。
その時必ず調和の光に満たされます。

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「御垂訓」

2022-04-16 02:48:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一

     「何ものをも求めない無償の行為」

先の続き・・・

では、一体どのようにすればいいかと言いますと、
「全くの無償の行為」つまり何ものをも求めず
「ただ、させていただく」のです。
させていただくのみの善なる行為であることです。
人に喜んでほしい、お礼を言ってほしい、更には、
お礼をいただきたいという思いを
少しでも持ちますと、あとで自分を苦しめなくてはなりません。

神は私達の僕として大いなる愛を与え給います。
私達は神の僕として生まれさせてもらったのならば、
人々の僕として生き、ただ、
させていただくのみの行為をすれば、裏切られようが、
そのまま走り去って行こうが、
腹は立たないのですね。

その時善い行いをして、天の蔵に宝物を積むことができます。
腹を立てたら赤字一杯ですよ。
寒い雨の中を大奮闘したから宝を積んだだろうと思っても、
三日も四日も腹を立てていたら、
前の分の宝も全部出してしまって大損害です。

天の蔵には無償の愛、
ただ、させていただくその行為だけが宝となって積まれます。
何ら求める心なしに善い行いをすることです。
自然はすべて自分自身が「在る」ことによって他を生かします。
野菜もお米も在ることによって私達を養ってくれます。

私達が自然界の中のいろんな栄養分を吸収する為に、
実ってくれるのですね。
人に親切にするのは、川に泳ぐ魚に餌を与える如く、
何の求める心を持たず、
ただ与えさせいただくことです。


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