浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-04-30 00:36:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一

      「仏壇には感謝の心を供える」


先の続き・・・

近くの人で息子さんが半身不随なのですが、
その大きな邸宅に招かれて座敷に通されますと、
隣の仏間でその家の
おばあちゃんがお祈りをしておられるのですね。
このおばあちゃんは健康だけど足が痛いのです。
「ご先祖様、私は足が痛くて難儀しております。
どうか私の足の痛いのを治して下さいな。
息子はこんな不自由な身体ですのでどうぞ守って下さい。
孫の誰々は何々ですからどうか守って下さい」と言って、
何と一時間も頼んでおられます。
もう八十歳近いおばあちゃんですから、
そんな風に拝んではいけませんよと言ったのですが、

ここのご先祖様はさぞや苦しくて悲しまれることでしょう。
宗教の中には「ご先祖様は子孫のことを思っているのだから、
精一杯無理を言えばいい」と教えているのがあります。
しかしご先祖様に対しては絶対に頼みごとを言ってはいけません。
貧乏でお金が無いから、サラ金で借りたなどと言ってごらんなさい。
親はどうしたらいいかと悲しみます。
姿があればまだ何とかしてやることもできますが、死んでしまったら、
もうどうしてやることもできませんね。
仏様の前でお願いごとをしたら絶対に駄目です。
不孝です。
親不孝であり、先祖不孝です。


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「御垂訓」

2020-04-28 23:56:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は二千有余年前イエス様がご生誕された馬小屋(洞窟)のその場所には
生誕教会が建立されています。
内部のまさにイエス様がお生まれになられた個所には銀の星状の輪がはめ込まれています。
星中央の穴の周囲にはラテン語で「ここに、救い主イエス、おとめマリアから生まれる」
と刻み込まれています。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一

     「仏壇には感謝の心を供える」


先の続き・・・

先祖供養について、供養の最終目的というのは、
亡くなられたご先祖様が極楽に救われて下さることです。
仏壇の中にいてもらうのが最終目的とは違います。
或る宗教ではお位牌を作って、これが何とご先祖様の止まり木だと
言っていますが、こんな位牌に止まらされたらかないません。
小鳥みたいなものです。
では極楽に成仏していただく為にはまず喜んでいただかなくてはいけません。
安心していただかなくてはいけません。
例えば親の立場として、孫を授かれば祖父母の立場になりますが、
もし子供が苦しい思い、悲しい思いをしておれば、親としては
ほんとうに辛いです。

代われるものなら代わってやりたい、何とか幸せになってほしいと
思うのは親心ですね。
おじいちゃん、おばあちゃんもそれ以上の思いです。
またひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんは余計にいとおしいのです。
私達に対してね。
仏壇の亡き人の前で、日頃よく過ちを犯している方があります。
腰が痛いので治して下さいとか、夫婦仲が悪いから仲良くなるように
して下さい、また主人の根性が悪いから直してください。
と言って拝んでいる場合があります。
お嫁さんがお仏壇の前で主人の悪口を言ってはいけません。
そこのご先祖様が怒られます。

何を言っているのか、家に嫁に来て、うちのかわいい孫に対して何と
いうことを言うのか、というわけで、お嫁さんはもう失格ですよ。
私達子供らが、亡くなったお父さんお母さんに、私達はおかげで
こんなに幸せに暮らしております、夫婦は仲良くしております。
或いは、子供はこんなに健やかですと言って、
娘や息子が挨拶してくれたら、ほんとうに嬉しいです。
ああ有難いなあ、もう何も思い残すことはないと喜びます。
反対に、私達辛くてたまりません、何とかして欲しいと子供達が
言って来たとしたら、難儀だなあと思いますね。


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「御垂訓」

2020-04-27 01:45:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はイスラエルの聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様に
光を送られている恩師「長尾弘」先生です。
この後、先に投稿したお写真のように石膏で作られたマリア様のお顔の表情が変化し
瞳から涙が流れました。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

     「仏壇には感謝の心を供える」


お仏壇についても同じことが言えますね。
仏様にお供えしたあとお下がりをいただきますが、
ご先祖様の好物であっても、
それが自分の嫌いなものであれば、
お供えはしないです。

自分の好きな物を買ってきて供えています。
ほんとうのお供えというのは、
たとえ自分の嫌いなものでも、
ご先祖様の好まれた物を差し上げることでしょう。
もしご先祖様がほんとうに召し上がったらかなわなし、
また文句を言うかもしれませんね。

供えるというのは、
ご先祖様への自分の感謝の心を供えるのです。
「ご先祖様、今日もこうしてご飯を炊かせていただきました。
これもご先祖様のおかげです」
といってお供えするその心ですね。
またお茶を沸かした時に、
日に一度お供えして感謝するのです。


◆おしらせ
明日の28日にインターネットのメンテナンスをプロバイダーが計画しております。
ですから明日の投稿が出来ないかと思いますので先行してお知らせします。

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「御垂訓」

2020-04-26 00:13:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一

       「真の神様はお金を必要とされない」


そして何々の命(みこと)とか、何々の大神とか名乗ります。
この場合も悟っていない神だったので、
私の前でボロを出してしまいました。
「人の世界も神の世界も同じで、もっと賽銭を上げよ」と言うので、
「いやいやあなたは間違っている」と言っても聞き入れない。
物質としてただ現れているものを、どうして神が求められますか。
こんなお金などは必要とされない筈です。
お金はただ一時現れては消えていく姿です。
私達のこの肉体でさえオギャーと生まれて五十年、百年のうちには
消えていくのです。
そして又新しい命が生まれては、又消えていき、新陳代謝を繰り返し
ています。

私達自身が大いなる神のご神体の細胞の新陳代謝を起こしているわけです。
古いのは滅んで新しいのが生まれて来る。
神様の身体の中で新陳代謝を起こしているのが、私達の身体なのです。
自分は死んだ後に、子や孫が生き代わっていくのが定めです。
絶対に死なないという人はありません。
お金を必要とする神様は偽物者と思ってください。
お宮にしろお寺にしろ、又さまざまの宗教にしても、
お金を上げなさいと言って献金とか玉串料とか
お賽銭とかいうことがあります。
しかし、それは神の名を使ったごまかしのようなものです。
本当の神様はお金をお使いになりません。
必要とされないのです。
お札はお足といいますが、流通しているお札の期間というのは、
ほんとうに短いのですよ。
全部現れては消えているのです。
お日様は一銭の請求もされないし、
また神様も一銭の請求もされません。
結局神や仏に上げたお金を使っている人間が問題です。


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「御垂訓」

2020-04-25 00:20:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はその昔、イエス様がゴルゴダの磔刑場にご自分が上がられる十字架を
背負われ歩かれた悲しみの路(ビアドロローサ)を観光客の方たちが歩かれています。
一体彼らの胸に去来するのは何であろうか。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一

       「真の神様はお金を必要とされない」


よく神様にお金をあげなさいという宗教がありますが、
あれは皆おかしい。ほんとうの神様から見るとおかしいことです。
今この世にある殆どの宗教は、お金をあげることになっています。
あなたの罪を私がお金で買ってあげましょうと言って
神様が取ってくださるならたくさんお金を上げたらよろしいが、
神様にお供えしたお金は、皆人間が使い、
そして組織が使っております。
マンモス宗教の偉い人は、栄耀栄華を極め、走り回っております。
いい証拠として、
私は神様と名のる者を人間の身体の中に入れることができますし
悪霊も自由に入れられます。

或る時、
神と名乗る方を現実の肉体を持つ方の中に入っていただいたことがあります。
その神は、僅かの賽銭で多くの願いごとが聞き入れられるか、
とおっしゃいます。
しかしほんとうの神様ならば人間の肉体の中には入られません。
人間の中に入る神様は、偽者の神様です。
この辺りにも、いわゆる「拝み屋さん」というのがありますか?
神様が体内に入って来ると称して拝む人ですが、これは百パーセント
偽者と思って間違いありません。
それでは何が入って来るのかと言いますと、全部成仏していない霊が
入るのです。
悪い霊です。



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「御垂訓」

2020-04-24 00:26:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はその昔、イエス様がガリラヤ湖の岸辺を歩いておられるとシモン(別名ペテロ)
とアンデレの二人の兄弟が舟に乗り、網で漁をしているのに出会いました。
彼らは漁師でした。イエス様が「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と、
声をお掛けになると、二人はすぐに網を捨て、イエス様についていきました。と聖書に書かれています。
そのガリラヤ湖を背景に周辺の景色をカメラで撮影されている恩師「長尾弘」先生です。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一


先の続き・・・

感謝する者にも、しない者にも、同じように熱と光を注がれます。
天に唾すれば自分に返りますが、これは引力の法則で、お日様は
唾をかけようとは思われないのであって、
自然の法則で唾が自分にかかっただけのことです。
私達も、もし過ちを犯せば自分に返ってきます。
天に唾するのと同じです。
私達も自分にとって都合が悪いからといって報復手段を取ったり、
言葉でもって悪口を言われたから言い返してやったというようなことをしたら、
太陽の心に背いています。

何を言われようと、「ただ、させていただく」その行為こそ神の行為です。
いくら慈悲を与えても洞窟の奥底へ逃げる人があります。
これは自ら逃げるのあって、太陽が与えておられないのとは違いますね。
逃げるから、光を避けるから届かないだけです。
ほんとうに大いなる神の光から遠ざかって人生を生きている人もありますね。
そのように太陽は自らを犠牲にして他を生かし給う姿、
万象一切のものについて差別をされない、罰を当てない、
報酬をお求めにならない。神様もそれと同じです。
ただ与え給うのみでいっさいお求めになりません。


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「御垂訓」

2020-04-23 00:04:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は聖墳墓教会内の壁に描かれていたイエス様のお顔(?)の
ような絵(写真)です。
この絵についての特に説明文のようなものはありませんでしたが、
取り敢えずカメラに収めたものです。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一

  「自分を犠牲にして愛を与え、差別せず報酬を求めない太陽」


私のとても好きな言葉は「太陽の心」です。
太陽は太陽そのものが燃えさかって、
自らの身を燃焼させ犠牲にして、
その結果として現れた熱と光、つまり慈悲と愛ですね。
この慈悲と愛を他へ与え給うのです。
自分を犠牲にしてその結果として生まれたエネルギーを
他へ与え給うのです。
宗教の宗とは宇宙を示すと書きます。
宇宙を示す教えがほんとうの宗教であり、
しかも最も近い宇宙は太陽です。そして太陽系です。
その最も身近な太陽系が、
生きざまを自分の姿をもって教えて下さるのです。
それは自分を燃え上がらせ、自分を犠牲にして他に慈悲、
愛を与えなさいという姿として太陽の中に表わされています。

どんなものにも差別をしない太陽は、病人も、健康な者も、
身分の高い方も、天皇、大臣、名もない者も、
皆平等に光を与えて下さいます。
私達もすべての人と平等におつき合いせねばなりません。
あの人は都合が悪いから嫌いだというのは、
すでに差別をしているのですね。
私の悪口を言ったからもう相手にしないというのも、これも差別です。
人種差別も、人の好き嫌いも、みな差別です。
いっさい差別してはならないのが神の教えです。
罰を当てない太陽の姿は、神の心を表しております。
神はいっさい罰を当てません。
外に出て太陽に向かって「バカヤロー」と言ってごらんなさい。
太陽がお前には光をやらないぞとは言われません。
燦々と与えて下さいます。



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「御垂訓」

2020-04-22 02:04:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がイエス様についてのご講演中恩師の
お顔がお写真のように変貌されました。
このご講演を聴かれていた学びの友の方がカメラに収めたものです。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

              講演集 一

        「太陽・大自然への感謝」


太陽の熱、光について考えてみますと、
今よりも更に何十度か太陽の熱が高かったり光が強かったり、
光が少なかったり、温度が低かったりしたら、
私たちは生きていけないのです。
ちょうど二十度、三十度の、
私達が生きさせていただくのにぴったりの温度を与えられています。
もう五十度も低かったら、
人間は寒くてとても生きられませんし、逆に五十度高かったら
熱くて人間の丸焼ができます。

このこと一つ見ましても、何と有難いことだなあと思いますね。
しかも一銭のお金も出さずに毎日毎日熱と光を与えて下さって、
こんなに有難いことはありません。

お日様からいただいている熱と光を換算すると、
一秒間に地球がいただいているエネルギーは
石炭二百万トンを燃焼するだけのカロリーに相当します。
一日分の熱量代を支払おうとしたら、地球は破産してしまいます。
しかも報酬は求められません。

また目に見ることはできませんが、この空気中には、
私達が生存させていただくだけの酸素がちゃんと与えられております。
酸素が欠乏したら忽ち困ります。
それを十分にいただきながら感謝することさえ知らなかったですね。
生まれて以来今日までに、
ああ空気って有難いなあと感謝された方がありますか。
これは案外少ないですね。

ほんとうに感謝の対象は無限にあります。
酸素をいただき有難いことです。
この自然から与えられる自然の大慈悲、
大愛の中に生存させてもらっているのに感謝を知らない、
にも拘わらず感謝しないからあなたには空気をやらないとは
自然はおしゃいません。


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「御垂訓」

2020-04-21 00:28:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先日投稿しました聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様に
恩師「長尾弘」先生が心の中で対話され、光を送られました。
すると、ご覧のように石膏で作られた聖母マリア様が涙を流されました。
この情景はビデオにも収録されています。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

            講演集 一

       「心を変えた私の体験」


以前の私は口を聞けば相手を傷つけ、
「何を言うか、この馬鹿たれ」と言うような私でした。
それを、口を聞けば人様に喜んでもらえる言葉、
希望や安らぎを与える言葉、
それ以外は使わないようにしようと決めて、
少しずつ実践させてもらいましたら、
以前とは全く違う嬉しい顔の自分になりました。

以前の私を知る人は「よくもこうも変わったなあ」と言われます。
誤まった生活をしていますと、目が曇ります。
自分では見えないけれども、以前の険しい目付きではなく、
優しい目付きに変わってきました。
自分の思い、心を変えるからこうなるのです。
健康にもなれます。
私の顔を見て下さい。
いつお会いしても、何回お会いしても常時笑っていますので、
「先生には苦しみはないのですか」と人に聞かれたりします。
この世に生きさせてもらって苦しみがないことはありません。
けれども、この苦しみに対して見方、
思い方を変えてしまうのです。



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「御垂訓」

2020-04-20 00:21:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先日投稿しました聖母マリア様のお顔の部分を拡大したものです。
恩師「長尾弘」先生がこの聖母マリア様に心の中でお話をされた時、マリア様が涙を
流されました。(この時のお写真は明日投稿する予定です。)


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

         講演集 一

    思い変えの方法「結構の源やん」


「ごめん、源やんおるか!」と言うと、
「ハーイ」と言って出てこ来られたそうです。
「かなわんなあ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。
「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。
「これだけ雨が降るのに何が結構や」と友達が聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天でこう受けてくれはって、 
そして一杯たまった三十日分の雨をバーッと一遍にぶっちゃけてくれはったら、 
家も畑も田圃もみな流れてしまう。
こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と言って
喜ばれたそうです。

もう食うていけないような状態の中にあっても、
毎日降る雨を一度に溜めて降らしたら、えらいことになるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは、神さんって有難いなあ
というように思い方を変えてしまうのですね。
世間の人は皆「かなわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な、まあ大金持ちですね、大分限者になられたそうです。
大阪では有名な話です。

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びにくる」

私達はまず喜ばなくてはいけません。
そうしますと喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことが言えます。
不足、愚痴、そういう思いを想念し、行為しておりますと、
不足や愚痴がよけい不足や
愚痴を言って、不足や愚痴を集めて来ます。
幸せになる筈がありません。
すべてを喜びに変える方法は、この「源やん」の思い方をうまく
利用することですね。
そうしますと、どんなものでも喜びに変えられます。
見方、思い方をちょっと変えてみますと、
感謝することは一杯あるのです。


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「御垂訓」

2020-04-19 00:02:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先に投稿しました聖墳墓教会内にイエス様が磔刑に掛かられた十字架の
レプリカに向かって右側に安置されている聖母マリア様の銅像です。
恩師「長尾弘」先生がこの聖母マリア様に光を送られ心の中で対話をされた時、
この聖母マリア様がまるで生きている人間のように涙を流されました。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

         講演集 一

    思い変えの方法「結構の源やん」


人生は思い変えの訓練が大事です。
その訓練の最も良い方法で皆さんに分かり易く一番参考になるのが
「結構の源やん」の話です。
現在の東大阪市に、名前は「源やん」渾名は「結構」という方が
おられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不満不足を言われなかった。
何が起きても「ああ、結構やないか、結構やないか」とおしゃったのです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という呼名がついたのです。
で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一ヶ月からも降ったそうです。

その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」といって、
三日間、仕事ができなければもう日雇いの人は食べていけないような
状態だったのです。
その時は一か月から雨が降り続いたということです。
源やんの友達の人たちが、「さすがにあの結構の源やんも
これだけ雨が降ったら、もう結構とはよう言わんやろなあ。
一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、
源やんの家に行ったそうです。


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「御垂訓」

2020-04-18 00:11:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は磔刑場ゴルゴダの丘に建立された聖墳墓教会の一部を
カメラに収めたものです。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

                講演集 一

       「心の法則を利用して感謝する」


一つ一つしか思えない人間の心をうまく利用したらいいのですね。
人様に尽くさせてもらう時には、その尽くす思いしか持てません。
また有難いなと思う時は、その心だけを持つことができます。
その時は不足は言えませんね。
宗教はすべて感謝を教えます。
感謝している時は、さっき言いました砂袋に砂を
詰めることはできないのです。

「有難うございます、有難うございます」という感謝の心を
持っている時は愚痴も言えませんし、怒ることもできません。
また不足も言えません。
感謝しながら不足を言ったり腹を立てたりはできません。
一日の内で一時間、いえせめて五分間感謝し、
有難いなあという時間を持たれたら、
その人の二十四時間のうちの五分間は心の中に魔が入って来ません。
もし一時間感謝の心を持ちますと、今日一日の中の一時間は
安らぎの時間が保てるわけで、
その間に一切の苦しみの原因を入れることはできません。
心は一つしか思えないのですから、
一生のうち今日の一日をすべて感謝に満たさせますと、
一生のうちの今日一日を心に曇る原因をつくらずに済むわけですね。
感謝は心を魔から守る武器です。

感謝には、そういう深い意義があるのです。
先程、神を信じるなら人を信じなさいと言いましたが、
そういう時間を少しでも長く持つことが幸せを守っていくコツであり、
幸せになる要領なのです。
苦しみに心を向けることをできなくさせるからです。
無理やりでも構いません、感謝の対象を見つけて、
感謝していったらいいのです。
その時幸せになります。
そういう思いを長く続けますと、やがて自分の肉体は勿論のこと、
或いは環境、或いは経済的に、また商売や仕事の面で
喜びに満たされてきます。


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「御垂訓」

2020-04-17 00:06:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先に投稿しました鞭打ちの教会(第一留)で鞭打ちの刑を終えられ、
その隣にある裁判所からイエス様が十字架を背負われてゴルゴダの磔刑場に向かって
歩かれる少し前の情景をレプリカで形作られた物です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

               講演集 一

       「一つ一つしか思えない心の法則」


不思議なことに、人間の心というのは、
一つ一つしか思えないことになっています。
「いやそんなことはない、私は器用だから二つ思うことができるよ」
といわれるかも知れませんけど、そんなことはありません。
「ああ悲しいよう、ああ嬉しいよう」というように同時には思えません。
悲しい時は悲しいだけ、嬉しい時は嬉しいだけしか思えません。
「腹が立つなあ、やあ幸せだなあ」と同時には思えないでしょう。
幸せな時は幸せな思いだけですね。

禅定といって心を安らかにする修行をしておりますと、
最初はよく皆困るんですね。
今日は一度心静かに安らぎ、禅定の世界に入りたいと思って坐ります。
するとカタカタと誰か下駄の音をたてて道を通ります。
せっかく禅定しようと思うのに、うるさいなあと、まず心が動かされます。
次にあれは男の人かなと思い、あれは音が少し軽いから女の人だなあ、
どこの人だろうか、それは分からないけどその人は別嬪さんかいなとか、
身体つきは大きいかな、小さいかな、
と心はもうとどまることを知らず飛び回ります。
しかし一つ一つしか追っておりません。
必ず一つずつしか心は動いていないのです。



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「御垂訓」

2020-04-16 00:19:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先に投稿しました鞭打ちの教会から出てイエス様がご自分が上がられる
十字架を背負わされ磔刑場に向かって歩かれた悲しみの路(ビアドロローサ)を示す標識です。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

           講演集 一

       「信じ、褒めたたえ、愛する」


神様を信じるとよく言いますね。
いったい神様とはどんな方でどこにおられるお方ですかと
尋ねられたら皆さんは何と答えますか。
(参加者の中から)「環境一切天の声と言いますから、
見るもの一切が神様と思えば間違いないと思っています。」
それは結構ですね。神様を拝みたいと思えば身の回りのもの
すべてが神様ということですね。
神様がご主人であり、親であり、兄弟であり、
またお友達そのすべてが神様。
神様を信じることが人を信じることであれば、
人の悪口を言って一方で神様を信じるというのは、
おかしいことになります。

人それぞれの心に神が坐(ましま)す。
全部神の分け御霊です。
夫婦で喧嘩をしたら神様同士が喧嘩をしたことになります。
これは不調和ですね。
それでいて一生懸命信仰しているとしたらおかしなことです。
まず神を信じるとは、自分に縁ある方を信じることです。
「神を賛美せよ」と言いますが、賛美とは褒めたたえることです。
自分に縁あるすべての人を賛美、褒めたたえるのです。
良き所を褒めたたえることが神を賛美することです。
「神を愛する」ということは、自分の身の回りの縁ある人をすべて
愛することです。

奉仕することです。
これが神様に愛を捧げている姿になるのですね。
人間などは放っておけと言って神様を信仰し、
信仰しない奴は駄目だと言い、
信仰信仰宗教宗教という人がありますが、
これは通用しません。
私のように泥棒まで信じていたらいいのです。
泥棒に罰を当てないで下さいと言っていますと、
その時自分自身が
苦しみから救われます。



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「御垂訓」

2020-04-15 00:13:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は「イエス様の御足を慕って」の旅で見学に訪れた
イスラエルに建立されている「鞭打ちの教会」です。
二千有余年の前、イエス様が無実の罪で当時のローマ兵に捕らえられ、
裁判の後、鞭打ちを受けられた建物が「鞭打ちの教会」となっております。
恩師「長尾弘」先生がこの教会の正面前でカメラに周辺の遺跡や建物を
撮られているところです。


~ 恩師の御著書講演集」より ~

              講演集 一

     「僅かな悪口に翻弄されて罪をつくる」


僅かのことで、あの人はああいうことを言うとか、
つい目の前に現れてくる出来事に翻弄されていきますが、
どんなことを言われても心から精一杯尽くした時、
また他から尽くしてもらえます。

それを「あの人はこうなんですよ、人に言うたらあきませんよ、内緒です」
と陰口をたたきますと、もう翌日にはちゃんと向こうに伝わっています。
すると又、あの人はいやらしいと悪口を言います。
自分が悪口を言われたければ、人の悪口を言えばいいのです。
忽ちに言ってくれます。
言ってほしくなかったら言わないことです。
ちょっとのことで心が動かされ罪を作っていくのです。



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