浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-06-30 00:11:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~


            講演集、 一


お釈迦様は「中道」という道をお説きになりました。
真ん中を行きなさいと。
それはお釈迦さまがウルヴェーダーで苦行をされた時に、
「私ほど厳しい行をした者はこの世始まって以来ないであろう」
また「私のあとに私ほどの苦行をする者もないであろう」
と言われたのですが、それ程の厳しい行をされました。
死の寸前までいかれた時、肋骨はすべて浮き出し、
肋骨の上に血管がみみずのように這いまわる程
痩せ衰えてしまわれました、

そんな在る朝、ネーランジャラ川の水面に映った自分の姿を見ると、
まだ三十歳半ばであるのに、
九十歳とも百歳とも思えるような姿が映って見えたのです。
「このまま行けば命はもういくばくもないだろう。しかし、
もし死んでしまったならば、この世に生まれた目的が分からない。
死んでしまっては何にもならない」
と思われた丁度その時、川上の方から天女のようなすばらしい声で
「絃はきつく締めたら切れてしまう。弱く締めたら音色が悪い。
中ほどに締めれば音色が良い。絃に合わせて歌えや歌え、踊れや踊れ」
という歌声が聞こえてきました。
この時にお釈迦様は次のようなことがお分かりになったのです。
「私は以前、あのお城の中で栄耀栄華を極めて暮らしていた
(釈迦は元々王子であった)。

肉の林の如く多くの女性を側に侍らせて酒の池に遊んでいたが、
その中では悟ることはできなかった。
これではいけないと思って今度は厳しい修行を重ねて一心に
苦行をしたけれども、その果てに危うく死ぬ所であった。
そのいずれの両極端に片寄ってもいけない」と。
「両極端に片寄ってはいけない」ということはすべてに通じることです。
例えば食物についても、量はそれ程たくさんは要りません。
ご飯もお茶碗一杯あれば良いし、
おかずも片寄らないようにまんべんなく食べるようにして下さい。
そして感謝していただくことです。
不足を言っていただいたら、どんなご馳走も身につきません。
すべて生きた生命をいただくのです。

米粒一つも野菜も魚肉もすべて新鮮な生命をいただくのであり、
その命に対し感謝をして下さい。
「日々の生活の中で業に報いさせていただきます。
この喜びに対して何分の一かのご恩返しをさせてもらいます」
と言って食事をいただくと、すべてが身体にとって薬となります。
宗教においても同じです。余り打ち込むのも、
また無神論者になるのもいけません。

思想についても、共産主義に陥っても資本主義に陥っても両極端です。
よくストレスが溜まると言います「歪」という字を当てますが、
それは心をひずますから、しんどくなってくるのです。
心を丸くしてひずませないように、何事も片寄らないようにすることです。
私が今こうして話していることを初めから全部信じてもらわなくても
いいのですよ。
まず疑問を持って、これは本当だろうかと検討してみて下さい。
どちらから見ても本当ならば信じていただいたらいいのです。
盲信、狂信は阿片と同じです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-29 00:19:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師の「講演集」より ~

          講演集、 一

      「得難く尊い夫婦の縁」


人の命は、明日の命の保証をいただいている者は誰もありません。
私も今日ここに寄せてもらいましても、
明日そこらで車にはねられてしまったら、
この世から消えなくてはいけない存在です。
これは皆さんも同じことです。
あなたは何歳まで生きさせてあげましょうという
保証は誰もいただいておりません。
ですから悔いのない一瞬一瞬を努力することが大事ですね。
私は十年前に四十半ばで家内を亡くしまして、その後、
幸か不孝か忙しい独身生活で、
俗の一般の生活から離れて、清らかにいっさい正しく生きております。
家内が亡くなりました時、私自身ほんとうにできが悪かったのです。
家内に対してもいろいろ迷惑をかけましたし、大事にすることもなく、
口を開けば喧嘩ばかりしておりました。

そのような家内でも亡くなった時は、
実に自分の身体を半分ちぎって持って行かれたような感じがして、
もう何をする気もありませんでした。
喧嘩して常に争っているような夫婦であっても、先立たれてしまったら、
身体が半分ちぎれてしまったような侘しさというのでしょうか、
これはもう体験した者でないと分からないですね。
私は「さつき」の鉢を庭にたくさん置いていますが、
そのさつきが咲けば家内にきれいだなあと言って欲しかったのです。
それは死んでしまった後に分かったことです。
死んでしまってからは、一体何の為にさつきの手入れをしているのか、
見てもらう人もいないのに、
ぜ自分はさつきに水をやらなければいけないのかと思いながら、
水やりをしたことがあります。

夫婦の縁といいますのは、
私達が生まれる前の天上界で
「どうぞ魂の修行に出たら夫婦となって共に修行をいたしましょう」と
ご縁をいただいているのであって、
この世ではまるで別々の環境や習慣の中で生活をしていても、
約束の時が来たら、めぐり合うようになっています。
ある場合は恋愛の形で、ある人の場合は仲人さんを通して知り合い、
結婚します。
その時には既にその子供となる者がちゃんと約束されています。
親子、夫婦、その子供という約束ごとは、
この世に出る前に既に決められておりますのに、
生まれ出たらその約束を全部忘れてしまって、
「本当にうちの主人といったら・・・」とか、
「うちの家内は全く・・・」と文句を言って、
夫婦としての尊いご縁をいただきながら不足を言って、
何とも思わずおろそかにしています。

考えてみますと、
僅か五万分の一の宝くじがなかなか私達の手には入って来ないです。
宝くじを買って「私当たりました」という人を余り聞きません。
あの確率たるや五万分の一になっていないのですね。
では夫婦のご縁はどうでしょうか。
この地球上に四十五億人からの人口があるそうです。
その中の半分は女性、半分は男性の方ですが、
世の中がこんなになって、
早い方は中学校で赤ちゃんを生んだという世の中です。
また男の方が男のお嫁さんを持ってみたり、
女の方が女のご主人を持ってみたり、世の中はまさに末法です。
何をするか分からないこの時代ですね。

こういう見方からすると、
夫婦のご縁というのは実に四十数億分の一の確率で、
この地球上に生まれた男と女が夫婦のご縁をいただくのです。
いかに得難いご縁かということですね。
この得難いご縁をいただきながら、
私達はお互いを粗末にして文句の言い合いをして、
幸せを失っていきます。
この世に自分の魂を磨く為に生まれ、それは幸せにつながるのですが、
この世での修行が終わりますと、つまり死んだ時に、
私達はこの世界はほんとうの研修会場であったということを悟って、
元のふるさとに帰ってこそ、成仏ができるのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-29 00:10:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~

          講演集、 一

      「得難く尊い夫婦の縁」


人の命は、明日の命の保証をいただいている者は誰もありません。
私も今日ここに寄せてもらいましても、
明日そこらで車にはねられてしまったら、
この世から消えなくてはいけない存在です。
これは皆さんも同じことです。
あなたは何歳まで生きさせてあげましょうという
保証は誰もいただいておりません。
ですから悔いのない一瞬一瞬を努力することが大事ですね。
私は十年前に四十半ばで家内を亡くしまして、その後、
幸か不孝か忙しい独身生活で、
俗の一般の生活から離れて、清らかにいっさい正しく生きております。
家内が亡くなりました時、私自身ほんとうにできが悪かったのです。
家内に対してもいろいろ迷惑をかけましたし、大事にすることもなく、
口を開けば喧嘩ばかりしておりました。

そのような家内でも亡くなった時は、
実に自分の身体を半分ちぎって持って行かれたような感じがして、
もう何をする気もありませんでした。
喧嘩して常に争っているような夫婦であっても、先立たれてしまったら、
身体が半分ちぎれてしまったような侘しさというのでしょうか、
これはもう体験した者でないと分からないですね。
私は「さつき」の鉢を庭にたくさん置いていますが、
そのさつきが咲けば家内にきれいだなあと言って欲しかったのです。
それは死んでしまった後に分かったことです。
死んでしまってからは、一体何の為にさつきの手入れをしているのか、
見てもらう人もいないのに、
ぜ自分はさつきに水をやらなければいけないのかと思いながら、
水やりをしたことがあります。

夫婦の縁といいますのは、
私達が生まれる前の天上界で
「どうぞ魂の修行に出たら夫婦となって共に修行をいたしましょう」と
ご縁をいただいているのであって、
この世ではまるで別々の環境や習慣の中で生活をしていても、
約束の時が来たら、めぐり合うようになっています。
ある場合は恋愛の形で、ある人の場合は仲人さんを通して知り合い、
結婚します。
その時には既にその子供となる者がちゃんと約束されています。
親子、夫婦、その子供という約束ごとは、
この世に出る前に既に決められておりますのに、
生まれ出たらその約束を全部忘れてしまって、
「本当にうちの主人といったら・・・」とか、
「うちの家内は全く・・・」と文句を言って、
夫婦としての尊いご縁をいただきながら不足を言って、
何とも思わずおろそかにしています。

考えてみますと、
僅か五万分の一の宝くじがなかなか私達の手には入って来ないです。
宝くじを買って「私当たりました」という人を余り聞きません。
あの確率たるや五万分の一になっていないのですね。
では夫婦のご縁はどうでしょうか。
この地球上に四十五億人からの人口があるそうです。
その中の半分は女性、半分は男性の方ですが、
世の中がこんなになって、
早い方は中学校で赤ちゃんを生んだという世の中です。
また男の方が男のお嫁さんを持ってみたり、
女の方が女のご主人を持ってみたり、世の中はまさに末法です。
何をするか分からないこの時代ですね。

こういう見方からすると、
夫婦のご縁というのは実に四十数億分の一の確率で、
この地球上に生まれた男と女が夫婦のご縁をいただくのです。
いかに得難いご縁かということですね。
この得難いご縁をいただきながら、
私達はお互いを粗末にして文句の言い合いをして、
幸せを失っていきます。
この世に自分の魂を磨く為に生まれ、それは幸せにつながるのですが、
この世での修行が終わりますと、つまり死んだ時に、
私達はこの世界はほんとうの研修会場であったということを悟って、
元のふるさとに帰ってこそ、成仏ができるのです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-28 00:13:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


             講演集、 一

         「三位一体の現象」


イエス様は地方を歩いて野原で、又家を借りたり、
馬小屋を借りたりして方々で話をされました。
偉大な方なので霊視がききますから、
妙なものに憑依されている人が話を聞きに入って来るなり
「サタンよ去れ」と厳しく言われるので、
その取り憑いているものが驚いて逃げる際に、
取り憑かれていた人が吹き飛ばされて倒れたりしました。

そこで、取り憑かれていた人は、自分が入って来るなり、
自分に向かって、「サタン(悪魔)」と言われたのか
思い違いをした為に、
イエスは人々から反発を買うことがよくあったのです。
私の場合は、取り憑いているものがあれば、
「どうか私の中に来なさい。
その方に取り憑いていては、あなたは救わないから、
その人から離れて私の中に来なさい」と言って、
私の中に招いてあげるのです。
すると取り憑かれていた方の具合がホット良くなる。

私はそれを受けたままにしておくと
自分が苦しいから、神様にお祈りして、
本当に帰って行かれる世界に連れて行っていただくのです。
その時、相手の方も救われるし、また私も関係がなくなり、
神様が連れて行って下さるのですが、
このことをキリスト教では三位一体と言っています。

これは特定の私にだけしか出来ないのかと言いますと、
そんなことはありません。
自分の心をしっかり持ち、心を調和し、
自分の心を知って悟ったならば誰にでもできます。
こんな私にも三位一体の現象は見せてもらえます。
ただ人間はそれぞれ皆神の子として生まれ、
尊い魂を持っているのに気付かないでいるのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-27 00:11:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         ~ 恩師の「講演集」より ~

             講演集、 一

         「自分の間違いに気付く」


今まで、自分が正しいと思っていたけど、
とんでもない間違いだったと気付いた時に人は救われていきます。
不思議なもので、私は間違いない、
私は正しいと思っている間は皆苦しんでおられますね。
申し訳なかった、
私は悪うございましたと言って自分の非に気付かれた方は、
苦しみが少なくなっておられます。これは人間の真理であって、
私達の常識と人間の心の中とは反対なのです。
例えば、つまらないことで人の半分ぐらいしか知らないのに、
人の十倍も知っているように自慢する人があります。
偉そうに自慢するといのは一番損な行いです。
人はつい自慢したがる。

自分が偉いと思ってのけ反りますと、
人の心は「なんや、あんな奴」といって、
周囲から引き下ろしにかかります。
自分が上がったら必ず引きずり下ろされます。
できた方が私は未熟者ですと言って下へ下へとさがられますと、
今度は周囲がその人を持ち上げようとします。
自分の思いとは反対になるのですね。
自然界は常に「低く低く生きよ」と教えています。
田の稲穂は実れば実るほど穂を垂れてきます。
「実るほど頭の垂れる稲穂かな」これは自然が教えてくれているのです。
あの垂れた稲穂の中に、つっと立っている稲穂は、籾を開けますと、
中は空っぽです。

若い間に雀が栄養を皆吸ってしまって滓だけが生長して立っています。
ところが実った穂は必ず頭を垂れていますね。
頭を上げている中でも、一番愚かな人は、自分の財産を誇る人です。
これは、より多く持っている人から見たら、
「あの人はあれだけしかないのか」と笑われますし、
自分より少ない人から見たら今度はやきもちを妬かれます。
嫉妬を買って損をします。
自分が過ちに気付いて、その過ちを悔い改めた時、
その罪は許されます。
キリストは「悔い改めよ。汝の罪は許されん」とおっしゃいました。
お釈迦様はこのことを仏教を通して次のように教えて下さいます。
「先に過ちを犯すとも、後に過ちを犯さざれば、
その人の世間を照らすこと、雲を離れて一人輝く満月の如し」と。
私達は先に過ちを犯しても、
のちに犯さなければ世間を照らすことができるのですね。
しかし、過ちを何回も犯したら何にもなりません。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-26 00:04:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


              講演集、 一

先の続き・・・

この話をしますと、その霊が「嘘をおっしゃい。
それならば死ななくてはいけません」と
ひどいことを言います。
「神とは自らの命捨つる者に命を与え、命求める者の命を失う。
自分を捨てた時、神は命を与えて下さいます。
あなたは正しくなかった」と言って懇々と話しますと、
「なぜ私はこのように苦しまなくてはならないのか分からない。
どうぞこの苦しみの原因を教えてほしい」と、
やっと目覚めてくれたのです。
この人が、そのように人に尽くし、尽くし、また人を愛し、
愛して間違いのない生活をしていたのに、死後なぜ、
地獄の生活をしておられたのか。
それは、人様の為に尽くして自分がすばらしかったら、
人様も皆すばらしいと思っておられたのですね。
しかし、この世に生まれる前は、皆次元の違う世界にいて、
それぞれの所から生まれて来ている。
すばらしい世界にいた人は、人の難儀しているのを見て放っておけない。
しかし次元の低い世界の人は、
人から恩を受けても平気で裏切っていきます。
人の為に必死で尽くしても、人は平気で裏切っていき、
その都度この方は夜も眠れないぐらい苦しんでおられたのです。

「どうしても分かりません」とおっしゃるので、
それではあなたが地獄へ行っておられる謎を解いてあげましょう。
それは、あなたはお人が良かった。
貴方自身魂の次元が高かかったのです。
まずそのことを知りなさい。
それで難儀な人や苦しんでいる人、
不幸な人を見ると放っておけなかった。
人の苦しみを救おうと一生懸命に尽くされたのです」
「その通りでございました」「あなたは自分がすばらしいが故に、
他もすばらしいと思っておられる。
しかし魂の次元はすべて違うのですから、あなたがいくら尽くしても、
次元の低い人は、低いが故に人の世話にならなくてはならない。
魂の次元の高い人は、人から世話になれば必ず恩返しをいたします。
しかし低い方は低いが故に平気で裏切って行きます。

あなたの大きな間違いは、魂の次元を同一と見たことにあります。
その時にあなたの心はいかがでしたか」と聞きますと、
「尽くし切って裏切られた時、
この胸がはり裂けるぐらいの苦しみを味わいました」と言われます。
しかもあなたは一度で止めておけばいいのに、
自分の魂の性ゆえにそれを止めることができず、
裏切られても裏切られても人の為に尽くし、愛し続け、
善なる行いの数が多くなると共に、裏切られる数も多くなっていき、
あなたはご自身の心を数多く苦しめてこられました。
その苦しみが、あなたが地獄に行く原因となっています。
そのことを知りなさい」と言いますと、
「この世はつれないものでございますね」と言って泣いておられました。
「この世には、嫌いな人で、あんな嫌いなと思うような冷たい人が
幸せに暮らしている場合がありますが、
それは他人が苦しんでいても悲しんでいても見向きもしない
次元の低い人であって、他人に対して親切はしません。
従って裏切られることはないから、自分の心を苦しめることもなく、
案外この世的にうまくいくのです」と説明させてもらいましたら、
「よくわかりました、私が間違っていました」と言って、
自分に目覚められました。

「私を安らぎの世界へ導いて下さい」とご本人が目覚められましたから、
「では、私がほんとうの神様の使いとして、
あの光の世界へお送りしましょう」といって、あの仏教でいう極楽ですね、
私達がこの世に生まれて来る前に住んでいたすばらしい世界へ
送らせてもらいました。
その苦しみの心の罪は、腹立ち、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、
そして嘘をつくことです。嘘を言うのも、ひどく自分の心を苦しめます。
どんなに上手に嘘をついても、
自分では嘘をついていることを全部知っています。
自分に嘘はつけません。いかに天才の嘘つきでも、
人は騙せても自分は騙せないのですね。
これは神の証しです。
嘘をつけば必ずばれてくるようになっていますから、
人にばれるのではないかと恐れ、
もしばれたら又次の嘘をつかねばならないことになって、
自分の心を苦しめます。心の罪を犯してはなりません。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-25 00:11:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~

            講演集、 一

   「善行のあと心を苦しめる―――例Ⅱ」


先日、岐阜へ招かれた後、
夜七時頃から愛知県の犬山で三時間お話をさせていただき、
そのあと身体の不調和な方に一人ずつ光を入れて、
心を直してくださいと治療をしていただいたのです。
すると一人の方が急に身体が揺れて唸り出されたので、
あなたはあとにしましょうということで、
他の皆さんの治療を先に済ませたのです。
もう夜中の一時でしたが、順番が回ってきて、
その方にどうか光をお与えくださいと
お祈りをしていました。
するとその方に霊が憑依してきたのです。
髪の長い四十歳前後の女の方で、
汚い鼻汁を流してひどく泣いています。
その泣き声の気持ち悪さは、この世のものではない。
ヒーヒーという凄い声で、
私のほうにすがり寄って来られるのです。

「どうしてあなたは成仏できないのですか。
なぜ迷っておられるのですか」と尋ねますと、
ぼちぼちと生きていた時のことを話し出されました。
その方は生前カトリック系のキリスト教を信仰され、
教えの通りに人様に心から尽くし、
また人様を心から愛して、
教会には必ずお参りをして一度も欠かしたことがなく、
何一つ間違いのない生活をしてきたそうです。
それなのになぜ迷っているのか、自分でも分からないと
言われるのです。
自分は完全に生きたと思っておられるのですね。
この方は最初私に対して「欲しいんでしょう?」
と面白いことをおっしゃるんです。
お金が欲しいんでしょうと言っているのですね。

「私は何も求めません。
求めるものは何もありません。
ただあなたが救われてくれたら、それでいいのです。
いっさい求める心はありません」
と言いますと、「嘘をおっしゃい。
あなたは求めている」と、また言われます。
「あなたは神の光を求めているのでしょう」と言って
いるのですね。
それで、「私は求めません。
しかし、神の光はすでにいただいております。

あなたは目覚めなさい」と言いましても、よく勉強しているので、
なかなか分かってくれなくて、私の言うことを聞いてくれません。
「私は尽くして尽くして、その愛の故に身を滅ぼした」
と言いますから、「ではあなたはなぜ苦しむのですか。
私の心には何の迷いも苦しみもありません。
あなたはそれほど信仰厚くして、
なぜ迷い苦しむのですか」と言いますと、
私に対して「お前にこのような生き方ができるか、
愛の為に自分を犠牲にすることができるものか」と言うのです。

「恐れ入ります。
私にもかつてこのようなことがありました。
まだ六、七歳の幼児が小児癌にかかって、
その母なる方からどうか助けて欲しい、この子は
医者から見放され、
命はもういくばくもありません、と頼られ、
私はどうすることもできず、その晩神様に祈りました。
私には癌の子供さんを救う力はありません。
しかし私の過去五十年を振り返りますと、
もう十二分に生きさせてもらいました。
喜びも十二分にいただきました。

それに引き比べてあの六歳の子が、
今まさに息を引き取ろうとしています。
もし許されることでしたら、私の命を今召して下さい、
私にこれから先、何年許される命か知りませんが、
その私の命をあの子に譲って下さい。
どうぞ今私の命と引き換えにあの子を救って下さい。
その時、私も今この世を去らねばいけませんから、
感慨無量になって泣いて泣いて祈り続けました。
するとその子の癌が消えました。
瀬戸内海の家島の子供です」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-24 00:18:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~

             講演集、 一

    「真の愛とは―――その愛の実践」


キリストは「汝の隣人を愛せよ」と言われました。
最も近い隣人である夫婦親子を大事にしなさいということですね。
では「愛」とは何でしょうか。
ある迷っている霊が出てきた時、
「愛の本質が分かっていますか」と尋ねると、
その霊は「男に裏切られて・・・」とかおしゃいます。
それは愛ではありません。
男女の愛は、愛でもその下に欲がついている「愛欲」といいます。
あの愛欲なるが故に、愛する方がもし心変わりされた時、
たちまちその愛は憎しみとなり、怒りとなり、怨みと変貌します。
しかし、本当の愛は怨みも憎しみもありません。

「愛」とはただ、させていただくのみ、他を生かす無償の行為です。
究極の愛とは自らを犠牲にして他を生かす行為ですね。
これが本当の愛です。
その極端な例があのキリスト最後の姿です。
生身に釘を打ち込み、自分を突き殺している人達にさえ、
なお「この人達の罪を許して下さい」と言っているのですが、
これは別に聖書を読んで知ったのではありません。
しかし、私達が正しい生活のうちに瞑想、或いは禅定を通して、
そういうことがはっきり分かってきます。
この話を大阪で話しさせていただいておりますと、突然、
何人もの方が大きな声をあげて泣き出され、
日本の言葉とは違う言葉とは言葉で泣き叫びながら出て来られました。

「あなた達は今私が話をさせてもらったことを、
あのゴルゴダの地において見ました。
イエスはまさにそのようにおしゃって亡くなられました」
と言って泣いておられました。
心の奥底で知っているのですが、
これは普通のこの世的な常識では考えられない心の世界です。
これが本当の愛です。
その愛をまず自分の家族の中に現わして下さい。
妻は夫に、夫は妻に、子は親に、
親は子に対してその愛を実践するのです。
その時必ず調和の光に満たされます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-23 00:17:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

           講演集、 一

     「何ものをも求めない無償の行為」


先の続き・・・

では、一体どのようにすればいいかと言いますと、
「全くの無償の行為」つまり何ものをも求めず
「ただ、させていただく」のです。
させていただくのみの善なる行為であることです。
人に喜んでほしい、お礼を言ってほしい、更には、
お礼をいただきたいという思いを
少しでも持ちますと、あとで自分を苦しめなくてはなりません。
神は私達の僕として大いなる愛を与え給います。
私達は神の僕として生まれさせてもらったのならば、
人々の僕として生き、ただ、
させていただくのみの行為をすれば、裏切られようが、
そのまま走り去って行こうが、
腹は立たないのですね。

その時善い行いをして、天の蔵に宝物を積むことができます。
腹を立てたら赤字一杯ですよ。
寒い雨の中を大奮闘したから宝を積んだだろうと思っても、
三日も四日も腹を立てていたら、
前の分の宝も全部出してしまって大損害です。
天の蔵には無償の愛、
ただ、させていただくその行為だけが宝となって積まれます。
何ら求める心なしに善い行いをすることです。
自然はすべて自分自身が「在る」ことによって他を生かします。
野菜もお米も在ることによって私達を養ってくれます。
私達が自然界の中のいろんな栄養分を吸収する為に、
実ってくれるのですね。
人に親切にするのは、川に泳ぐ魚に餌を与える如く、
何の求める心を持たず、
ただ与えさせいただくことです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-22 00:01:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師の「講演集」より ~

       講演集、 一

   「善行のあと心を苦しめる」


人間はどれ程善い行いをしても、
その行いによって自分を苦しめてはなりません。
私の近くに住む非常に人の良い或る男の方の話しですが、
親切でやさしくて、人が困っていたら放っておけないという方です。
私の所に来られて、
「ここ三、四日腹が立って腹が立って夜も寝られない」と言われます。
何事があったのかと聞きますと、二月のこの寒い折り、
土砂降りの中で車がエンコして難儀しておられる。
ああこんな雨の中で可哀そうにと思って自分の車を後ろに止めて、
雨でボトボトに濡れながら、「私が押してあげるから、
あなたはギヤを入れてクラッチを踏み、車が動いたらすぐ離しなさい」
と言って車を押していた。すると、
うまい具合にエンジンがかかったのですね。
ああよかったなあと思ったら、
その車はスーッと走って行ってしまったというのです。

その方は寒い中でずぶ濡れになって、
ほんまにあの人は何という人かと、
思い出せば三、四日寝られないくらい腹が立ったというのです。
「まあ、そんなに眠れない程、よう腹を立ててくれましたね。
それはあなたに求める心があったから、
その苦しみを味わったのです」と言うと、
「私は何も求めていません。
でも一言お礼を言ってもよさそうなものだ」と言いますから、
「あなたはその一言を求めていたのです。
言葉の礼、或いは喜んで欲しいと思う、その喜びを求めているのです。
何も求めていなかったら、
そのまま走って行ってもああ良かったなあと思える筈です」と言いますと、
「本当にそうですね。アホらしくなった」と、もう機嫌を直しておられました。

そういうもので、
善い行いをしても、あとで自分を苦しめてはならないというのは、
そこにあるのですね。
一言ぐらいお礼を言ってもいいのに、と思っているのです。
これは私達が日頃、大なり小なり他に尽くして、
報われなかった時の姿です。
裏切られた場合、私達はかなり苦しみます。
困った人を見て手を貸し助けるという行為は善い行いですが、
一言の礼も言わないといって、あとで腹を立てておりましたら、
これは悪です。
不調和です。
どれ程善い行いをしても、結果として自分を苦しめては、
心の大きな罪になります。
善に勝る罪を犯したことになるのですね。
調和をはかる為には、人の為に尽くさなくてはいけませんし、
人をお助けしなくてはいけませんが、その結果として裏切られたり、
自分に都合が悪い時には、私達は自分を苦しめます。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-21 00:01:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

          講演集、 一

    「心に播いた善悪の種子、その収穫」


種子を播けば芽が出て来ます。
芽が出れば必ず生長し、時期が来れば花が咲き、
そのあとには必ず実りがあります。
同じように、
自分の心の中に苦しみの原因となる種子を播いてしまったら、
苦しみが芽生えて生長してきます。
時間はかかります。
今、種子を播いたからすぐ明日収穫するというわけにはいきません。
自然界と同じように或る時間を要します。
自然界では桃栗三年、柿八年、
二十日大根は二十日経てば収穫できます。

早く現れる場合と、時間がかかって現れる場合とがあります。
しかし、自然界のものは、せっかく丹精こめて育てましても、
心悪しき人がちょっと失敬しようかと持って行く場合がありますが、
自分の心の中に播いた種子は、何者も盗むことはできません。
全部自分が収穫しなくてはなりません。
もし善なる種子を播きますと、
それは必ず喜びとなって自分に収穫が回って来ます。
これはまた、誰も盗めません。
その代わり恐ろしいのは、悪い、苦しみの種子を播いてしまったら、
誰も取ってくれないことです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-20 00:04:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~

            講演集、 一

      「親の不調和は子供に影響する」


或るお嬢さんが先日喘息で苦しんでいるということで、
そのお母さんから電話をいただきました。
電話でお祈りをして、
治っていただきましたが、そのお母さんに話したのです。
「まず心の持ち方です。
子供さんにとって両親は神以上の存在です。

その両親がヒステリーを起したら、子供さんは不安でたまりません。
そういう心の不安定が喘息となって現れる場合があるのですよ」
すると、「ほんとうにその通りです。
これからは親としてそういうことがないようにいたします」
と言っていただきましたが、両親の心の不調和は子供に影響します。
このように電話を通して喘息の発作が治りますし、
熱で身動きができない方でも、
受話器で応じていただいたら治っていただけます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-19 01:02:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

            講演集、 一

      「心の罪は法律では罰せない」


  さて、私達が腹を立てたり、愚痴を言ったり、
  人を謗ったりするのは、これは不調和です。
  まして憎しみや恨みを持ったら大変です。
  全部不調和です。

  この世の法律というのは人間が作ったものですが、
  自然の法は自然界に定められているものです。
  人間の法は人の思い、心の中までも罰することはできません。
  行った行動に対して罰するのが人の作った法律です。
  ところが、心の中で思ったことは法律では罰せませんが,
 
  心の不調和は全部罪になります。
  苦しみや不幸の原因となってきます。
  案外、人はこのことに気付かないのですね。
  人間は感情の動物だから怒らないと損だと言って怒っている、
  これはとんでもないことです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-18 02:25:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

            講演集、 一

        「無神論者の目覚め」


世間には、神様を信じない無神論者がおられます。
これは、現実に神様の慈愛をいただいていながら、
それを自覚できないでいる方です。
自ら神様をお断りしているのですから、余り幸せとは言えません。
感謝することを知りませんからね。
一方、私ほど幸せな者はおりませんという方も、
こういう話しには耳を傾けませんが、
手を合わせることを知らずに苦しむことなしには、
なかなか一生は続きません。

無神論者も、五十、六十と年を取って、突然の苦しみに襲われて、
初めて苦しみから救われたい為に道を求めて来られます。
神様、自然は私達人間に対して、何とかほんとうの心に目覚め、
神を知りなさいといって、私達に土を被せて下さいます。
種子は光の中に置けば、いつまで経っても芽が出てきません。
これを母なる大地に帰して土を被せると、初めて芽が出て来ます。

闇の中に入れられた時、勿論水分も必要ですが、
光を求めて芽が出て来るのです。
人間もそれと同じで、苦しみとか、病気とかの土が被さって、
初めて光を求めて目覚めていくのです。
私の言います神様というのは、
私達を生きさせて下さっている大自然の力のことで、
種子を播けば必ず芽生えさせてくれ、又花を咲かせ実らせてくれる、
万象万物を生かして下さっている大自然の力、
それが私の言っている神様です。
ゴッド、大宇宙を支配する力こそ真の神様です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御垂訓」

2020-06-17 00:29:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師の「講演集」より ~

               講演集、 一

       「真の神の慈愛は地球全土に」


ある宗教の信者さんで、奈良県の山奥、十津川の方ですが、
足の両膝関節が痛んでもう地獄さながらの状態で歩くこともできない。
それで宗教関係の方のお世話で大手術をすることになったのですが、
その三十半ばの奥さんが、たまたまご縁があって、
御主人に抱きかかえられて私の所を訪ねて来られました。
聞けば多額の寄進をしてご指導を受けられたのですね。
「あなたはもっと本部へ足を運んでお参りをしなくてはいけません。
神様の場所に足を運ぶようにと、足にその印をみせて下さったのです。
もし手術をして足が治ったら、
もっとせっせとお参りしなさい」と指導されたそうです。

そして「これは本当でしょうか」と尋ねられるので、
私は「申し訳ないけれど、それは嘘です。
神様とは、今私の目の前にもすぐ来て下さいます。
そしてあなたの住む十津川の山奥にも神様の慈愛は満ち満ちています。
地球上のどこに行かなくてはおられないというような神様は正しくない。
地球全部が神のご神体で、ご神殿です。
そして隅々まで神の慈愛に包まれています。

ですから、ほんとうの神様の慈愛とはどんなものかを、
ここであなたに見ていただきましょう」と話して、
「どうかこの方に、神様の光をお与えください。
私達の日々の生活の過ちをお許しください。
どうかこの方に調和と安らぎをお与えください」と祈りましたら、
その足が、その場で治ってしまったのです。
来る時はご主人に抱かれて運ばれて来た方が、
帰りは自分の足で走るようにして帰られました。
ほんとうに神様の慈愛は地球全土に満ち満ちております。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする