浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「垂訓」

2024-01-30 23:59:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

先の続き・・・

「観自在」とは、人を見ても自由自在に見通す能力を言います。
人から自分にとって都合のわるいことを言われても、されても、この人は今こんなことを
しているけれども、反面では素晴らしいものを持っている、とその人のいい面を見つけて
褒めるようにします。
角張ったことを言われたら人は怒りますが、その人自身も気付いていない素晴らしい面を
見つけて褒めた時、必ず、「あの人のためだったら私の命を捧げてもいい」というほど、
その人の心をつかむことができます。

その人の隠れた素晴らしい面を取り上げられず、つい嫌な面ばかりを見てしまい、
しかもそれがその人のすべてであると決めつけようとするのが、愚かな私たちの通弊です。
そして、これが大きな苦しみをつくる原因です。
しかし、凡夫の私たちにも例外なく、「般若心経」で説かれているような潜在意識の奥深く
内在する智慧に到達できる可能性があることを知りたいと思います。
般若波羅蜜多心経の音訳「マーハパニャーパラミタースートラ」の意味は、偉大なる
(マハー)智慧に(パニャー)到達する(パラミター)心の教え(スートラ)となります。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-29 23:58:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びに来る」

私たちはまず喜ばなくてはなりません。
そうすると、喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことは否定的な思いを持った時にも言えます。
不平不満、愚痴、そういう想念から行為していると、
不平不満や愚痴が余計に不平不満や言って、そういうものを集めてきます。
幸せになるはずがありません。
べてを喜びに変える方法としては、
あらゆることに関してこの「源ヤン」の思い方をうまく応用することです。
あらゆるものを金に変える錬金術のように、
どんなものでも喜びに変えられたならば、
これほど素晴らしい人生の宝はないでしょう。
人生はどんな困難な出来事が待ち受けているかわからないです。
嫌なことを思い方一つ変えるだけで喜びに変えていけます。

ところで、この「思い変え」の法は、実は般若心経の中に説かれている「観自在菩薩」
に通じるものです。「観自在」とは観ることが自在のことです。
菩薩は如来を目指して仏道修行に励んでいる人のことですが、私たちでも正しい教えを学び、
やがては仏に到らせてもらおうというほうに心を向けて実践すれば、みんな菩薩です。
此処に灰皿があるとします。

上から見るとタバコを置く窪みがある面、
横から見ると台形で角張った面、
底のほうから見ると丸く調和した面と、
一つの灰皿でも見る面を変えることによって、
それぞれ違って見えて来ます。
それらが合わさり、一つの灰皿という立体をなしています。
私たち人間にしても同じで、たいへん嫌な面、
角の立った面、人を見たら突っかかっていく面がある反面、
調和された美しい面もあります。

これが人間の心の複雑怪奇さです。
先程述べたように思いの雲が厚くても、
反省と作善止悪の行為を積み重ねて、
雲が切れた時、その切れ間から神様の光が差して来ます。
完全に心の曇りが晴れれば魂の器を神の光が貫き、
神の御心と同じになります。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-29 00:06:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

何事が起きてもわるく見る見方と、喜びに見る見方とがあります。
いちばんわかりやすく参考になるお話をします。
東大阪に明治の初期に生きた「結構の源ヤン」という方がいました。
何事があっても「ああ、結構やないか、結構やないか」とおっしゃって、
決して愚痴や不足不満を言われなかったということです。
或る年、毎日毎日雨が降り続きました。

当時、「土方殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい」
と言われたものでしたが、その頃は日雇い労働者の人は
三日も仕事がなければ食べていけない状態でした。
それが一か月から雨が降り続いたそうです。
そこで、源ヤンの友達が「いかな源ヤンでも
この雨にはまいったことだろう。
結構とはよう言わんやろうなあ。

何と言うか聞きに行こう」と言って、
源ヤンの家に出掛けていったそうです。
「ごめん、源ヤンおるか!」と奥に呼びかけると、
「ハーイ」という声とともに出てこられました。
「かなわんなあ、これだけ降ったら」と言いますと、
「ああ結構やないか」と言われたので、
友達があきれて、「何が結構やねん」と聞きますと、
「お前らよう考えてみ。これだけ降る雨を、
もし神さんが三十日間天で受けてくれはって、
一杯にたまったのを一片にまとめてぶちあけられたら、
家も田圃も皆流されてしまう。

ようこんなにうまいこと何日にも分けて
降らしてくれたもんや。神様は何と結構なお方や」
と言って喜ばれたということです。
雨続きでもう食べてはいけない状態であっても、
そのことを嘆く代わりに、
一度にためて降らしたらたいへんな被害になるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは神様は
ありがたいなあと思いを喜びのほうへと変えてしまうのです。
結構の源ヤンと呼ばれたこの方は、
後に東大阪一の結構な人になられました。
大阪では有名な話です。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-27 23:58:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                  その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

それならもう生きていてもしようがないのですが、
神様は太陽のごとくに平等な愛をもって黙って見守られて、
その方の目覚めをひたすら待ち望んでいらっしゃるのです。
一人一人が等しく神の愛し子であることに変わりはありません。
生きる上での困難は、大切な魂の修行のために必要なことです。

そこでは闇の中へと迷いこんで不幸になるとか、
それとも明らかな智慧の光でその闇を照らしてこの肉体にとらわれずに
魂を進化させていけるかどうかの分かれ道に私たちは立たされます。
この明らかな智慧が法といわれています。
つねに法の言葉を聞いて素直に実践していれば、
この世の人生修業においてもいくつもの難事を切り抜け、
やがて迷わずに正しい生活の中に入りきり、心の安らぎを得るとともに
幸せな暮らしにも恵まれていきます。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-27 00:09:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                  その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

ここで思いを変えることさえできれば、
苦しみの原因をつくらないばかりか、
「想」の次の「行」を賢明に行う結果として
また新たな認識(識)を身につけ、
さらに高い魂の境地へと段階を昇ることができます。
正見、正思、正語、正業の実践の大切さがわかります。
己の思いを高く高く持しつつ、それを行いに表現してゆく。

そのときにその経験を通して魂はだんだんと成長がし、
大人になっていきます。
いつもいつも同じパターンの思考回路で行為を積み重ねていても、
それは習慣の域を出ません。
魂の進歩は望めません。
思いの癖が取れないということは、
この世に生まれた目的である心の癖の修正という
魂の修行が進まないということです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-26 00:07:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                    その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

まして自分に非がないのに相手から喧嘩を仕掛けられて、
それに心を動揺させたら丸損になります。
提婆達多とまったく同じような人が私にもありました。
私を目の敵にし、なんとかして評判を落とそうと、
卑劣にもまったく事実無根のありと
あらゆる悪意を尽くした作り事を十年間言いふらしてくれました。
私もただの凡夫ですから、
弁明や抗議の一つもしたくなった時もありましたが、
いっさい捨て置くことにしました。

今から三年前、その人は全身マヒで口も聞けず、手足も動かず、
意識だけはハッキリしている生き地獄の中で
死さえゆるされずに生きているようです。
近づく人もなく、やせ衰えて見る影もない
哀れな姿だということです。

自らの行為を反省され、神の愛し子として
目覚められることを祈るばかりです。
先程は五蘊の説明をしましたが、
人間には肉体を持ったがために避けられない困難や苦悩
がついて回ります。「色受想」までの段階で生んだ迷いを、
そのまま「行」すなわち行為にもたらしてしまう
また罪をつくり、苦しみの原因となります。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-25 00:07:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                    その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

提婆達多(ダイバダッタ)という人は生涯お釈迦様を目の敵にし、
あの手この手で評判を落とそうとしたり、
命を狙ったりしました。
街頭にいた貧しい妊婦に金を与えてお釈迦様が
孕ませた子だと街中を触れ回らせたのもその一つですが、
お釈迦様はこれを捨て置き、何ら弁明はしませんでした。

もちろん、こうした悪意からの卑劣な行為は
天に向かって唾を吐くことになりますから、
神様が罰を当てなくとも、
結果は自分に戻ってきて哀れな最期となって当然です。
ここでもしお釈迦様が相手に反応してしまったなら
どういうことになったかは想像に難くありません。
自分の心を苦しめてはなりません。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-24 00:00:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
             その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

相手との間にさらにいっそう激しい憎しみの業火が
燃え盛ることになるかもしれません。
しかも、自分自身はもともと誤りがなく、
不調和な心になる原因もなかったのです。
それを人の愚かな行為や言葉によって、
我が心の平安を失ってはいけません。
新たな苦しみを増やすようなものです。

相手が愚かだと云いながら、
自分はそれ以上に愚かだということになってしまいます。
聖典に「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失うことなかれ」
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、
なお愚かなリ」と書かれています。
相手の行為を愚かだと思っても、
それに対して怒ったり非難したりしたならば、
自分がなお馬鹿になり下がってしまいます。
喧嘩するためには必ず相手のレベルまで
自分の位置を下げなければなりません。
軽蔑する相手よりさらに馬鹿になりたくなかったら、
相手にしないで黙殺すべきです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-23 00:12:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

これは自分中心に考えるからです。
しかし、ちょっと距離を置いて冷静になれば、相手が、
まったくわからないので犯している誤った行為のあまりの愚かさに唖然としてしまい、
どうしたよいのかお手上げになると同時に、相手には当然軽蔑の念を持ちます。
そこで、一旦角度を変えて、また自分の視点から眺めると、
やはり自分に向けられている不都合な行為と見るから、
再び腹が立ってきます。
ここで怒るのは簡単です。

相手に怨みや憎しみをおもいきりぶつければ、
さぞかし爽快な気分になることでしょう。
少なくとも一時的には気持ちがスッキリするかもしれません。
しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、
その後の結果がどうなるかです。
自分の心はたちまち墨を流したように真っ黒に汚れるでしょう。
腹に固まりができ、心臓がドキドキ、血圧も上がるでしょう。
怒りの思いが心の調和を破り、肉体まで痛めます。
今度は後始末がたいへんです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-21 23:57:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆


要は、自分にとって都合のわるい人はみんな嫌いな人です。
そういう相手に対して腹が立つ時は、
私たちは必ず自分を正当化しようとします。
あいつがわるい。間違っている。わかっていない。
その中には自分のほうがわるいのに、それに気がつかないで、
相手をわるく思っている場合もあります。

よく反省してみたら、自分のほうがかえって相手に
迷惑をかけていたということもあります。
ただ、第三者の誰が見ても、
絶対に相手がわるいということがあります。
そういう時は、なおさら腹が立つものです。
自分がひどく理不尽な苦しみに遭っているような
被害者意識にも陥ります。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-21 00:11:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

この世に生きている限り苦労はついて回るのですが、
お釈迦様はこれを四苦八苦と言われました。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。
これが四苦ですが、八苦というのは、これにさらに四つの苦しみを加えたものです。
愛する者と別れなくてはならない苦しみ、「愛別離苦」。
嫌な相手と出会う苦しみ「怨憎会苦」。
求めてもちっとも得られない苦しみ「求不得苦」。
肉体の身をもったがための苦しみ「五蘊常苦」。

五蘊というのは、肉体(色)と、五感(受)と、五感により与えられたものを受けて
思う心の動き(想)と、思ってなす行為(行)と、行って識ること(識)です。
これら五つの集まりが五蘊と言われています。
この中で「怨憎会苦」というのは、嫌な人に出会って心に生ずる怨みや憎しみによって、
自らの心が苦しみを受けることです。
自分のことを理解してくれず無理難題を言って来る人、やたらと自分を馬鹿にしたり
高圧的に接して来る人、嫉妬から足を引っ張る人、迷惑をかけて来る人、どうも虫が好かず
苛々させる人、恋敵など、あげたらきりがありません。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-20 00:01:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって
今が不幸になるだけです。

心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。
実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、
必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、
人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-19 00:16:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、
ちょうど障害物が光を遮る結果として
生まれる影のように、不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。
光が来れば闇は去ります。

自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。

そしてさらには、他人の心を和ませ、喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに
近い思いに心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、
神様の御心とピッタリ波長が合い、
調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、心が苦しむはずはありません。
たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、今この瞬間にどんな思いの中にいるのかと
いうことだけが問題です。
過去は二度と戻りません。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-17 23:56:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

この世である現象界とあの世の実在界を
遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して
命の本源である神様のほうからの光が
表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。
想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、
その人のこの世の生活もよくなってきます。

そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、
地球全体に光が満ち溢れれば、
この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な
大調和した世界となります。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「垂訓」

2024-01-17 00:03:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆


「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」
というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや
貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、
神様の光を遮れば、それだけ闇をつくってしまい、
喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、心のスモッグを出すことで
人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の
思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする