浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2022-06-30 23:59:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二

     仏陀、イエス、高橋信次先生の一番身近な弟子に

先の続き・・・

高橋信次先生は当初、「釈迦、イエスの教えの原点に返れ」と
説かれました。
私はやっぱり日本にうまれていますから、
仏教、お釈迦様の教えこそがほんとうの正しい教えであると思えますし、
そのお釈迦様の教えを分かり易く説いて下さったのが
高橋信次先生だったのですね。

今の私たちによく分かるように説いて下さいました。
「お釈迦様が仏教の経典を、馬や驢馬の背中に積んで歩かれましたか、
八万何千巻とある膨大なお経をね。

そんなものは何も持ってはおられません。
そして、お釈迦様はどこの仏教大学を出られましたか、
又イエス様はどこの神学校をでられましたか、
そんな学校は出ておられません。

私たちは日々の生活の中で自分自身が自然に従った生活、
つまり自然に背かない生活をして、自然を理解し、そして自然を慕い、
大自然こそ神御自身であることを認めて、
その神の御心を我が心に頂いて日々の生活の中でこれを行なった時、
神の子として自ら自覚します。
そして、自分が望むことなしに見えない世界からのご協力が頂けます。
いろいろと不思議な事をもって現象として現わしていただけます」

このように説かれた高橋信次先生の教えを頂きまして、
全く仕様のない人間だった私が、
今日こうしてあちらこちらへ回らせていただく
ご縁を作っていただいたのです。
では、私が高橋信次先生の教えを直接受けたのかと言いますと、
一回も指導は受けておりません。

しかしご指導を受けることはできなくとも、
その先生の教えをよく理解させていただき、
「私の身近にあっても遠い弟子、遠くにあっても身近な弟子、
それは実践の中にある」と言う先生の言葉をかみしめて、
私は日々の生活の中で先生のいちばん身近な弟子に
してもらおうと思いました。

いちばん身近な弟子になるには、その教えを行えばいいのです。
だからその当時、先生の後を追いまわして日本国中ついて歩いていた
熱心なお方もありあしたが、先生が亡くなられたら、又迷っておられます。
それは実践が足りなかったからです。


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「御垂訓」

2022-06-30 00:03:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

  仏陀、イエス、高橋信次先生の一番身近な弟子に

今日の私の存在は、高橋信次先生とのご縁があってこそで、
先生とのご縁がなければ、とても今の私はございません。
高橋信次先生はご存命中に、このようにおっしゃいました。
「私の身近にあっても私から遠く離れた弟子もある。

また巡り合うことが出来なくても、私の最も身近な弟子もある。
それは、私の説いた法を実践してくれる人である」と。
この教えを頂きまして、先生は忽然とあの世にお帰りになりました。
その後、私はほんとうに精神的に路頭に迷いました。
泣いて泣いて、泣き叫びました。

未熟な私が心から頼りにしているお方が、
突然この世を去られましたから、
一体何を頼ったらいいのか、
私はどなたの教えを受けて学ばせていただいたらいいのかと、
途方にくれてしまいまして、
三日間というものは馬鹿のように大声をあげて泣きました。

私の家内が「頭に狂ったのと違うだろうか」といって、
すごく心配してくれたそうです。
しかし、泣き叫んだあとで、
「先生はちゃんと御著書を著わして下さっている、

又声を聞きたければ、テープも全部残して頂いている、
誰にも頼らなくともその先生の教えを頼りに学んでいこう」と、
自ら心に思い決めました。



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「御垂訓」

2022-06-29 00:06:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より


       講演集、 一

神の御心
いとしき我が子よ、いとしき我が子よ
そなた達は幸せに生きよ、健やかに生きよ
己自身を苦しめることなかれ
己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ
汝らの喜びは我が喜びなり
汝らの苦しみは我が苦しみなり
いとし子よ、自らを苦しむることなかれ

汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
自らの神我に目覚めよ
我は愛故にそなた達を
形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり
いとおしきが故に旅に出させし者なり
いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち
旅立し日より今日までをよく振り返り見よ。
我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
もし我が心と離れし箇所に気付かば
それを悔い改めよ

その時、汝らの魂は清まれり
我が与えし、その肉の身を持ち
我が思いをこの地上に示し現わせよ
我が心を地上に具現せよ
汝らは我がいとし子なるが故に我は汝らの父なり
父はただ、子の幸せを願う
自らを浄め、自らを高め、自らの神我に目覚め
我が胸の中に帰るべし
我はただ、汝らの帰りを待ち望むものなり


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「御垂訓」

2022-06-28 00:14:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


          講演集  一
           
          神の御姿

我は姿あって姿なし

姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ

姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ

汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ

姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん


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「御垂訓」

2022-06-27 00:05:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 一

日々に神の御胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ

集い来る過去世に学びし友がらの一人一人のいとおしきかな

愚かにも悪業重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国

苦しみを感謝いたしてお受けせん尚この上に与え給えと

何事も父母の心の安かれと祈りつ我は事をおこなう

現象は神の証しと思いしれ行なき者に現象はなし


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「御垂訓」

2022-06-26 00:03:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一

            「正しい真の信仰」

先の続き・・・

自らが神の御子として目覚めた時、神は光なり、
光の中に闇が入ることはできません。
絶対に入れません。
自然界を見て下さい。
どんなに闇がたちこめましても、
この電気のスイッチ一つひねったら闇は消えます。

そして光ある所には絶対に闇は侵入できません。
自ら光と化して地上を照らすのです。
「下座にあってその一隅を照らすものは、地上の宝である」
常に下座にあって、自分のいる人隅を照らしたいいのです。
自らの光で、自ら光となって一隅を照らしたら、その人は地上の宝です。
それは自ら光に目覚めているからです。

高い灯台の先で水先案内をしても、灯台の足元は見えません。
上に上がればたとえ遠くを照らしても足元の役には立たないのであって、
まず下座の自分の周りを照らすことです。
自分の心の中に、或いは家庭の中に、
喜びと安らぎの世界を建設することです。

これが本当の信仰だと思います。
その神の証しとして、今ここにおられる人の胃をこの場で
上に上げて見ましょう。
こんなことは普通ではできないと思うのですが、
しかしそれができるのです。

ただ口で言うだけでは信じてもらえないので、
ちょっと触ればすぐ分かりますから、
胃下垂と思っている方、何人か前もって試しておきましょう。
(と言って、何名かの胃下垂の人達の胃の位置を確認されてから、
神に祈られました。
 こうして参集者全員の胃を正しい位置に上げてくださいました)



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「御垂訓」

2022-06-25 00:12:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 一

       「正しい真の信仰」

先の続き・・・

全てを生かそうとする大自然の生命力、
この生命は、間違いなく私達に与えられています。
生命があるから生きているのです。
生命のないものは死んでいます。
花も虫もその生命力によって生かされています。

生命が宿っている、この生命こそ神の分け御霊です。
この分け御霊をお互いに尊び、信じ、そして讃美し、
そのお互いを信ずることこそ神を信じることです。
お互いを褒めたたえることこそ神を賛美することです。

お互いを愛することこそ神を愛することです。
身近な神々とは、それは私達のこの生命です。
こしらえたお寺さんや、神殿の中に神はありません。
生命とは違うからです。

人の手をもって作られざる宮、この肉体こそ神の宮です。
自然がつくり、人の手をもってつくられざるこの宮こそ
神の住み給う宮です。

皆さん一人ひとりの中にこそ神はおわします。
私達の手や足よりも、もっと近い所に神様はいて下さるのです。
胸に手を当ててみてください。
心臓は間違いなしに鼓動を打っています。
この心臓の響きこそ神の響きです。

偶像は必要としません。
お互いに敬い、お互いに尊び、讃美して生きるべきです。
それが本当の信仰です。
このように生きた時、憑依現象など消えてしまいます。


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「御垂訓」

2022-06-24 01:19:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 一

        「正しい真の信仰」

先の続き・・・

「それはそうです。もし必要あらばあの世に持って行けばいいのです。
しかし必要がないから持って行けないのです。
なぜこのようなものを求められますか」と言いましたら、その神は
「恐れ入れました」と言ったのです。

大体人間に神がかりとして入って来て、自分は神の声を聞いたとか、
変な神の言葉をしゃべりかけたとか言うのは、
まあ九十九パーセント偽物と思って間違いありません。
必ずボロが出ます。
神様は物質によって与えられる方とは違い、姿が見えない方です。
だれもお姿は見たことはありません。

私達の心を通してこそ、神の御業が現れるのです。
見えない神様、見えない心、そして神様とは大宇宙を支配して、
地上界の万象万物を育て育む、その生命力こそ神の御心です。
真の神は言われます。

「私は形あって形なし
形あっては天地自然に現わせし姿これなり
形なくては汝らを生かさん力これなり
汝らを形あるものとしてこの地上に生じせしめ
形なき汝らの良心の囁きとなって我は証しせん」
私達の内なる良心の叫びこそ、神の御言葉です。

私達は一人ひとりの内に良心を持っています。
人には嘘をつけても、自分の心に嘘をつくことはできません。
全部自分が知っています。


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「御垂訓」

2022-06-23 00:03:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一

         「正しい真の信仰」

先の続き・・・

例えば、神様にたくさんのお金を供えたとしますね。
そして生活の中で過ちを犯し死んで地獄に行って苦しいものだから
「神様、私はお金をたくさんお供えして一生懸命信仰したのに、
なぜ極楽に受け入れてもらえないのですか」
と尋ねた時、神様は「私はあなたから一銭もいただいておりません、
だから私は知りません」とおっしゃいます。
神様には届いてはいません。

私は或る時、神だといって現れた神様と会話をさせてもらったことがあります。
その神は「エイッ、エイッ、私はXXの神だ。人間と云う奴は厚かましい奴だ。
あの願いをみよ。商売繁盛、家内安全、病気を治してくれ、
金儲けもさせてくれ。
厚かましい奴は死んでも命のあるようにと言う。
本当に厚かましい。

いっぱい頼んでおいて、あのあげる賽銭を見よ、五円や十円で、
わしゃ聞けるか」と言われます。
「それはその通り、人は頼む事多くして、為す事少なし、
私もそんなことを聞くのは嫌です」と言うと、「そうだろう」と勢い込んで、
そこで止めておけばこの神さんは偉かったのですが、
ところが本当の神とは違って、一般にある偽の神だったものだから、「神の世界も
人間の世界も皆一緒だ。ゼニも要れば物も要る。

もっと賽銭をあげろ、物を供えろ」と言ったのです。
「いやいや神さん、あなたはちょっと間違った。
神の世界は物やお金を必要としません」
すると、「いや要るのだ」とおっしゃいます。
それでは「物質化現象として現れたこの世の現象界の物質を、
なぜ実在世界に必要とされますか。
現れては消え、現れては消える。
その本質のないものをなぜ実在界が求めますか」。

それでもどうしてもお金が要ると言うので、水掛け論になりますから、
私のポケットを探しましたらちょうど三千円入っていましたので、神様に、
「今このポケットの中にさいわい三千円入っておりました。
この世のお金です。
これをあなたに差し上げましょう。

もしこのようなお金が誠に必要であれば、私の前からあの世、
つまり実在の世界に持って行きなさい」と言いましたら、
神はビックリして「ウアー、ウー」と唸ったので、
私は内心、神さんが本当にこのお金を持っていったら恐ろしいなあと
思っていたのです。

しかしそのままお金はなくなりませんから「いかがですか」と尋ねましたが、
お金はなくなりません。
三千円おいたままです。
「むずかいいのう」と言います。


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「御垂訓」

2022-06-22 00:13:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一

         「正しい真の信仰」

先の続き・・・

(再びの発言」「△△教のことですが、
ちょっと行かないと車が迎えに来るのです」
あらゆる信仰は組織をつくりますが、
組織そのものに「業」があるのです。
だから私は死ぬまで組織はつくりません。

組織をつくれると、人に苦しみを与える結果があるのです。
組織という原因により苦しみという結果がでます。
組織をつくれば組織の拡大がその中に含まれるので、
信者さんに次の信者さんを増やさせなくてはいけない。
そして偶像を与えなくてはいけない。

組織はお金を必要とするから、
何らかの理由をつけて信者さんからお金を集める。
そしてたくさんのお金が集まると、
上部は何千万円という絵を買ったり、
宝物殿を建てたり、大神殿を建てたり、

財産争いをして喧嘩した結果分裂してしまうのですが、
喧嘩するようなものは不調和です。
仲良くするのが調和です。
なぜ偉い人が喧嘩をしなくてはいけないのか。
それは組織の故に、そして欲望の故に迷うのです。
神はビタ一文お取りになりません。

神はお金を絶対に必要とされないのです。
もし嘘だと思えば家の神棚にお札をお供えしてごらんなさい。
これは人間が取らない限り、ネズミが引いていかない限り、
永遠にそこに一万円札はあります。
神様が手を出して一万円札を取られたならば本当でしょうが、
絶対に消えることはありません。

それと同じことで、宗教教団がお金を供えなさい、
玉串料をあげなさい、
お賽銭をあげなさい、献金しなさい、と言いますが、
神はいっさいお使いにならず、使うのは全部人間なのです。

組織と人間が使うのです。
そう思いませんか。
例えば、神様にたくさんのお金を供えたとしますね。
そして生活の中で過ちを犯し死んで地獄に行って苦しいものだから
「神様、私はお金をたくさんお供えして一生懸命信仰したのに、
なぜ極楽に受け入れてもらえないのですか」

と尋ねた時、神様は「私はあなたから一銭もいただいておりません、
だから私は知りません」とおっしゃいます。
神様には届いてはいません。


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「御垂訓」

2022-06-21 00:02:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 一

        「正しい真の信仰」

先の続き・・・

Oさんと言って一つの信仰をつくられた方があります。
信者さんからは神様としてあがめられております。
○○教の四天王の一人と言われた方です。
その流れを汲んで、Kさんという方が△△教というのをつくりました。
その教えは分裂して現在十いくつかに分かれています。

その中で特に△△教系統の信仰は、お清めと言って手をかざしますと、
よく霊が相手に乗り移ってくるのです。
這いず回ったりはね上がったり、泣き出したり、
わめいたりいろいろの現象が起きるのですが、
これは一種の憑依現象が起きているのです。
しかも成仏なさった方の霊の憑依ではなくて、
未成仏霊の憑依現象ですから、
すっかり不調和な恰好をします。

そういう不調和な霊が乗り移って来た場合、
却っておかしくなることがありますね。
乗り移られた者が不調和になります。
(参加者の一人の発言)「この近くに△△教の道場があって、
行ったことがあるのですが、いくたびに五千円要ります。
いただいたお守りを私は落としてなくしたから、
それを言うと罰金を出すように言われました。

その時一万円持っていたのですが、
全部出すと帰るのに困るから五千円を払って、
私はもうこれで止めますと言うと、
そのお金は受け取れないから奈良まで返しに
行ってくれと言われ、私はそのままにしていますが、
その時罰が当たると言われましたが何事も起こらず、
今日まで来ています。

罰は絶対にあたりません。
何故かと言いますと、神は無限の許しそして無限の愛です。
愛しい我が子に罰を当てる親がどこにありますか。
罰を当てるようなものは全部偽物です。
絶対に罰はお当てになりません。
大いなる愛、無限の許し、許しと愛の神様が、
なぜ人に罰を当てますか。
心丈夫でしょう。


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「御垂訓」

2022-06-20 00:03:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 一

      「正しい真の信仰」

先の続き・・・

私などは三百六十五日、一日も休みはありません。
夜昼通して関係なしです。
もっとも毎晩とは違いますよ。
昼でも普段は治療させてもらっていますが、その間電話はかかる、
お客さんは来られる、
こちらで話していたらあちらの方へと飛び回らねばいけないという風で、
夜は夜で電話がかかって眠れません。

今年からは毎日行っていた反省会、禅定は月・水・金になったのですが、
今迄満五年間は毎晩坐らせてもらっていました。
その間に集まって下さる方が段々増えまして、
三十人、四十人とお見えになります。
少なくとも二十人は切れません。
この一時間は心の洗濯です。

今日一日自分の生活態度はどうであったか、間違いはなかったか、
もし間違いがあれば、
明日の生活の中で再び間違いを起こさないように努力をいたします。
こうして自分を正しくしていくのですね。
普通でしたら、無理するとストレスが溜まると思います。
私の場合、ストレスは溜まりません。
全く溜まりません。

一日も休みなしに飛び回っていましても、
疲れてストレスが溜まるなあということはありません。
なぜストレスが溜まらないかと言いますと、
それは心の持ち方にあるのですね。
ストレスとは日本語で書きましたら「歪み」という字です。
この漢字は「正しくない」と書きます。

不正とは何が正しくないかと言いますと、心の持ち方、
生活態度が正しくないということです。
歪ができて、その歪みが大きくなったら、
ストレス解消といって酒を飲んだり、
パチンコをしたり、ゴルフに行ったりするのですけど、
そんなものでは解消されず、
一時の気晴らしにしか過ぎません。

ストレスを正した時にはじめてストレスは皆消えるのです。
ストレスの消える方法は、それは無我の生活です。
有我に生きたら必ずストレスが溜まります。
そして霊的な面からみますと、有我の中に憑依現象が起きるのです。
自我が強いから憑依を受けます。
全く自我がなかったら、取りつこうとしてもと取りつく所がないのです。
だから憑依現象は起きません。
お金がたくさん欲しいというのも有我です。
何も要らないのが無我です。



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「御垂訓」

2022-06-19 00:00:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 一

            「正しい真の信仰」

信仰は正しいものと、そうでないものとあります。
それぞれに魂の次元に応じて信仰なさったらといいと思います。
しかし早く魂に目覚めて成長して、
玩具の要らないようにすることが大事です。
幼児から早く成長することです。

いろんな霊能者とか、不思議な信仰の力をもって人を癒したりする
宗教もあります。
しかし本当の正しい力には及ぶことはできません。
ある念の力で、例えばその信仰によって偶像を持つことで
神の光をいただける、
そして光を取り次したら病気が治るという信仰もあります。

けれども神の光はお金では買えないのです。
それは真心によって与えられるものです。
真心による正しい行動によって、神の光が与えられます。
そして正しい心を知らないでそういうことをしていますと、
とんでもない霊的現象が起きますね。

蛇のように這いずり回ったり、身体が揺れたり、
これらは全部悪霊が出て来るのです。
そういう場合は大変な危険が伴っています。
霊能者とか、心霊治療とかありますが、
先程話しましたK先生などは、
本に書いておられるように、
幼い頃からずっと霊の憑依を受けていたのですね。

自分自身が憑依体質で、
そういう中から救う立場に変わられたのです。
しかし本質はとりつかれる体質です。
私は今、腰の治療に通っているとか、私は体が不調和でないと
生き甲斐がないとか書いておられますが、
不調和だから身体が悪くなるので。
調和しておれば悪くなる筈はありません。
そこから見ても分かるでしょう。



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「御垂訓」

2022-06-18 00:45:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一

            「心のふるさと」道場

今、皆さんの「心のふるさと」をこしらえています。
しかも一銭の寄附を募っておりません。
大工さんに任せていたら、
好き勝手に良いものを造ってくれております。
するとお金はたくさん要ります。
何千万要るか知りませんが、
不思議なことにお金はどこからか入って来て、
ちゃんと支払えるのです。

これはもう天から与えられているみたいです。
私は少しもお金の段取りはしませんけれども、
どこからかお金が入ってきて、
ちゃんと片付けて下さいます。

玄関も良くしなくてはと言って、内は磨いた石を敷きまして、
こんな昔風にしたら、
これだけで家一軒建つと言って大工さんは頑張っております。
これをしたら今度は門を良くしないと恰好がつかないと言って、
今度は門をしていますが、門は玄関より高くつくと言うのです。
しかし不思議なくらい与えられています。

これも神が隠れた天の蔵から必要に応じて
出して下さっているのだと思います。
寄附して下さいとはいっさい申しませんが、全く不思議です。
だから天の蔵には本当に積まれるのだと思います。
必要があれば必要に応じて与えられます。

お陰様で毎月のお話会に―――現在の私の所では
毎月第四日曜日に行っていますが、
百五十人から百六十人の人は来られますので、
場所が狭くなって、
それで場所を繕うことになりました。
今の所二百人位なら入れる広さになりましたが、
これ以上になると難儀だなあと思っています。

しかし必要があれば神様が造って下さいます。
自分で求めません。
来ていただきますと、
五人や住人は泊まれる部屋もつくっていますから、
又大阪にお見えになった時は、一度立ち寄って下さい。
いっさい無料です。



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「御垂訓」

2022-06-17 00:20:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 一

          「調和のすばらしさ」

この世に生まれた目的とは、前回でも触れましたが、
人々と互いに手を取り合って助け合い、
愛しながら調和を目的として生きることですね。
「調和」とは素晴らしい言葉ですし、
政治家も調和などとよく使っておられます。
調和とはバランスです。

どちらに片寄ってもならない。
やじろべえはどちらも重さが釣り合っているから、
細い先に立てても落ちない。
調和がとれているからで、
どちらかを重くしますと落ちてしまいます。
私達は日々の生活の中で常に、
そのどちらにも片寄ってはなりません。

例えば先程の母娘の場合のように、
姑さの為に付きっきりで夜通し世話をするのは良い行いです。
しかし子供を放っておいて、
バランスの重さが姑さんの方へ余りにも片寄り過ぎて、
子供への重さがなかった為に、不調和が起きていたのです。

バランスをとるというのは、
お姑さんの世話もしなくてはいけないと同時に、
子供さんへの愛も注がなくてはいけなかったのですね。
そのお母さんは後になって尋ねられました。
「姑さんの為に尽くしていたら、それは良いことだから、
その徳は子供に与えてもらえると思ったのですが―――」と。
いいえ、これは与えられません。

神は平等です。
姑さんに対してよく尽くされたことは親戚も病院も家族の方も皆、
この点についての評価はします。
しかし子供の心に寂しい辛い思いをさせた評価も、
間違いなしに受けるようになっているのです。
だから、日々の生活がいかに大切であるかということです。

良い事をしても、
そちらに重みをかけ過ぎたらアンバランスになります。
よく恋愛結婚をして好きだと言い合っていても、
子供ができますと奥さんの愛城が子供の
方へ行き過ぎて、その主人がヤキモチを焼くという例があります。
これなどもバランスが崩れるから主人が面白くないのですね。
調和を欠いているわけです。

ですから常に調和するように、
心の重さを検討しながら生活することですね。
でないと、いかに良い行いをしても不幸にはまる例があります。
それと良い行いをして、その後に自分の心を苦しめた時も、
せっかくの良い行いは悪に変わります。



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