浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2021-06-30 00:27:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

人間とは神様の御心の一部を分け御魂として注ぎ入れられた存在です。
つねに神様のほうから流れてきている光によって生かされています。
神様の命をいただいて生きていられるのです。
だから、自分の心を苦しめ、汚すことは神様の御心を
汚すことにもなります。

与えられた心はもともと清流のように清らかなものだったのです。
自由意志を与えられているということは、
間違いを犯す自由も与えられているということです。
考えてみると怖いことです。

肉体も心も正しく用いるよう神様から一人一人に責任が
ゆだねられていると言えます。
間違うということは、その度に神様の御心から少しずつ
遠く離れていってしまうことです。
自殺は神の御心から最も遠く離れることです。
それは肉体の生命を否定するという思い自体が
最も神の御心から遠いからです。




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「御垂訓」

2021-06-29 01:46:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、
自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。

なぜサタンなのかと言いますと、
肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを
満たすことのできる状態に置かれるからです。

ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに
泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、

まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は様々な過ちの経験を通して
だんだんと進化向上して立派になっていけるのです。
私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。

金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。

これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。



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「御垂訓」

2021-06-28 00:21:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、
時代が悪かったとか、親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと
言いだしかねません。

これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、
落胆の思いが現在まで続いており、

積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、
これも自分が損です。
過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、
もうどうしようもないのだと
心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、
その重い心はもし地獄があれば
そこに落ちてしまいます。

また、過去の過ちをいつまでも悔い、
罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、
自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。
それを二度と繰り返さないことができたなら、
その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、
正しくありません。

「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、
自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。
過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。

自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方も
いらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶っても
かまわないじゃないかと言うのと同じ大間違いです。


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「御垂訓」

2021-06-26 23:55:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

        ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


それでは、
わるい環境や運命が与えられたらそれに甘んじろということなのか、
と疑問を持たれる方もおられるに違いありません。
一生苦労の連続だったとしても、明るく笑って、楽天的に過ごし、
人には親切にしていれば、苦しみと感じない分だけ幸せかもしれないが、
それではいつまでたっても自分の悪い境遇から抜け出せないではないかと。

ところが、想念はエネルギーですから、いいことばかり思い、
感謝と喜びばかりで生活していますと、だんだんと運も開けてきます。
思いの中に生きているからこそ、思いに翻弄されることなく、
思いを変える練習が大切です。
たとえば、こんなたとえがあります。
「牛の糞に銀蠅が寄る。花に蝶が寄る」
牛の糞はいくら美しい蝶に寄ってもらいたいと欲しても、
寄ってくるのは銀蠅だけです。

花は呼ばなくても蝶をひきつけます。
ということは、私たちも心を美しく清らかにすれば、
黙っていても蝶が来てくれます。
自分の心が牛の糞であるか、花であるか。

花になった時、自然に幸せは与えられ、健康も与えられます。
明るい素直な心を持って感謝と報恩の生活を、
そして見返りを求めず人に尽くす生活をしていれば、
自ずと周囲の環境が改善され、
望んだような現実も引き寄せられてくるものです。

だから、仮に恵まれない環境や不都合な
運命の中に置かれていたとしても、
心をテコの支点としてすべてをよしとして受け容れてゆく
肯定的な方向に思いの力を用いたならば、
これが現実を望ましい方向へと動かす力ともなるということを
知らなくてはなりません。
ただし、知る為には自分が行って体験的に
確認していくしかありません。



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「御垂訓」

2021-06-26 00:28:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆


先の続き・・・

人間は環境の中に生きていると思っていますが、
実は思いの中に生きているのです。
思いをいだく心は目には見えませんが、
形の世界である環境以上に幸不幸を左右する力を持っています。
人間の幸不幸を左右しているのは、環境のように見えますが、
実際は思いです。

ところが、私たちはこの思いをなかなか自由自在に
コントロールできません。
逆に思いに振り回されます。
その結果、環境に支配され、束縛されてしまいます。
本来は心のほうが手綱を握りコントロールの主人に
ならなくてはいけません。
本当は幸福な環境だとか不幸せな環境などというものはないのです。
恵まれた環境とか恵まれない環境というのはあります。

けれども、環境にかかわらず感謝できるか否かの違いが
最終的には幸不幸を決定づけます。
感謝できれば幸せと感じ、感謝できなければ不幸せと感じます。
思いが幸せならば幸せであり、思いが不幸ならば不幸ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、どういう条件の下にあっても、
一定して心に幸せの思いを持ち続けることが
できるかどうかということになれば、
これは非常に難しいものです。
このことは、どなたでもご自分の人生を振り返れば
おわかりかと思います。
いい時もわるい時もあったはずです。

景気によって商売が儲かって大喜びしたり、
人に騙されて損をして悔しがったり、
子供の心が間違ったほうに向かないかと取越し苦労したり、
子供の結婚が決まりほっとしたり、
転勤先の新たな生活に不安をいだいたり、
事業の失敗によってと法に暮れたり、
近親者の死によって悲しみに暮れたりと、

まったく私たちの心をよぎる感情は環境や境遇の変化につれて
天候のように移り変わります。
それは思いの中に生きなくてはならない人間の宿命です。
喜怒哀楽の感情があるのは自然です。
しかし、その感情からどれだけ自由になっていられるか。
とらわれる度合いが大きいほど、
その時々の環境や境遇に支配された心によって、
私たちの人生もまた翻弄されていきます。


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「御垂訓」

2021-06-25 00:50:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆


私たちはこの環境の中に肉体を持って生きていると思っています。
そして、幸不幸を左右するのも環境だと思っています。
私はこんな環境だから幸せになれないのだとか、
別の職場に移りさえすれば幸せになれる筈だとか言って、
私たちは何でも環境のせいにしたがります。
が、果たして本当にそうでしょうか。

この肉体が空気、水、太陽によって育まれ、
雨露をしのぐ屋根の下に住んで、
家庭や職場といった人間関係を含む環境の中に
生きているのは確かです。
では、空気がきれいで、水が良くて、
気候も温暖で、十分な広さの家を持ち、
家族に囲まれ、生活の糧を得るための職場が与えられたら、
毎日は幸せと言えるのでしょうか。

誰が見てもうらやむような完璧な環境の中にあっても、
本人の心が満足していなければ幸せとは言えません。
ダイヤモンドやサファイアの輝きに燦然ときらめくたくさんの照明と、
大理石の床や金の壁や銀の柱で荘厳された御殿のような大邸宅に住み、
金銀財宝に埋もれて暮らしている人がいるとしましょう。

しかし、やれ床が冷たいだの光がまぶしすぎるのだと言って
心に不平不満をいだいたり、
泥棒が入って財宝が奪われたりしないかという不安や恐怖の
思いを持っていたらどうでしょう。
その人の心は決して満足でも平安でもなく、
はたから見るほど幸せではないはずです。

一方、古い諺にある「竹の柱に茅の屋根、
筵を垂らして壁戸の代わり」というような粗末な家でも、
この竹の柱のお陰で屋根を支えてもらい、
茅の屋根のお陰で雨露をしのぎ、
筵のあるお陰で風を防いでいただくと思えば、そこは天国です。
質素な生活をしていても、わずかな物で足りていることの幸せに
常に心が感謝に満ちていることでしょう。
すると、どんな環境の中にあっても、
心の持ち方さえ感謝と喜びに向いていれば、
その人は幸せだということになります。

私たちは現在与えられている環境や境遇に対して、
それをそのまま有難く感謝して受け取ることがなかなか難しく、
何かにつけ不足な点を見つけては嘆いているものです。
感謝の理由を挙げるよりは、不満の理由を挙げるほうが得意です。
ところが、心の羅針盤が感謝のほうに向いていれば、
朝起きて太陽を見ても、顔を洗っても、
ご飯をいただいても、お手洗いに入っても、道を歩いても、
常に有難いはずです。
反対に不満のほうに向いていれば、何を見ても、
何をしてもつまらないでしょう。
人間関係も環境の一つです。

親切で温かい人々に囲まれ愛されていても、
独り心に深刻な悩み事をかかえていれば、
決して幸せとは言えません。
周囲の人も他人も心の中に入って思いを
変えるわけにはまいりません。
反対に厳しくつらいことの多い職場などの人間関係でも、
それを精神を鍛えるためのいい機会であると思えれば、
かえってそれらの人々の存在が貴重に思え、
そういう環境にも感謝できます。


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「御垂訓」

2021-06-24 00:02:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                 第三章 天上界への道

             ◆人々の喜びが無限のエネルギー◆


どこへ行こうと神様といっしょであるということを
実感していただきやすいように、
体験を書かせていただくことにします。

まず、神様は光であり愛であり、
命でありエネルギーであります。
自分の心の状態が真に神様の御心と一つになっていくと、
これらをいただいて自分の内に感じさせていただけます。
私は常に全国を飛び回っております。

休ませていただくのは、だいだい夜中の二時、三時前後です。
最近では、一週間ほど皆さんと中国に行きまして、
浄心庵に帰り着いた晩に、
地方まで帰られるのに一泊された方々と夜中まで習字を習い、
それから明け方まで一人で書いていたことがありました。
その日はまた午後から夜中までこの本を作るための
打ち合わせがありました。

朝まで寝ないことも珍しくありません。
自分の身を、生命を燃え上がらせております。
燃え尽きてしまいたいと思っています。
燃え尽きたら、あの世に帰らせてもらえばいいのです。
精一杯この命を燃え上がらせて、
その結果として一人でも多くの方から「会えてよかった」と、
喜んでいただけたら、使命は果たせたことになります。
命を賭けて法を実践させていただいております。

「命を捨てるものは命を得る」又、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という言葉がありますが、
肉体の命は関係ありません。
だから、無限の命、無限のエネルギーが与えられます。
こんなことが人間としてできるのかと思うほど
不思議なことを見せていただきます。
お招きいただきますと、どこへでも飛んでゆきます。
その時は、ただのご奉公、いっさいの報酬は求めません。

せめてその時間だけでも、神の子になりたいと思って、
神の御心どおりに自分が行い、
そのように生活させていただいております。
求める心があると、得られないからと言って
腹を立てることもありましょう。
しかし、どこへ行っても心安らかです。

癒しを求めて来られる方が何百人、
何千人おられてもかまわない、私の体が潰れるまで
ご奉仕いたします。
以前、東京に招いて頂いた時に、
たくさんの方々に囲まれながら、汗だくになり、
もう帰らせていただく時間ぎりぎりまでお話をしました。

その後、色紙に字を書いてる間にズボンをはかせていただき、
シャツを頭から着せていただいて着替えをして、
走って飛び出しました。
何処へ行かせて頂きましても、はじめての所ではお茶一杯、
タバコ一服吸わせていただく時間もありません。
肉体の限界にいどみ身はクタクタになりますが、
心は喜びに満たされます。


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「御垂訓」

2021-06-23 00:16:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第三章 天上界への道

       ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


先の続き・・・

世の中には様々な霊格を持った異なる段階の方々がおられます。
その中には普通人以下の人格・霊格を持った
「迷わせ人」という存在があります。
なぜなら、必ず、この迷わせ人にひっかかる
「迷い人」がいるからです。

それでないと迷わせ人は仕事になりません。
迷わせ人の一種である低級な霊能者や占い師、
予言者には人の悩み苦しみにつけこんで、
相手を脅かし、不安を与えるようなことばかり伝え、
ちっとも当の問題そのものを解決してあげられない方があります。

あるいは解決して挙げるからと言って、
高額なお金を要求してくる方もあります。
そう言う人々の餌食である「迷い人」にならないためにも、
自らが光となり、神の御心を行えるようになることです。

何処へ行っても、何処に居ても、またどんな状態であっても、
常に安心しているためには、
いつも「我、神とともにあり。神、我とともにあり」
という思いを持ち続けることです。

人間の都合によって、
その国を治めた権力者や宗教指導者らの都合によって、
いろいろと自分たちに都合のよいように
作りあげただけの話しです。

そうして定められたものが、
場所や方角の迷信として世に広まっていったものです。
地球は神のご神殿であり、ご神体です。
地球上どこへ行きましても大いなる神の手の
届かない場所というのはどこにもありません。
トイレでも、お風呂でも、暗闇でも、山に登っても、
海の中にもぐっても、全部神様の中にあります。


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「御垂訓」

2021-06-22 00:09:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
   
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

               第三章 天上界への道

      ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


先の続き・・・

ドッジボールほどの地球儀を持ってくれば、
日本の面積は小指ほどもないでしょう。
そこにある何県の何市などといったらもう針の先で
突つくほどもない小さなものです。
そんなところだけ神様がおられるなどということがありましょうか。
神様は遍在されています。

ちょうど太陽の光が地球に平等に降り注いでいるごとく、
あまねく神様の光は届いております。
私たちの住む地球を包んでいます。
日本だけにおられる神様で、外国におられない神様であれば、
これは世界に通用しない神様です。
日本なら日本だけ、韓国なら韓国だけ、
その国だけしか通じない教えであれば、それは
正法ではない、つまり真理ではあり得ません。
今お話させていただいている教えは、
宇宙の果てまで行ってもこの同じ話をさせていただきましても、
「ああなるほどそうか、そのとおりだ」と、通じる話です。

ただ、私たちの心の中にも同じ神様の意識の光が隅々まで
照らしてくださっているのだと
強い信念で思い、それを日々の生活の中でさらに深め、
体験と行いを通して自覚していくことです。
方角を気にされたり、占いや予言などに頼るあまり、
かえって心に不安をいだかれる方も
いらっしゃいます。

何事も中道を失ってはなりません。
不安を与えるような情報を心に入れたり、
またあれこれと取り越し苦労をするならば、
もうその行為自体が神の御心に反しています。
神様は、「自らの心を苦しむることなかれ」と仰せられます。
お釈迦様の弟子が或る時、師に対して質問しました。
「人が惑い少なく生きるには、どのようにしたらいいでしょうか」
お釈迦様は次のように答えられました。

「人がそのように生きたいのであれば、星を占ってはならない。
天変地変を占ってはならない。
あらゆる相を占ってはならない。
占ってもらってもならない。
そのように生きた時、惑い少なく生きるであろう」
惑いとは迷い苦しむことです。



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「御垂訓」

2021-06-21 00:04:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第三章 天上界への道

   ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆


私たちの肉体こそ「神の宮」として、
神が造られた神殿です。
どんな科学の進歩によっても、
それは造ることのできないものです。
また、この巨大な宇宙そのものも大神体であり、
地球もその一つです。
神様にお参りするにはどこそこへ
行かなくてはならない」とか、
「神社の便所を掃除したらうまくゆくのや」とか
言いますが、
この地球そのものが神の御姿の現れであり、
ご神体です。

それなのに、
定められた場所に行かなくては神様はいらっしゃらない
などということはあろうはずはありません。
方角が悪いとかなんとか言いますが、
神様のお体の中に悪い所があるわけがありません。
何処へ行きましても、神様の慈愛は満ち満ちています。
たとへトイレの中であっても、

生まれたままの姿でお湯につかるお風呂の中であっても、
例外ではありません。
正神殿とか御本尊とかおみたまとか称するものを
高額なお金で
信者に頒布している方がいますが、
これもおかしなことです。


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「御垂訓」

2021-06-20 00:00:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

               第三章 天上界への道

     ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


先の続き・・・

この私たちを取り巻く大自然も大宇宙も、
すべて神様の意識の現れでないものはありません。
言ってみれば、それらは神様の御心の表現された神様のご神体です。
私たちの肉体もけっして自分のものではなく、
神様から貸していただいているもので、
いつの日にかそれをお返しして、

あの世に帰らなければならない借り物にすぎません。
この肉体が自分のものならば、
「私は年をとりたくない」と思えば、年をとらないはずですし、
「白髪よ消えよ」と言えば消えなくてはならないはずですが、
これはどんな方でも思いどおりにはゆきません。

肉体は時とともに移ろい変わる無常なものです。
こんなものに執着していては、心ははなはだ不自由です。
しかし、この借り物の肉体を動かしている生命エネルギーは
形こそ見えませんが、

大自然や大宇宙を動かしているのと同じ一つの意識の働きです。
この姿なきものを神様と呼んでおりますが、
この意識の中心が私たちにも与えられた心です。
私たちは何をするにもまず心を動かし、心を遣います。

意識するとしないとに拘わらず、
その心の命令によって肉体が行動します。
ところが、本来は自由自在で無限の広がりを
持つ心が肉体に同化して、
肉体が自分だと錯覚するところから、
その自由性を奪われてしまいます。
私たちはそれぞれの個体を持っていますから、
一人一人の身体も心もバラバラで、
ちょうど海面の上に多くの島が点在しているように、
個々別々に分離しているかのように思っています。
しかし、それはそんなふうに見えるだけです。
寝ている時は意識が肉体を離脱しています。
幽体や霊体というもっとも波動の微妙な体に移り、
あの世に行ってそこで浄められたり、
エネルギーをいただいたり、修行したりしています。
私たちは昼間起きている時は、

10パーセントにすぎないと言われる表面の意識にいますが、
寝ている間はもっと深いところへ下りて行き、
90パーセントを占める潜在意識に
近い想念帯の中で夢を見たり、
それで魂の汚れが浄化されたりしています。
奥に行けば行くほど、個人の記憶や個人の感情想念の
記録された自我意識や個体意識の部分は少なくなり、
やがて海底ではすべてが地続きとなっているように、集団や人類の
意識になり、最後にはそれさえも超越した宇宙意識とか
神意識と呼ばれるレベルにまで到達してしまいます。

これが神様の御心であり、
大宇宙を動かしている意識と同根同質のものです。
それはすべてを生かし、育もうとする愛の意識であり、
すべてを調和へと導く永遠にして
変わることのない巨大な意識です。
一人一人の心の奥に、

内在する智慧に到達する教えである般若心経で説かれている
「内在する智慧」があります。これが神我の神意識です。
そこに到達するのに、
この神我を覆っている思いの曇りを除く必要があります。
座禅して空を求めるのもその一つの方法です。
空になると努力というのは自己保存と自我我欲を滅し、
神我を求めることです。

そうすると、「色即是空 空即是色」という形にも
何ものにも囚われない境地に達します。
しかし、別に誰もがそんな難しい修行をしなくてもよいのです。
当たり前の日常生活の中で、神様の御心を行なわせていただき、
もしそこから外れた行為をし、
思いを出してしまったら、早めに反省し、
その分だけつぐないの善き行為をすればいいのです。


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「御垂訓」

2021-06-19 00:31:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                第三章 天上界への道

       ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


先の続き・・・

四行目に示されるのは、
姿ある天地自然や万象万物の中でも特に人間のことで、
これも神の表現として形ある肉体を与えられ、
地上に生かされております。

三行目の「姿なくては生きとし生けるものを生かさん
その生命を見よ」とは、形あるもの
の背後にあって生命の原動力、
エネルギーを与えている存在としての神を知りなさいということです。
神というものがなければ、すべてのものには魂も命も
宿らぬことになり、ただの物体、
物質ということになってしまいます。
人間も同様です。

だから、四行目、五行目では
「汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ、
姿なき汝らの神我となりて、我は証せん」というのです。
つまり、あなたたち人間を肉体ある存在として地上に生かしながら、
私の存在を証し示すことにしようということです。
どうやって、証し示すかといったら、
各人の肉体の器の中に神の分け御霊である神の御心の一部が
最初から注ぎ入れられ、
それがだんだんと完全に現わされてくるにしたがい、
人間が神そのものの行為をこの地上に現わし、
人間がまさしく神の子であり、
神と人間は常にともにあり、
一つであるということがはっきりとしてくる
という過程においてなのです。

科学が客観性を重んじるのに対して、
宗教は体験を重んじてきました。
科学は証明できないものは真理として認めません。
しかし、神の存在は否定しても、
自然のエネルギーを否定できる人はありません。
大宇宙、大自然のエネルギーと呼ぶか、
神と呼ぶかの違いだけです。

私たちは、ただ自分たちの心の内奥に、
神様の御心がそのままに分け与えられた
神我を見出すことによってのみ、
神様の存在というものを知ることができるのです。
これは一人一人の体験の中でのみわかることですから、
「太陽の心」として前に示したような神の御心にかなう
言葉と思いと行いを実行した時に、
それがだんだんと本物の体験になってくるはずです。
これをやるやらないはもちろん各人の自由です。
ただ、真実の生き方というものを求めるのであれば、
どうしても避けて通ることのできない道なのです。


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「御垂訓」

2021-06-18 00:13:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                 第三章 天上界への道

         ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆


神様は私たちの目には見えません。
しかし、目には見えなくても神様を知る方法はあります。
それを神様ご自身が教えてくださっているのです。
そのことは、神様のおおせられる御言葉によって
よくわからせていただけます。

我は姿あって姿なし
姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ
姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん

二行目の天地自然・万象万物とは、山や川や草木や動植物、
そして星々や月や雨や風など、
あらゆる自然、命あるもの、天象の一切を言います。
たとえば、初夏の青々とした稲田のひとつにしても、
ある人はその美しさを俳句に詠み、

また或る人は私たちの命を育んでくれるお米とそれを作る人々に
感謝をしたい気持ちに駆られることでしょう。
その美しいなあと思う心とありがたいなあと思う心と同時に、
私たちはその美しさやありがたさを与えてくれる稲田の奥に
神の御心を見出すことができます。

「なんだ、ただの田圃じゃないか」と、
それを見てもなんとも思わないことだってできるわけです。
しかし、美に感動し、生命の糧に対し深い感謝の念を
抱けるほどの微妙な波動の心になれば、
自ずとそこに目には見えないけれども、いや、
目に見えないからこそ、それだけ厳かな気持ちとともに、
尊い神の存在というものを感じないわけにはまいらなくなるのです。

雨の音に神の足音を聞き、風の中に神の声を聞く。
形あるものをただ形あるものとして見ることができないうちは、
神を知ることも難しく、
この世の表面の出来事とかお金などに引き回され、
翻弄されて生きなくてはならないので、
人間はなかなか救われません。


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「御垂訓」

2021-06-17 12:33:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

ブログの投稿が遅れまして今となってしいましたことお詫びします。
昨日小生が居住している地域一体(比国バリアグ・ブラカン)が予告なしの停電がありました。
このブログはGoogleを利用しておりますので停電がある度毎にブログの投稿更新ができなくなります。
これを正常に戻すためにプロの方にその都度、手順を聞いて復元をしております。
Google以外のソフトでは停電に対する対策がされているようなのでこのようなトラブルは起きません。


      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第三章 天上界への道

     ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆


先の続き・・・

二、三年もしないうちにその時はやってまいりました。
息子さんが「やっぱり先生の言われたとおりです。
もう癌で入院させているんですが、
苦しんで痛がってたいへんです。
お医者さんが痛み止めを打ってくださっても効かず、
転げ回るんです。子としてこんな辛いことはおまへん。
なんとかしてください」と
おっしゃるのです。

「しゃあ、どのテープでもよいから持っていって
聞かせてあげてください」と言うと、
「でも、そんなテープを聞ける状態と違います」と言われます。
確かにその苦しみというのはたいへんなようで、
頭髪をかきむしってしまったり、
俯せで痛みを耐えるために畳をかきむしり、

畳の中の藁をみんな引っ張り出してしまったなどという話もあります。
病院のベッドの周囲の金属のパイプを曲げてしまう方もおられるそうです。
それほどの痛みがおばあちゃんにも襲ってきたということです。
そこで、聞いても聞かなくても、
とにかくそのおばあちゃんの耳元で私のお話のテープを
かけてもらうことになりました。

すると、一時間もしないうちに痛みはすうっと消えてしまいました。
おばあちゃんは、「己が悪かったんじゃ」と言って泣き叫んで、
「神様かんにんしてください。
己の生き方が間違っていました」と泣いて泣いて詫びられたのです。
そこへたまたま本家の兄さん夫婦が見舞いに来られまして、
部屋に入るやその声を聞き、
「このクソ婆は死ぬ時になってもまだお前が悪いと言っている」と言って、
夫婦で顔を見合わされたそうです。

しかし、弟さんが「いやいや、兄さん、違うんや。
このテープをかけると痛みがなくなり、
自分が悪かった、かんにんしてくれなはれと泣き出したや」と
説明しました。

兄さん夫婦も、それはよかったと喜びました。
それから、まったく痛みも苦しみもないまま
三日間安らかに過ごされて、
四日目に安楽往生なさいました。

おばあちゃんは、「有難うございました」と言って、
安らかに亡くなられたということです。
そして、驚くべきことにそのおばあちゃんの皺だらけのお顔が、
皺一本ないツルツルのお顔になられたということです。
この出来事で思いました。

人間は、たとえ九十年もの間、間違った人生を送ってきても、
その死の間際に法に触れて
自分の間違いに目覚め、「えらい間違いを犯しました。
どうぞゆるしてください」と必死で
お詫びできたら、必ず赦していただけるということです。
安らかなお顔で皺がなくなったのはその証しです。

法とはまことに有難いものだと思います。
しかし、よいことを聞いたといって死ぬまで
好き勝手に生きて死ぬ前にお詫びすればよいと
思わないでください。
私の話を聞いた以上、
ご自分の良心が自分を責め裁くことが起きます。


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「御垂訓」

2021-06-16 00:36:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                    第三章 天上界への道

          ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆


棺に遺体を納める際にマイナス八十度くらいの
ドライアイスを詰めるのですが、
私がこれまでにご縁があって見せていただいた方々の
遺体には不思議なことがよく起きます。

遺体の胸に手を当てるとまるでホカロンを入れたように温かく、
背中に手を回しても冷たくないといった奇蹟的なことです。
正しい法に触れて、心が救われた方は死後硬直も
冷たくなることもありません。

マザーテレサさんがお亡くなりになった時に、
死後四時間目の写真をいただきました。
以前お会いした時とはまったく違う美しいお顔になっておいででした。

落ち窪んでいたはずの目も若い時のようにふっくらとし、
とても死んだ方のお顔とは思えませんでした。
やはり、素晴らしいお方は、素晴らしい死を
迎えられるものだと思いました。

しかし、有難いことに、あまり素晴らしくない人生を送られた方でも、
死の寸前にこの法をいただき、反省によって気づかされ、
ああ私の人生は間違っていました、
たくさんの過ちを犯してきました、と悔い改めたなら、救われます。
その一つの素晴らしい例を紹介します。

九十歳近いおばちゃんの息子さんにご縁がありまして、
「恥ずかしいことですが、私の母は
絶対にいい所へは行けないと思います」と言ってこられました。
このおばあちゃんは、自分の子供たちからさえ、
「死んだら地獄行きだ」と確信されていたのです。

「どうしてですか」と尋ねますと、「お恥ずかしいのですが、
私の母は恨みと憎しみの塊です」と答えられます。
人の悪口は言うし、人を信ずることはできない。
出すことは大嫌い。もらうことは大好き。
九十年間のおばあちゃんの人生は
苦しい日々だったと思います。

「出すことはベロを出すのも嫌い。
もらうものは余所様の葬式でもでもほしいな」と、
実際にこのおばあちゃんは口にされていたそうです。
人の悪口は言う、嘘はつく、という人生だったと、
その息子さんが保証するのですから、
間違いありません。
それで、「どこから見てもいい所に行けそうにありません。
なんとか救うてもらえませんか」と、
息子さんからのご相談がありました。

「お歳は?」と聞くと、「九十近いです」と答えられるので、
「そりゃあもうあきまへんわ」と言いました。
九十年間、ご本人は自分を正しいと思って人生と思って
人生を過ごしてこられたのです。
その頃は私は五十前後でしたから、四十年もの年齢の隔たりです。
私みたいな若造が言うことなど聞いていただけないでしょう。
だから、どうしようもないと思ったのです。

けれども、もし間違った人生を過ごせば、必ず清算の時が来ます。
貸借対照表で赤字か黒字かというのがはっきりと出てまいります。
正しければそれなりの、間違っていればそれだけの
結果の現れる時が来る筈です。
その時が訪れたならば、またいらしてください、
と言っておきました。

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