浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2021-08-31 00:05:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

            反省研修会のこと


先の続き・・・

反省は心の無智やカルマの思いの
スモッグがつくる闇を照らしてくれる
偉大な法の光でもあります。
原因結果の法則の中に生かされている自己を
理解する智慧の光とも言えます。

神様の愛を頼りに、自らが自らを救っていくのです。
けっして神様以外の力や、
それを使う迷わせ人に惑わされてはなりません。
自分の心が理解でき、自分の誤りに気付いていけば、
自分も他人も同じ人間だったんだということがわかり、
すべてを赦させてもらえる心境になっていきます。

謙虚さ、やさしさ、そして強さなどがだんだんと育まれ、
その結果、魂が成長していきます。
愛は赦しです。
思いやりと同時に寛容な心が愛の中にはあります。
この世の中で最もいとしい自分を赦せない人が、
どうして他人を赦せるでしょうか。

相手の立場も心も我が事のようにわからないといけません。
それが苦労であれば、思いやりとして現れますし、
過ちを犯してしまったなら、
寛容の心として現れます。

自分と相手とを分け隔てる思いは、神の御心ではありません。
何事が起きても、
常に自他の分離観を超えた大きな愛の心で
包んでいくようになることです。
そのための反省なのです。
自己を見詰め、深く自己を知るためです。


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「御垂訓」

2021-08-30 02:42:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

         反省研修会のこと


先の続き・・・

別にそんなことしなくても自分は間違ったことなどしていないし、
困ってもいないと思う人は、まだ心の奥を探ってみたことのない人です。
誰にとっても、心の奥深くに人に言えないような秘密を隠し持っているという
ことはあります。
それは恥ずかしいことかもしれないし、
二度と思いだしたくないような悲しいこと、忌まわしいことかもしれません。
自分自身に対してさえ、もう記憶の彼方に忘れ去られてしまって、心の奥底に
眠っていることがあるものです。
それを反省によって知った時、

「ああそうだったか。私はなんと罪深い人間だったのか」と思い知り、
また人もそうだったのだと思えてきます。
しかし、それに気付いて、間違っていたと反省できている自分は、
もうそれまでの自分ではないことを知るべきです。

良心はすでに神の御心の中にある神我に属するものだからです。
パアッと光がさすごとく、
それまでの何もわからず、誤った行いをさせていた心の闇は消え去り、
変わって神の子の本質を具現できる自分の心が開発されてきます。
無明の迷っている心も、自分が反省して正直に心の誤りを悔い改めたなら、
すぐに苦しみから救われて楽になっていきます。
明かりがあるところに闇はありません。



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「御垂訓」

2021-08-29 00:01:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

          反省研修会のこと


一日の終わりにする反省とはまた異なり、
生まれてから今日までの自己をよく内省するという
深い反省のしかたがあります。
これには正しい方法があります。

その方法を学びましたのは、
高橋信次先生との出会いによってです。
そして、昭和五十二年四月に、
幼い頃からの記憶をさかのぼり、
我が心の奥を徹底的にみつめることを決心して、
奈良県の或る山の中へ入りました。

そして、山中にちょうどいい浅い横穴を見つけ、
七日間ほとんど食わず寝ずの反省をしました。
その結果、自分自身のことを深く知るとともに、
自分を赦させてもらうこともできました。

自分も自然も一体であり、
自分自身が光そのものだということを体験しました。
自分の体験したことを多くのみなさんにも体験していただこうと、
反省研修会を今迄に和歌山県の白浜や
静岡県の富士宮などでも催しております。

これは、三泊四日でスケジュールを組み、
参加者の方にそれぞれ個室に入っていただき、
そこで何度かにわたり、幼い頃にまでさかのぼり、ふだんできない
ような深い反省をしていただくものです。
毎回、百五十名ほど参加されます。

人間の潜在意識にはちょうどゴミためのように、
たくさんの記憶がつまっています。
まず、いちばん上のほうには思いだしても
それほどさしつかえのない記憶が積み重なっています。
自分にとって思い出すのが不都合な記憶は、
その下にしまい込まれています。

そして、最も自分にとって思い出したくない記憶が
誰にでもあるでしょう。
忌まわしい出来事、悲しい出来事、恥ずかしい出来事などです。

できれば、永久に忘れ去りたい。
でも、どうしても完全には記憶から消し去ることができない。
そういう記憶は幾重にもポリ袋に詰め込まれ、
念入りに栓をして、
絶対にゴミための表面のほうへ出て来ないように
念入りに重石をして、たくさん積み重なったゴミの
いちばん底のほうに押し込められています。

なぜ、わざわざこういう記憶を掘り起こすことが
必要かと言いますと、
幼い頃の心のつまずきや過ちの記憶とその時の強烈な感情は、
その後の人間の一生を支配するほど影響力のあるものだからです。
自分自身の心の全貌をつかまない限り、
私たちは真の自己を知ることも、
本当の幸福と健康をつかむこともできません。


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「御垂訓」

2021-08-28 01:08:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

            前世の親子が今生で嫁姑となる


先の続き・・・

この話をさせてもらうと、それを聞いた方は、
それからお姑さんとうまくやっていけるようになったそうです。
苦しみの中から心が開いたのでしょう。
前世の因縁が現在の謎を解く鍵になるというのは、よくあることです。
潜在意識にははかり知れない記憶が録音テープのごとく記録されています。
嫁と姑の問題はなかなかたいへんで、いいお嫁さんほど夫に尽くしますから、
それを息子を取られたように思って、お姑さんの方ではお嫁さんを憎く、
また、妬ましく思います。

そうかと思えばまた、できのわるいお嫁さんであれば、
お姑さんは今度は息子を大切にしないと言って怒り、
お嫁さんに不満を持ちます。
こういう因縁を消滅させるのに、
過去世を知ることが助けになることもありますが、
決して過去世にとらわれないようにしたいと思います。
なぜかといえば、過去は過ぎ去ったものだからです。
又、過去世のために現在を破壊してはならないからです。
そこで、いろいろな角度から相手と自分との関係について思い変えをしてみて、
自分の心をよく反省してみるといいのです。
シミュレーションのようなものです。

ただし、未来に起こりうる場合を想定するのではなく、
過去にきっとこうだったに違いないと、想像力を駆使してみるわけです。
相手と調和する方向に思いを変えればいいのです。
とにかく、自分の心を苦しめることは神の御心に添わないので、
幸せになれないことを忘れないことです。
潜在意識の深くへと降りていきますと、今生だけでなく前世、前々世と
ずっと過去の記憶が幾層にもわたって保存されています。
それをさらに突き抜けていけば、神我に到達します。
昔から神道の行法にも鎮魂帰神というのがあります。
魂鎮(たましず)めという言葉もあります。

毎日忙しく頭脳を駆け巡る想念感情や思考からしばし意識を離して心の内奥に
向け、呼吸も心身もくつろがせます。
心静かに反省していきますと、あたかも澄んだ湖面に空や雲や樹々や鳥が
映るように、ふだんは意識されないことまでが心に映ってまいります。
そうして心を見詰め直し、反省されることをお勧めします。
そうすると、これまでとは違った観点から相手と自分の関係を見直し、
また自分の想念や行為についても大いに反省する機会を自らに与えることに
なるでしょう。


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「御垂訓」

2021-08-27 00:04:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

          前世の親子が今生で嫁姑となる


先の続き・・・

一人の息子への愛にとらわれた思いが執着となり、
自分の育てた子が嫁に取られたように思って嫁を憎く思い、
嫁のほうもついに耐えきれなくて、
姑と調和できずに何とか対立しがちな嫁姑の関係というのは
世の中ではよく聞く話ではあります。

このお嫁さんの場合も、ご他聞にもれずそんな母親の業とでもいうべき問題を、
その息子の嫁が引き受けるという立場に立たされ、彼女としては、
やはりお姑さんをなかなか好きになれず、そうかといって同じ屋根の下で暮らしを
共にしなくてはならないため、その相手や状況から逃げるわけにもいかずに
心を苦しめていました。

このお嫁さんにしてみれば、なんで私はこんな境遇に置かれているんでしょう。
なんて不幸な巡り合わせなんでしょう、と嘆いていたはずだと思います。
「理不尽だわ、私だけこんな目に遭わなくてはならないなんて」と言う思いがあれば、
当然、心は苦しいはずです。
しかし、こうした人間関係もすべてご縁があって、
偶然は何一つないということを知ったなら、
今現れている出来事だけを見て、自分の都合という物差しで
一概にいいわるい、幸不幸などと決めつけることもできません。
この二人の嫁姑も実は前世の深い因縁によって必然的に出会っていたのでした。
母親が好きで好きでたまらない。
死ぬまでいっしょに暮らしたい。

今度生まれ変わったなら、母が死ぬまでいっしょに暮らして面倒みたい。
そういう願いを抱いて亡くなったために、
その想念が今生でこういう形となって現れたのです。
いささか皮肉な結果と言えるかもしれませんが、考えようによっては、
お母さんの心の癖がとれ、
娘さんがどんな相手とも調和するという心の修行を通じて魂を向上させるには、
絶好の機会であるとも言えましょう。
勿論、互いに過去世の記憶はすべて表面の意識からは消されていますから、
肉体の五官の思いにどうしても翻弄されてしまい、相手を憎く思ったり、
恨んだりしています。
これはふつうのことです。

それがこのお嫁さんが苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、
自分自身の前世において、もし、また次の世で母親に巡り逢えたなら、
今度こそは終生尽くさせてもらいたいと誓っていたことがわかり、
本当に涙を流して今生の姑さんにお詫びすることになりました。
この心はお姑さんにも伝わりました。
この嫁姑は以前とは打って変わり、
とても仲のいい嫁姑になったということです。


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「御垂訓」

2021-08-26 02:37:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※お詫び
昨日突然の停電がありましてブログを更新することができませんでした。
前にもお知らせしましたように停電がありますと、比国の小生が居住している地域を管轄している
Googleがその都度修正(システムリセット)しなければ、ブログにアクセスすることができません。
ですので、一日遅れの投稿となってしまいましたことお詫びいたします。
比国では停電が時々発生しますので、今後もこのようなことがあると思います。

 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          前世の親子が今生で嫁姑となる


また、こんな話もあります。
今度は世間によくある嫁と姑との確執ですが、
この二人の縁が実は今生だけではなくて、
過去世にまでさかのぼるような因縁浅からぬものであったのです。
反省すると言っても、本人が覚えていない前世のことまで思いだすのは、
たいへん難しいことですが、それでもそういう場合があることを知って、
何事も謙虚に自己を顧みることは大切なことです。
身に覚えがないと言ったところで、どんな貸し借りや、
自らに課した誓いや約束事があるとも知れません。

この話しを、
或る時に当方に見えた嫁姑の争いで心を苦しめている方に
させてもらいました。
その方は嫁の立場でした。
私はそれが問題解決のために思い変えをする際の
いいヒントになると思ったのです。
話というのはこうです。

嫁と姑が仲がよくないために、
苦悩をかかえるお嫁さんがいました。
お母さんがお嫁さんとぶつかる原因というのは、
一人息子がかわいいあまりに、
といういわば母親のエゴなのでした。
これはありがちなケースです。
もちろん、お嫁さんにしてみれば、
いやなお姑さんということになります。
しかし、本当のことがわかった時に、
このお嫁さんのお姑さんが嫌いという
気持ちは雲散霧消してしまいました。

というのは、
苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、
ふと前世のことを思い出したそうなのです。
この二人は前世においてなんと実の母と娘だったのです。
それも娘さんのほうは非常なお母さん子でして、
お母さんが好きで好きでしょうがなく、
一生、いっしょに暮らしたかったのです。
ところが、いよいよお嫁に行く時になりました。
どうしても母と別れて暮らさなくてはなりません。

この娘さんは今度生まれ変わったならば一生お母さんの
面倒を見たいという思いを残して、
後ろ髪を引かれる思いでお母さんと別れて、
嫁ぎ先に行かなくてはなりませんでした。
一生、お母さんといっしょに暮らしたいという、
その執拗なまでの愛が、
今生でまた再びこの深い因縁で結ばれた二人が
めぐり逢うという形で現れたというわけです。
それも、此の度は親子ではなくて、
嫁と姑という間柄でのめぐり逢いでした。
しかも、憎しみ合う嫁姑としてです。




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「御垂訓」

2021-08-24 00:08:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第五章 心の曇りをとるための反省

       親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

あなたの幼い頃に抱いてあげることも遊んであげることもできず、
寂しい思いをさせてしまったのではないかと、
泣いて話されると、娘さんもワンワン泣きだしてこう言いました。
「私だけなんで上に姉さんのようにしてもらえんのかと思って、
ずーっと寂しかった、辛かった」
お母さんは「かわいそうなことをした。堪忍して」と詫びました。

娘さんも「今迄の親不孝を赦してください。
私は今迄言えなかったのです。
これからは本当の親孝行をさせて下さい」と言って、
親子で抱き合って泣いて詫び合ったそうです。
このことがあって、お母さんから電話がかかって来ました。
「心の中の芯が抜けてしまったようです。

しかし有難いです」とおっしゃっていました。
この子は嫌らしい子だ、敵の生まれ変わりだという一心だったのが、
自然に消えて、なんとも言えないと泣いておられました。

この母と娘の場合は、互いになぜ自分は親にそむいて
親をいじめるのかとか、なぜこの子にいじめられるのかとか、
それぞれの自覚がなかったのでした。
ところが反省して、お母さんはこの子に上に思いをいたし、
この子は辛かっただろうと懺悔した時、

わるいことをしたという思いに目覚めてきたのです。
一方、娘さんのほうもお母さんに手をつかれ詫びられたら、
いっぺんに心が開かれ、
地獄の毎日がたちまち極楽の世界となってしまったのです。
これこそは反省の功徳と言えるものです。




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「御垂訓」

2021-08-23 00:12:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第五章 心の曇りをとるための反省

            親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

この苦しみから逃れるには、前に述べたように常に自分を離れ、
まず相手の立場に立って見ることです。
それから善意なる第三者の立場、
さらには私たちを守り生かしてくださる神様の立場に立って、
自己と相手とを観察していくことです。
自分を反省して相手の立場に立って見直してみると、
とんでもない迷惑を相手に対してかけていた自分が
自覚されてくることがあります。
自分よりも相手はどうだったかと思う癖を
常につける訓練をした時に、
ものの見方は変わってきます。
そのような話しをさせていただきました。
その翌日のことです。

夕方雨が降ってきて、洗濯物が干しっ放しでした。
娘さんは宗教の教会に出かけていて、いませんでした。
お母さんは、ああこれを取り込んでおかないと
また娘に叱られると思い、取り入れていました。

すると、ふと娘さんの幼少の頃のことが思い出されてきました。
お子さんは三人おられ、上の二人の娘さんはすでに他家へ嫁ぎ、
下の娘だけが養子をとって現在跡継ぎとして同居していたのでした。
この方が幼い時はちょうどお姑さんが病気で
具合がわるくて看病に明け暮れていました。
それで、この末の娘さんは女中さんに
まかせっきりになっていたということです。

「ああ、あの子を抱いて育てることがなかったなあ」と
いう思いがしみじみと
お母さんの心の中から湧き出てきたというのです。
上に子二人は我が腕に抱いて育てた。
しかし、あの子は抱くこともできなかった。

それでも、自分は姑さんの看病精一杯尽くしたんだから、
これでいいのだと思っていたそうですけれど、
あの子の立場に立ってみれば、
どんな思いをしたことだろう。

母親に抱かれることもなく、さぞ寂しく辛かったであろう、
と気付きが訪れてきたそうです。
しまった!かわいそう、でかわいそうで、
涙があふれ出して止まらなかったそうです。
すると、そこへ娘さんが帰って見えたので、
お母さんは仲のわるい娘さんの前に手をついて詫びられたのです。


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「御垂訓」

2021-08-22 07:21:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          親子の確執が消えた反省の功徳


一度入ったら今度は出口がわからないほどの
お城のような大邸宅があります。
ふだん使うのは門から百メートルほど離れた所にある勝手門です。
お屋敷には土塀がはりめぐらせてあります。

そんな大きく立派なお宅ですが、
そこに住んでいる母と娘は敵同士のように仲がわるいのです。
60歳代ぐらいのお母さんと40前の三人姉妹の末娘さんですが、
その娘さんが養子をもらって住んでおられるのです。
お孫さんは小学生です。

お母さんが言うには、
この娘は前世の敵が自分の腹を借りて生まれて来たのかと思うほどに
親のことをいじめるのだそうです。
箸がこけたのまでお母さんの心がけがわるいからだと
言って責める始末です。

その娘さんは妙な信仰に凝って、
お母さんのすることなすことから出かけた先までを逐一、
その宗教の教会へ行き、報告するのだそうです。
すると、宗教の神様が「そりゃ、お母さんがわるい」と言うので、
それをまた家でお母さんを責める材料として使う。
お母さんにしたらたまらないでしょう。

よく相談に来られて嘆かれていましたので、
「その娘さんが信仰に行っていたら、
お母さんもいっしょに行ってあげなさい」といいますと、
「妙な霊に憑かれると怖い」とのことでした。
「娘さんを救ってあげるためにも、

自分を捨てて共に行ってあげるのが真の愛じゃないでしょうか」と、
お話させてもらったのです。
しかし、「そこまではようしません」とおっしゃいます。
そこで、自分はいつも正しいと思うから苦しみが生まれるのです。
という話をさせてもらいました。

自己を中心として見た時、必ず苦しみが生まれます。
見たり聞いたり触れたりという五感を通して
何もかも見ることになるからです。
それらにはどうしても自己保存を第一とする働きがあります。
すると、内部と外部、自と他という分離が生じてしまい、
自分以外のいっさいは己の自我と
対立するものになってくるのです。

これではもう正しい見方はできません。
必ず自己保存と自我我欲によって目が曇らされた
「煩悩」にとらわれた
見方しかできなくなってしまうのです。


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「御垂訓」

2021-08-21 02:11:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第五章 心の曇りをとるための反省

      反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

なかなか感謝できないのは、いつも何か欲しいとか、
期待したことが起きることを望んでいたりするからで、
結局は自己中心的な思いの中にいて、
外側の現実を見ようとするからです。
自分の欲望のほうに合わせて現実を切り取ろうとすると、
必ず過不足が生じてしまい、常に不平不満、愚痴、
怒りで心が占められることになります。

そして、
ガラクタばかりが詰まった部屋のごとくに新しい物事を迎え入れ、
感動するための余地、空っぽなスペースがなくなってしまうのです。
こうしたことにならないためには、できるだけ自分から思いを離し、

できれば
神様の目から自分を含めた全体を眺めることが必要となります。
それには、反省の訓練によって日々瞬々刻々、
天地万物いっさいに感謝できる自分にならせていただくことが
大切であると思います。


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「御垂訓」

2021-08-20 00:05:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

       反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

相手の立場に立ったら、奥さんはご主人より早く起きて弁当をつくり、
ご主人や子供を送り出し、今度は掃除、洗濯、買い物をして、
夕食を用意して、と、たいへんな一日のはずです。
女の人はその一日の間にこれだけのことをしてくれるのだなあ、
と奥さんの苦労や努力がわかったならば、
ご主人の口からは「ああ、女の人も御苦労さんだなあ。

あんた無理せずに、適当に一服しなさいよ」と、
いたわりの言葉も出て来るものです。
また、奥さんのほうも、「私は家の用事をバタバタと精一杯しているのに、
帰ってきたら洗濯物くらいちょっと取り入れてください」と言って、
主人をこき使おうとしますが、これが御主人の身になって
考えますと変わってまいります。

「男が一歩家をでたら、外に七人の敵がありで、
ずいぶんと御苦労さんなことです。
毎日会社に通うてもらって、そのおかげさんで私たちは
こうして生活させてもらって有難いことだなあ」と思えば、
ご主人が帰って見えたら、「ああ、御苦労さんでございました。
お疲れさまでございました」という言葉が出てくるはずです。

自分を中心にして見ると、お互いに不平不満ばかりを
言い合うことになります。
常に相手の立場に立って見させてもらう訓練を
日々怠らないことが大切です。
そうすると、感謝の思いが出て来るようになってまいります。

人間の心は一つのことを同時に思えぬ構造になっています。
喜びの思いと怒りの思いは同時に存在できません。
この法則を利用して自らの心を苦しめないようにするには、
常に感謝の心でいることです。

感謝している時は、自らを苦しめるあらゆる想念が
入ってこなくて済むのです。
感謝は光ですから、その中で心のスモッグである
業の思いも消されてしまいます。
何事にも感謝せよとは、すべての宗教の教えるところですが、
その理由は実はここにあったのです。


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「御垂訓」

2021-08-19 00:38:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

この時は自分の思いを離れて、第三者的な目から見て判断し、
神様に自分の想念をあずけて心静かに祈り、
その中から出て来る正しい直感にしたがうのが最もいいでしょう。
自分がなんとかしなくてはという焦りや力みがあれば、必ず間違います。
そして、せっかく助けてあげたのに、
あの人はなんて恩知らずなんだなどと
不平不満や愚痴が出て来ます。

どうしても私たちは自分中心でものを考えがちですが、
肉体の五官にとらわれた見方から、
自己を離れた正しい見方に変えていく訓練を積むことが大事です。
常に「してあげる」とか「してやる」というにではなく、
「させていただく」とか「させてもらう」という心で行うことです。
「あげる」「やる」ではたとえ善いことをしても、
文字どおり徳を逃がしてしまいますが、

「いただく」「もらう」という心構えだと、
善い行いは自分自身の徳として積まれることになり、
それがまた自分の霊格を高め、
運命としてもいいことが万倍にもなり、
自分に返ってくることになります。

ですから、「させていただく」という態度を常に
忘れなければ大きな間違いはありません。
こうした謙虚さは、
いつも感謝に満ちた心でいることにもつながってきます。
ご夫婦の間でもそうです。

ご主人は一生懸命に働いて稼ぎ、奥さんは結構に暮らさせてもらって、
それでいながら、「私は嫁さんだから主人が養ってくれるのは当たり前」と、
感謝をしないでいると、
ご主人がありがたい存在だということを忘れてしまいます。
もちろん、ご主人にも同じことが言えます。

奥さんが家庭の中で掃除、洗濯などの家事、
そして留守中のおつきあいなど
いっさいをやってくださり、ご主人はそれに大いに助けられているのに、
それを「おれが働いて不自由な目にも遭わせず養ってやっているのに、
毎日何をしているのか」などと奥さんに対して
好き勝手な言葉を吐いたらどうでしょうか。




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「御垂訓」

2021-08-18 00:31:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練


私たちがどれほど「私は間違っていない、私は正しい」と
主張したとしても、肉体の五官を持って生活している以上、
最初から現実を見る目に色眼鏡がかかっているのは避けられません。
ということは、自己保存と自我我欲の目で見る為に、
ありのままには現実が見えてこないということです。
では、どうしたらこの自己中心的な視点をもたらす
色眼鏡を外せるのでしょうか。

それは相手の立場に立って見ることによってです。
そして、善意の第三者の立場から相手と自己を
客観的に公平に見ることです。
そらに、天の立場、神の目からあらゆる物事を
見られるところまで行くように、
練習を積み重ねていきます。

なぜ、ここまで行く必要があるかと言いますと、
たとえばあまり情けが深すぎて相手に感情移入しすぎても、
かえってその同情が仇となり、冷静な状況判断を誤り、
相手の人ともろともに滝壺の中へ、
などということになりかねないこともあるからです。

何しろこの世は厳しく危険な修行場ですから、
ちょっと油断したすきに波にさらわれかねません。
相手の言うに言われぬ悲しみや苦労を聞いてあげ、
受け止めてあげるやさしさは必要ですが、
どうにも簡単には脱することのできない深い業因縁の
渦中に相手の方がいる場合などは、

自分までいっしょにその中に入ってしまってはなりません。
だいたいに神様がおやりになることを自分がしてあげるなどと思いあがり、
下手に手を差し延べる日には、とんでもないことになりかねません。
相手が一日も早くそこから脱して幸せになるのを心から祈り、
できることはさせていただくしかありません。


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「御垂訓」

2021-08-17 02:34:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

この反省をしていくと、心の世界の無限なまでの広がり、
広大さというものがわかってまいります。
それとともに、己れがそれまで信じてきた自分というもののちっぽけさ、
狭さ、浅さ、未熟さもわかってまいります。
それらが自分、自分と思っていたけれど、
実は本当の自己はそんなものじゃなかったんだ、
ということまでわからせてもらえます。

反省というと、何か見たくない自分を無理に見せられるような強制感を覚え、
自己嫌悪に陥るのが関の山だと思い違いしている方が
案外おられるのではないでしょうか。
怖くて自分の内面なんか見られないと。

しかし、反省とは自分を知り、愛し、大切にすることです。
反省において発見の喜びのような感情がともないますと、
反省と悔い改めは何も自分を責め裁くためでも
罪悪感を自分に植え付けるためでもなく、
これまで気付かなかった自分を知り。

未来の自分を新たに創造していくたいへん楽しく
希望の持てる行為だと体験的にわかってまいります。
そこに反省が内的な旅であり、冒険であり、
自己創造であるとも言える所以があると思います。

我が子が鏡となってくれ、自己の欠点や思い癖を
反省する機会が与えられましたのを生かし、
古い自分から脱皮して、
もっと好ましい神様の御心によりかなった自己へと
成長していくことができたわけです。
なんと有難いことでしょうか。

お釈迦様が人類の遺産として遺してくださった真理のみ教えと、
それをまた私に伝えてくださった高橋信次先生との出会いと、
そしてその有難さが理解でき、実践させていただける
自分自身の魂に深い感謝の念を禁じえません。

これで手記は終わっています。
この心の友は、人間知ではどうすることもできない苦悩の中で、
誰にも相談できないでいたわけですが、
目に見えない神との対話を通して自らを
反省することへと導かれていったようです。


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「御垂訓」

2021-08-16 00:11:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

             子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

しかし、これは反省をさせてもらうことのよってしかできないことです。
無自覚にいつもどおりに考え行動することを、
ちょっとスットプしてみるのです。
いったん反省に入り、相手の立場に立ってみると、
改めて相手の置かれた状況、
気持ちや心遣いがわかっていきます。
それと同時に、自分自身のそれまでの自己中心性に
はじめて気付かされます。

たとえば、思いやりが足りなかった自分。
自分さえよければいいとか、自分のことで精一杯、
忙しく人のことなんかかまっていられないというのを
正当化していた自分。
自分にとって嫌なことをすべて相手の欠点と
決めてかかっていた自分。

相手に対するマイナスイメージを
固定したままずっと変えないで、
歩み寄ることもしなかった自分。
自分が正しいと信じたこと以外には耳も貸さぬ頑迷な自分。
こうした自分というものに気づきます。

ここでまた反省が深まり、「自分がわるかった。
もう今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう」と、
悔い改めの心が育ってきます。
反省するごとに、これまで気付いていなかった
部分に光が当てられ、
この領域がどんどん拡大していき、
また深さも深まっていきます。



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