浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「ブッダのことば」より。

2017-04-30 00:04:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                 11、争闘

871、「世の中で感官による接触は何にもとづいて起こるのですか?
       また所有欲は何から起こるのですか?
       何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?
       何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

872、「名称と形態とに依って感官による接触が起こる。
       諸々の所有欲は欲求を縁として起こる。
       欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。
       形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

873、「どのように修業した者とって、形態が消滅するのですか?
       楽と苦とはいかにして消滅するのですか?
       どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。
       わたくしはそれを知りたいものです。
       ―――わたくしはこのように考えました。」


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「ブッダのことば」より。

2017-04-29 00:03:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

                  11、争闘

868、怒りと虚言と疑惑、―――これらのことがらも、(快と不快との)
       二つがあるときに現れる。
       疑惑ある人は知識の道に学べ。
       〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869、「快と不快とは何にもとづいて起こるのですか?
       また何がないときにこれらのものが現れないのですか?
       また生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、
       われに語ってください。」

870、「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。
       感官による接触が存在しないときには、
       これらのものも起こらない。
       生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているもの
       (感官による接触)を、われは汝に告げる。」


             ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-04-28 00:06:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                11、争闘

865、「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、
       欲望にもとづいて起こる。
       また人が来世に関していだく希望とその成就とは、
       それにもとづいて起こる。」

866、「さて世の中で欲望は何にもとづいて起こるのですか?
       また(形而上学的な)断定は何から起こるのですか?
       怒りと虚言と疑惑と及び〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、
       何から起こるのですか?」

867、「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起こる。
       諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、
       世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定をくだす。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-27 01:31:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                 11、争闘

862、「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと
        慢心と傲慢と悪口とは、どこから現れ出できたのですか?
        これらはどこから起こったのですか?
        どうか、それを教えてください。」

863、「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと
        慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。
        争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴い、
        争論が生じときに、悪口が起こる。」

864、「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起こるのですか。
        また世間にはびこる貪りは何にもとづいて起こるのですか。
        また人が来世に関していだく希望とその成就とは、
        何にもとづいて起こるのですか?」


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「ブッダのことば」より。

2017-04-26 00:04:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

              10、死ぬよりも前に

860、聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、
      『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも、
      『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。
      かれは分別を受けることのないものであって、
      妄想分別におもむかない。

861、かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。
      また無所有を嘆くこともない。
      かれは〔欲望に促されて〕、諸々の事物に赴くこともない。
      かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-25 00:02:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

              10、死ぬよりも前に

857、諸々の欲望を顧慮することのない人、
       ―――かれこそ〈平安なる者〉である。
       とわたくしは説く、かれには締めの結び目は存在しない。
       かれはすてに執着を渡り了(お)えた。

858、かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。
       すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859、世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して
       〈貪りなどの過ち〉があるというのであろうが、
       かれはその(非難)を特に気にかけることはない。
       それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダのことば」より。

2017-04-24 00:02:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                10、死ぬよりも前に

854、利益を欲して学ぶのではない。
       利益がなかったとしても、怒ることがない。
       妄執のために他人に逆らうことがなく、
       美味に耽溺することもない。

855、平静であって、常によく気を付けていて、
       世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。
       また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。
       かれには煩悩の燃え盛ることがない。

856、依りかかることのない人は、
       理法を知ってこだわることがないのである。
       かれには、生存のための妄執も、
       生存の断滅のための妄執も存在しない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-23 01:55:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

               10、死ぬよりも前に

851、未来を願い求めることなく、
      過去を思い出して憂えることもない。
      〔現在〕感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、
      諸々の偏見に誘われることがない。

852、(貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、
      貪り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢にならず、
      嫌われず、両舌(かげぐち)を事としない。

853、快いものに耽溺せず、また高慢にならず、
      柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、
      なにかを嫌うこともない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-22 00:10:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                10、死ぬよりも前に

848、「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかであるか』と
        言われるのか?
        ゴータマ(ブッダ)よ。
        おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849、師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、
        現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、
        かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850、かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、
        あとで後悔するような悪い行いをなさず、
        よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎む。



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「ブッダのことば」より。

2017-04-21 00:03:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                九、マーガンディヤ

844、家を捨てて、住所を定めずにさまよい、
       村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、
       未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

845、竜(修業完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、
       それらに固執して論争をしてはならない。
       たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、
       そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも
       汚されることがない。

846、ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。
       かれの本性はそのようなものではないからである。
       かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても
       導かれない。
       かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。

847、想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
       智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
       想いを偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」


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「ブッダのことば」より。

2017-04-20 00:14:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                九、マーガンディヤ

841、師は答えた、
       「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
       執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。
       わなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
       だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

842、『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか
       考える人、―――かれはその思いによって論争するであろう。
       しかしそれらの三種に関して動揺しない人、―――
       かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)
       いう思いは存在しない。

843、そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
       またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?
       『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、
       誰に論争を挑むであろうか。


                ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-04-19 00:15:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                九、マーガンディヤ

838、マーガンディヤがいった、
       「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、
       〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人は
       どのように説いておられるのでしょうか?」

839、師は答えた、マーガンディヤよ。
       『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって
       清らかなることはできる』とは、わたくしは説かない。
       『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、
       清らかなることができる』、とも説かない。
       それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、
       迷いの生存を願ってはならぬ。
       (これが内心の平安である。)」

840、マーガンディヤがいった、
       「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても
       清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、
       知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と
       説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。
       教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」


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「ブッダのことば」より。

2017-04-18 00:25:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

                九、マーガンディヤ

835、(師(ブッダ)は語った)、
        「われは(昔さとりを開こうとした時に)、
        愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
        かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。
        糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。
        わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836、(マーガンディヤがいった)、
        「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、
        あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような
        生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837、師は答えた、「マーガンディヤよ。
        『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
        諸々の事物に対する執着であると確かに知って、
        諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
        省察しつつ内心の安らぎわたくしは見た。」


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「ブッダのことば」より。

2017-04-17 00:03:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                 八、パス―ラ

833、またかれらは対立を離脱して行い、
       一つの見解を〔他の〕諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、
       かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?
       パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、
       ここには存在しない。

834、さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、
       心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、
       やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、
       それを実現することは、とてもできない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-16 00:04:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                 八、パス―ラ

830、心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。
       しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
       このことわりを見て、論争してはならない。
       諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」
       とは説かないからである。

831、たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、
       喚声を挙げて進んでゆくようなものである。
       勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。
       相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832、(特殊な)偏見を固執して論争し、
       「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、
       ―――「論争が起こっても、汝と対論する者はここにいない」と。


                 ~ 感謝・合掌 ~



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