浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-07-31 00:03:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の御著書「講演集」より ~

              講演集、 一

      「心を入れ変えた息子さん」


大阪のTさんの子供さんは、
手の付けられない子だったそうです。
私は知らないのですが、思い余った母親が、
何とか話を聞かせてやってもらえないかと連れて見えたそうです。
大学四回生です。外に出る時、
必ず「履物を揃え」と言うんだそうです。
お母さんが履物を揃えるんですね。
ちょっとでも曲がっていると「もっと真っ直ぐにせい」と言って、
納得がいくまで直させる。

母親は「私はあなたの嫁とは違うで」と言いながら直す。
しかしその通りにしてやらんと怒ります。
また夕飯の時間もキチンと、一分違ってもいけない。
おかずは何が何グラム、
何は何グラムという具合で高く付くんです。
それは大変な息子さんで、後になって聞いたのですが、
気にいらんことがあると、
物はぶつける、お母さんを殴る、お膳はひっくり返すと、
しょうがなかったようです。
その子を連れて見えたので、何か話をせなしょうがないから、
「あなたはあの世はあると思いますか」と聞いたのです。
「僕は見たことないから知らん」と言います。

その通り、見たことがないのだから知らんのは当然です。
しかしあると仮定して、
ではこの世とはどういう所だと思いますか、
と質問をしたのです。この世――それは
あの世の地獄と極楽のちょうど中間に幻のように現れている世界、
それが、この世の存在です。下は地獄、上は極楽。
その中間に物質化現象として現れている世界、物質と化し、
形として現れているのがこの世です。幻のようにね。
オギャーと生まれて成長して五十年、百年で皆消えて行く存在です。
特に口にいただくものは早く消えて行きます。

お饅頭、お蜜柑、いろいろご馳走を出していただいても、
今、目の前にあるものはあたかも実在しているが如くにありますが、
いただきます」と言って口に入れたら、
もう完全にこの世から消えております。
「お饅頭は本当はないんですよ、
ただ形として現れただけです」と言いましたら、
どなたも皆、「いや、ここにある、
あなたは頭がおかしいのではないか」と言われます。
しかしいただいたらもう二度とこの世には現れません。
消えた存在です。ご飯にしてもおかずにしても全部同じです。
ここにある綺麗なお花も同じです。

今こうして存在しているが如くにありますが、
しかし時間が経てばこの花はしおれてしまいます。
水遣りを忘れたらこの葉もなくなります。
すべてが現れた世界に、
或る方は砂袋をつり下げたようにしてぶら下がっておられます。
砂袋とはその人の心です。
砂を一杯詰めた砂袋をぶら下げて人生の旅をしている。
心の軽い方は風船玉かアドバルーンをあげるように、
上に浮きあがりながら人生の旅をしている。

心の軽い方は、心の世界で風船が浮かんでいるようなものです。
心の重い方は重いからぶら下がってしまう。
しかし心の重い方も軽い方も肉体の命のある限りは、
この世から離れることができないでいます。
命の糸が切れた時に、軽い人は必ず上に上がります。
重い人はストレートに下に落ちて行きます。
行く先はおのずと決まっております。
それじゃ、その砂の材料は一体何だと思いますか、
とその息子さんに聞いたのです。
「分かりません」という返事。それで、
砂の中味は怒り、妬み・・・、
自分の心の中にどれだけ砂が詰まっているか
想像してみて下さい。


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「御垂訓」

2020-07-30 00:11:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

           講演集、 一

    「心を苦しめることは最たる悪」


しかし最たる悪は自分の心を苦しめることです。
自分の心を苦しめますと、絶対に幸せになれません。
自分の心をまず大事にすることです。
心を大事に、苦しめないようにするには、
どうすればいいでしょう。
腹を立てない、怒り、妬み、謗り、愚痴、憎しみ、
それに取越し苦労、不安、恐怖、嘘、
盗み、更に貪欲。こういう想念行為を持ちますと、
人は必ず苦しみます。
そうして、この肉体を去った時には、
間違いなしに苦しみの世界へ入ります。
肉体が滅びますと、この肉体は無くなりますが、しかし、
心は残ります。

これを霊とか魂といか言っております。
ところが肉体が消えて心だけになりますと、
今度は心がそのまま苦しむのですから、
いい所に行ける筈はありません。
生きて悪い想念、行為を積み重ねますと、
生きながらにして地獄、そして死んで完全なる地獄です。
閻魔様が裁判をなさって、「お前は地獄の何丁目に行け、
お前は極楽へ行け」とおっしゃる。
あんなのは嘘です。閻魔様は自分の良心、神我です。
自分の思いの世界へ自分で入って行くだけです。
苦しみが大きかったら大きいだけ、
自分で苦しみの世界へ入って行くのです。


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「御垂訓」

2020-07-29 00:23:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

             講演集、 一

       当たり前のことを「実践する」


こういう話をしますと皆、
そんなことは当たり前のこととおっしゃいます。
ところが、この当たり前のことができないから苦しむのです。
在る所へ行きました時、
在る宗教の方が私をやっつけてやると言って
お見えになっておりましてね。
休憩の時間に「どうでございますか」と聞きますと、
「言うていることを聞いたら当たり前のことや。
私ら二歳、三歳の頃から親に教えてもろうて皆知っている」
と言われます。
「正しいことは皆当たり前のことです。
変わったことは何もありません。

貴方が二歳、三歳で知っていることを、
今四十、五十になってできていますか」と聞きましたら、
「そんなこと人間やったらできん」と言います。
「いや、そんなことはありません。
私は人間だけどできています。
腹を立てたらいかん、
愚痴を言うたらいかん、
悪口を言うたらいかん、憎んだり、貪欲に捉われたらいかん。
皆当たり前のことです。
しかしこれを実行できる人は少ないのです」と話しました。
白楽天と言いまして、中国に偉い詩人がおりました。
その当時フクロウ和尚といって、
いつも木の上で坐禅をなさって悟った方がありました。
木の上で悟ったからフクロウ和尚と呼ばれていた方です。
一体どの位偉いか試してやろうと思って、
その白楽天なる詩人が訪ねて行きました。

「和尚」と呼びかけたのでしょう。
「人が幸せになるには、どのようにしたらいいか」と
尋ねますと、和尚は「作善止悪」と言いました。
善を作って、悪を止めよという意味です。
それを聞いた白楽天は大笑いして、
「そんなことは子供の頃から知っている、話にならん」
と言ったというのです。
木の上から返って来た言葉は、
「三歳の童子これを知る。
百歳の翁これを行えず」でした。

三歳にして私達は親から正しいことを教わる。
しかし百歳にしてこれを行えないのです。
これが正しい教えです。
だから、その宗教人に言いました。
「三歳にしてこれを知り、百歳にしてこれを行えず。
行うのが修業です」と。
滝に打たれたり、経文を唱えたり、高い山に登ったり、
そのようなことをしましても、
悪を止めて良い行いを積まない限り、
何の功徳もありません。


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「御垂訓」

2020-07-28 00:50:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

              講演集、 一

     「私が正しい」と「私が至らない」と


私達も、
また霊の世界に帰られた方も共通して苦しんでおられる方は、
「自分が正しい」と言います。
地獄にいる霊を、生存する人に入れてお話しますと、
「私は悪いことを何もしていなのに、
なぜこんなに苦しまねばならんのか、
私は何も悪いことをしていない」と言われますが、
実際には地獄に落ちています。
人間もそうです。
「私が正しい。私は間違っていない」とおっしゃる方は皆、
苦しんでおられる。
「私は至らなかった。申し訳なかった」と目覚めた方は、
幸せで苦しみも少ない。
特に夫婦喧嘩はこの最たるものです。
私が正しいあなたが悪い、それを言うと喧嘩になるのですね。
そして苦しんでいます。

喧嘩はいちばんいけません。
自分の心を地獄に持って行きます。
「仲良きことは麗しきかな」。
同じ一生を、
男と女が一つの家庭を持ち生活共同体の基礎をこしらえて
五十年、六十年の生活をさせてもらう、
この同じ定まった時間を喧嘩ばかりして暮らすのと、
仲良く暮らすのとでは物凄い違いがあります。
もう万難を排して仲良くすることです。
私達の幸せの一番の根源はどこにあるのか―――
それはまず私達の心の中であり、
形の上では家庭の中にあります。
家庭を不調和にしては絶対に幸せになれません。
家庭の一番基をなすのは夫婦です。
次に親を大切にすることです。


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「御垂訓」

2020-07-27 00:08:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

            講演集、 一

      「仏壇の光をとらえた写真」


その土地で二軒のお仏壇にお参りしました。
たまたまいっしょに行ってくれた人が写真を撮ってくれたのです。
お参りする前の仏壇と、お参りさせていただいた後と、
二、三分経ってからの三枚です。
その写真にはっきりと現れたのです。
一枚目は仏壇が暗く写っています。
二枚目は光が出ているのです。
三枚目はもう全体に光っています。
私は今その写真を持っておりますが、これは、
お仏壇の中に自分が祀ってもらっていると思っている方は、
仏壇の中におられるのです。

のちに、
何か月か後の写真を見ますと真新しい仏壇になっていました。
私達は古くから日本に伝わった誤った思想、習慣によって、
死後はお墓の中に入る、
または仏壇に祀ってもらうという教育を受けています。
それが真実だと思って亡くなりますと、
必ずお墓、仏壇の中に入っていて、成仏できないでおります。
そういうご先祖様が仏壇の中におられますと、
仏壇は暗く位牌の文字が曇っています。
そしてそういう仏様が極楽にお帰りになりますと、
忽ちにして光ます。
これは百人が見て、百人見ることができますね。


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「御垂訓」

2020-07-26 00:09:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集、 一

      「お墓のない村、その教え」


先の続き・・・

ご縁があったらいつかは石塔の墓が見られるでしょうが、
ご縁がなかったら、つまり、
祟りが怖いとか言っていたら建たないし、
村も栄えることはありませんね。
恐ろしいことです。
変な話ですが、勉強になりますからも少し聞いて下さい。
ここは湿地帯で水浸しになるので、
棺そのものは十年ぐらい腐らないのです。
寝棺ではドライアイス等使いますから、
死体が腐って汁が出るという話は聞きませんが、
座棺からは汁が出て来るそうです。

これも正法の教えから見ますと、「不調和なものは早く腐る。
調和されたものはなかなか腐らない」のです。
これは人間の肉体も同じことです。
かって服毒自殺された方の場合、見ている間に、
どんどん腐ってきました。
これは不調和は早く腐ることの一つの証明です。
この土地で人が亡くなりお葬式があると、
棺からすぐに汁が出て来るそうです。
これも不調和の証拠です。
棺に下の灰を敷くそうですが、
灰が水分を吸収して汁が下に垂れて来ない。
灰は腐敗を防ぎます。

だから埋葬しようとして次の穴を掘りますと、
死人のお尻がボコッと出て来る、
それを横に干しておくと臭くて臭くて三日間程は
その臭いがとれないそうで、
もうあれは生きながらの地獄のような世界ですね。
亡くなったら家族は穴を掘りません。
近所の者が堀に行くそうです。
家族は身内を埋める穴を自ら掘るのは情の上げしのびないからです。
でも埋めるのは家族がやるとのこと。
えらい所があるものです。
そういう所に埋められたら、勿論正しい道を知らないので、
埋められた肉体の中に自分の意識が捉われて、いつまでも、
ああいう所にいるのです。
肉体が腐ってもいるのです。

ですから、私が話しかけますと、
もう数え切れない位たくさんの人が出て来ました。
頭に白い三角の布をつけた人はあれは禅宗。
付けない人はあれは門徒ですとのこと。
そこで出て来た多くの皆さんによく話しまして、
心に目覚めてもらってあの光の世界に上がりなさいと言いました。
心に目覚めますと、最初は膝をかかえて死体のままの姿であったのが、
忽ちに生きていた時の姿に変わっていきます。
そして全部の方が「ありがとうございました」と言って、
サーッと上がって行かれました。
「私の声の響きに乗って行きなさい。
私の声の響きはあの天上の世界に届きます」。
その時、私の唱える経文の波動に乗って上がって行かれました。
これは不思議なことです。




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「御垂訓」

2020-07-25 00:03:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

          講演集、 一

     「お墓のない村、その教え」


先の続き・・・

面白い習慣があるもので、
お坊さんと神主さんだけは木の墓標を建てられるのですね。
木の墓標は、竹のことを思ったら何年も長持ちします。
しかし一回建てて腐ったら建て替えることはできない。
墓標が立っている限り、
そこを掘ることはできない。
一般の方は竹ですから三年も持たないのです。
だから参る墓がなくなります。
お寺の坊さんと神主さんはその何倍かもつのですが、
それも腐ったらもう駄目です。
この狭い土地に一体いくつの墓があるかと、
立てた竹の先を縄でくくった鳥籠のような
ものを数えると、二十八個ありました。

墓地に行っていろいろ説明を聞いたのですが、
お盆から後は余り草が伸びません。
春になると雑草が三メートル以上に伸びてくる。
こやしが良く効いていますからね。
それでお盆に村中の人が出て、墓掃除をするそうです。
その時に崩れかけた竹は全部取り除いてしまう。
だから無くなったら今度お参りしても、
お墓はもうありません。

何とも今の日本の国内にこういう場所も残っているのですね。
今でも雨がしとしとと降る夜は、
リンが燃えて青い火の玉が墓地から立ち昇るそうです。
では、なぜこんな習慣がいまだに残っているのでしょうか。
それはその土地に住む人達の心掛けです。
自分さえ良かったらいい、自分に災いが来なかったいい、
という思いによるのです。
やがて自分が死んだらそこに埋められるのに、
何とかしようという気持ちが起こらないのです。
村の因習、陋習にしばられており、
だから村そのものも栄えません。
村にはお寺もあり、お坊さんもそこに葬らているのですから、
お話になりません。


※ ご報告
恩師「長尾弘」先生のご生誕日(7-25)にあたり、
当ブログの開設日より現在までのトータル訪問者数、並びにトータル
閲覧回数をご報告申し上げます。
ブログ名:垂訓 URL:http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 
開設日:(2008-11-11)から本日現在(2020-07-23)
までの4,237-182=4,055日間で: 
(不可抗力で投稿できなかった日数を182として計算しています)
トータル訪問者数:401,920名     一日平均:99名
トータル閲覧回数:1,184,618回    一日平均:292回
沢山の皆様の当ブログへの訪問ならびに閲覧ありがとうございました。
恩師「長尾弘」先生も天上界で大変喜んでおられることとご拝察致します。
これを励みとしまして尚一層、皆様に喜んで頂けますよう
当ブログの更新・管理をやっていかねばと心あらたにしております。
皆様どうか今後とも宜しくお願い致します。
ありがとうございました。



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「御垂訓」

2020-07-24 00:09:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

              講演集、 一

     「お墓のない村、その教え}


先の続き・・・

人が亡くなると、
片方の部屋で親戚縁者がお通夜をされるでしょう。
その隣の部屋でポキンポキンと骨を折って棺に入れる音が
聞こえて来ると言うのですからね。
そういう土地に招かれまして、
墓地へ行って亡くなった諸霊に話しかけました。
「お墓の中に埋められて、
この場所から成仏できないでいる諸霊よ、
この場所に埋められていると思われる諸霊は皆出て来なさい。
そしてよく聞きなさい」と言いますと、
泣いて膝を抱えて背を丸めた人がいっぱい出て来ました。
額に三角の白い布をつけて人がたくさんおります。

これは勿論普通の人には見えませんが、
霊視しますと、
棺に入れられた時の姿のままで身をかがめて膝を抱えて出て来ます。
土地開発計画でこのたび野地を整備して、
小川や畦を除き、一町歩ごとに整えて行きますと、
七百坪ほどの余った土地ができて、
それが共同墓地の横にちゃんとあるのです。
土地があるのになぜ墓をつくらないのかと尋ねますと、
そんな事をしたら早く死ぬとか、
先祖の祟りが恐ろしいとか言って、誰も手をつけない。
まあ困った所もあるものですね。

たまたま二、三日前にこの村の方が来られましたから、
「あんなことをしていたら、村そのものが栄えません。
祟りがあっても、早く死んでもいいから、私がその墓をこしらえて、
村が栄えるように私が造りますから、
村に帰ったら皆さんとよく相談して下さい」とお話したのです。


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「御垂訓」

2020-07-23 01:43:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

             講演集、 一

      「お墓のない村、その教え」


日本の中にはまだこういう所があるのかと
思うほど不思議な土地にご縁がありまして、
「何とかその土地を浄化して欲しい」と頼まれ、
この間寄せてもらいました。
それは地域的に非常に不調和な所です。
その村に行きますと、お墓が今も一つもないのです。
ただ一軒か二軒だけ別の場所に石碑がありましたが、
一般の人は石碑がないのですね。
戸数は約百六十戸、所有している田の総面積は二百八十町歩で、
これを百六十軒で持っておられます。

このたび農地の整備が行われて、とても広々とした平野ですが、
それでもご先祖様の墓地に提出するのが惜しいのだそうです。
二百八十町歩の財産を持っている村ですのに、
狭い共同墓地があるだけで、
墓地と言っても墓石は一つもありません。
二百坪足らずの誠に狭い場所に、
人が亡くなると穴を掘って埋めるのです。

次々に埋めていきますから、
面積が少しでも少なくて済むように、
お棺の大きさは四十五センチ、一尺五寸角の座棺で、
高さは少しある棺桶の中に、
死んだ人の骨をポキポキ折って詰め込み、
頭が入らない時はグッと押さえ込んで、
釘を打ちつけ、穴を掘って埋め込むのです。
埋めると、その周りに割り竹をぐるっと刺す、
その長さは三メートルぐらいで、
その竹の上をまとめて縄でしばってあり、それがお墓の印です。
雨曝しですから、二、三年もすれば縄は腐って竹はバラバラになります。
ところがこの竹を又新しく建てることは
村のしきたりによってできないのです。

バラバラになってなくなればそれでおしまいです。
お墓がなくなるのです。
それで、
今度別の人が亡くなればまたそこを掘り返して埋めるので
他人の墓やら自分の墓やら分かない状態になる。
しかも掘り返すと骨が出て来るならまだしも、
棺桶がそのまま出て来るというのです。
悪い事にそこは湿地帯で、墓穴を掘ると水がいっぱい湧き出て来る。
その水の中に棺桶を押さえつけて沈めて
上から土で埋めるのだそうです。
一尺五寸四方の穴を掘って棺を収めるのに、
四つも棺桶が出てきたそうです。

地下は棺桶でぎっしり満員になる程埋めてあるので、
ちょうど四つ埋めてある角を掘り当てると、
そういうことになります。
その棺桶を割って、そこへ埋めなければいけないのですね。
土地は一杯あるのに、お墓の為の地所は勿体ないと言って、
出す人がないのです。
こんな話を聞いていますと鬼気迫ります。


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「御垂訓」

2020-07-22 00:11:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集、 一

    「魂の修行とは悪い癖の修正」


先の続き・・・

「実在の世界」にその方その方の持っている個性、
つまり魂の段階というのがあるのですね。
これは「光の量の区域」といって、光の量の多い、
魂の段階の高い方は高い世界の住人でいられる。
又光の量の少ない、
低い段階の方は見えない世界の低い世界におります。
しかし地獄にいて、
そこからこの世に生まれ出た人は一人もおりません。
全部、一応光の世界に戻った方が自分の持っている魂の欠点を
修正する為に、この世に生まれて来るのです。

ではなぜそのすばらしい光の世界からこの地上に
出なくてはいけないかと言いますと、光の世界は、
同じ光の量を持つ者同士が寄り集まるようになっているのです。
十すばらしい方は十すばらしい方ばっかりが集まっており、
三すばらしい方は、三すばらしい方ばかりが集まっている。
魂の次元に応じてそれぞれ個性を持った者が、この世に
同じ肉体を持って生まれ出て、魂の次元の高い方を見て、
次元の低い方は「あのように生きなくては」と学ばせてもらい、
又低い方の言動を見て「あのように生きてはいけない」
と学んでいくのです。

光の世界が幸せであったから、
私達は幸せになりたいという願いがあるのです。
故郷への望郷、ノスタルジアですね。
その為に人は皆幸せになりたいと思うのです。
あの世からこの世を見ますと、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所なのです。
一歩足を踏み外すと、断崖絶壁から転がり落ちる。
或いは深い泥沼に落ちるかも知れない。
この世は本当に危ない世界です。

私達も今は幸せな結構な生活だなと思っていても、
一歩踏み外したらとんでもない不幸に陥る場合があります。
男女の問題で幸せな家庭を破壊する方がよくあります。
泥沼ですね。全く危険なのがこの世界です。
こんな危ない世界に来て、
なぜ私達が苦労して魂の修行をせねばならないのかと言いますと、
それは「調和された神の意識の中に帰る為に」生まれては死に、
生まれては死にして修行を繰り返しているのです。

オギャーと生まれて、なぜ苦しい思いをしてお金儲けをせんならん、
商売せないかんと思っているのですけど、
それが本当の目的ではなかったのです。
自分の魂を広く豊かにするのが目的だったのです。
その目的の為に、持っている悪い癖、欠点を打破すること、
それが幸せに繋がっていきます。自分に悪い欠点があるから、
私達は不幸になるのです。
悪い癖、欠点の為に苦しみを大きくしていく、
だからその癖を少しでもなくしていくことですね。
そしてお互いに助け合って調和することを目的として、
私達は魂の修行をするのです。


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「御垂訓」

2020-07-22 00:04:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集、 一

    「魂の修行とは悪い癖の修正」


先の続き・・・

「実在の世界」にその方その方の持っている個性、
つまり魂の段階というのがあるのですね。
これは「光の量の区域」といって、光の量の多い、
魂の段階の高い方は高い世界の住人でいられる。
又光の量の少ない、
低い段階の方は見えない世界の低い世界におります。
しかし地獄にいて、
そこからこの世に生まれ出た人は一人もおりません。
全部、一応光の世界に戻った方が自分の持っている魂の欠点を
修正する為に、この世に生まれて来るのです。

ではなぜそのすばらしい光の世界からこの地上に
出なくてはいけないかと言いますと、光の世界は、
同じ光の量を持つ者同士が寄り集まるようになっているのです。
十すばらしい方は十すばらしい方ばっかりが集まっており、
三すばらしい方は、三すばらしい方ばかりが集まっている。
魂の次元に応じてそれぞれ個性を持った者が、この世に
同じ肉体を持って生まれ出て、魂の次元の高い方を見て、
次元の低い方は「あのように生きなくては」と学ばせてもらい、
又低い方の言動を見て「あのように生きてはいけない」
と学んでいくのです。

光の世界が幸せであったから、
私達は幸せになりたいという願いがあるのです。
故郷への望郷、ノスタルジアですね。
その為に人は皆幸せになりたいと思うのです。
あの世からこの世を見ますと、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所なのです。
一歩足を踏み外すと、断崖絶壁から転がり落ちる。
或いは深い泥沼に落ちるかも知れない。
この世は本当に危ない世界です。

私達も今は幸せな結構な生活だなと思っていても、
一歩踏み外したらとんでもない不幸に陥る場合があります。
男女の問題で幸せな家庭を破壊する方がよくあります。
泥沼ですね。全く危険なのがこの世界です。
こんな危ない世界に来て、
なぜ私達が苦労して魂の修行をせねばならないのかと言いますと、
それは「調和された神の意識の中に帰る為に」生まれては死に、
生まれては死にして修行を繰り返しているのです。

オギャーと生まれて、なぜ苦しい思いをしてお金儲けをせんならん、
商売せないかんと思っているのですけど、
それが本当の目的ではなかったのです。
自分の魂を広く豊かにするのが目的だったのです。
その目的の為に、持っている悪い癖、欠点を打破すること、
それが幸せに繋がっていきます。自分に悪い欠点があるから、
私達は不幸になるのです。
悪い癖、欠点の為に苦しみを大きくしていく、
だからその癖を少しでもなくしていくことですね。
そしてお互いに助け合って調和することを目的として、
私達は魂の修行をするのです。


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「御垂訓」

2020-07-21 00:06:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

            講演集、 一

     「魂の修行とは悪い癖の修正」


人生というのは、人との出会いの中に展開していきます。
そして人々との出来事を通して苦しみ悲しむのです。
人と出会えば必ず出来事が起きます。
この出来事によって私達は魂の修行をさせてもらうのです。
人間はその人その人によって非常にすばらしい面を持っておれば、
またすばらしくない面も持っております。
そのすばらしくない面を、
すばらしくする為にこの世に生まれて来るのです。
分かり易く言いますと、自分の持っている悪い癖、
欠点を修正することです。

これが魂の修行に繋がるのですね。
なくて七癖、あって四十八癖という程、
人はそれぞれの癖を持っています。
この癖を修正する為にこの世に生まれて来ております。
その癖というのは出会う出来事によって強く出て来るのです。
悪く出る癖、良く出る癖とありますが、
自分の持っている悪い癖、欠点というのは、
私達の持つ「業」とも説かれています。
この業の修正をするのですね。

魂が綺麗に浄化されてしまうと、
仏教で「如来は再び、再生はされない」と説かれているように、
心が綺麗になると、もうこの世に生まれる必要はなくなるそうです。
一般には私達は一体どこから生まれて来たのでしょうか。
この肉体は父母の縁によってこの世に来ただけであって、
この肉体を動かしている私達の命はどこからいただいたのでしょうか。
各人の持っている個性はどこからいただいたのでしょうか。
これは私達の見ることの出来ない世界、
つまり「実在の世界」からです。
これが本当にある世界で、この世は仮の世界、
物質化現象の世界ともいいますが、形として現れた世界であって、
見えない世界が実在の世界です。


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「御垂訓」

2020-07-20 00:05:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

          講演集、 一

     幸せの根源は「心の持ち方」


幸せの根源とは一体何でしょうか。
それは私達の心の在り方にあるのです。
毎日の生活で、病気の方、
経済的に恵まれない方がある一方で、健康にも
経済的にも環境にも恵まれている方など、
いろんな方がありますが、
私達はそういう環境の中に生きていると思っています。
もっとも現実には環境の中に生きていますが、
本当は自分の心の中に生きているのです。
言い換えると「心の持ち方」の中に生きているのです。
ものの思い方、ものの見方によって、
人は幸せにも不孝にもなります。

或る一つの出来事が起きましても、それに捉われて、
私ほど不幸な者はいないと悲しんで
暮らす者もあれば、
いやいやこれ位で止めてもらって有難いことだ、
もっともっと苦しい方も、
もっと悲しい方もあることを思えば私は幸せだ、
と言ってその出来事を感謝に変えてしまう、
そういう思い方によって、今仮に苦しい環境にあっても、
常に感謝する方向に心を向けますと、
やがて不調和な環境が調和されてきます。
よく「泣き面に蜂」とか「二度ある事は三度ある」とか言います。

これは或る一つの出来事に捉われて、
それに振り回されておりましたら、
又次の不孝が起こるということで、
泣いているところに蜂が来て、
又泣かなくてはいけないようなことになるのです。
その時、心の持ち方を感謝に変えたら、
あとに泣くことは続かないのですね。
よく不幸が続くと言いますが、
これは皆私達の思い方が大きく作用しています。
生きている限りは苦しみも体験し、喜びも悲しみも体験する為に
私達は生きさせてもらっているのであって、
何事が起きてもいいのです。
ただそれに心を捉われないことです。
幸せに生きるには、出来事に捉われないことですね。



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「御垂訓」

2020-07-19 00:13:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

              講演集、 一

           「尊いご縁」


私は常に言わせてもらうのですが、
私に縁ある方は幸いなり、又縁のない方は救われません。
こうしてご縁をいただいて日本国中を回っているのですが、
私が金儲けをするとか、私の売名行為であるとか、
又何らかの形で自分の利益を求めてやって来るのでしたら、
皆様が損をします。
しかしその思いがいっさいなくて、
「ただ、させていただく」だけで私が寄せていただいておりますと、
皆様が得をする筈ですね。

それは皆様が失うものがないからであり、
与えられるからです。
病気も悪いところがあれば本当に奇蹟的に
助かって下さる方が多いです。
これは神様が――神様と言っても宗教にはいっさい関係なく、
私達をつくって下さった自然、
万象万物を調和させて下さっている大自然の力、
この力を神様と申し上げています。
この神様はすべての者に幸せになってほしい、
健やかに生きてほしいと願って下さっているのです。
その神様の御心を縁ある方々に少しでもお伝えさせていただきたい、
縁ある方々に必ず幸せになっていただかなくてはならないと
思っています。

こうしてお会いさせてもらうのも尊いご縁です。
ご縁をいただくのに、仏教においては次のように説かれています。
「正しき法に縁を得るのは、あの大洋の真ん中で、流れてくる
浮木に、片目の亀が巡り合よりも尚難いものである」
つまり片目の亀というのは、世界が半分しか見えない。
流木に亀が会うだけでも得難いのに、
しかも片目の亀が出会うのですから、
ご縁をいただくことは誠に得難く尊いということです。


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「御垂訓」

2020-07-18 00:05:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

              講演集、 一

        「わが師、高橋信次先生」


私は高橋信次先生という、
既に十二年前に亡くなられた方の教えにご縁をいただきました。
この方の教えを受けまして、これは素晴らしい、
実践させてもらったら必ず功徳があると知りました。
そしてその教えを実践し、
体験したことを人々に紹介させてもらっております。
この先生は、心に関する本を「心のシリーズ」として
十五、六冊出版されました。

この先生には身近なお弟子さんがたくさんおられました。
私は直接ご指導を受けたことは
一回もないのですが、ご講演の中で、或いはご著書の中で
「私の身近にあっても私から遠く離れた弟子もある。
私がいまだめぐり合うことができなくても私の最も近くにいる
弟子もある。
それは私の説いた教えを実践してくれる人である」と、
たびたび述べておられます。

先生が亡くなられた時はもう三日程、
気が違ったように泣き叫びました。
しかし泣いても先生は戻っては下さいません。
その中にあって、「遠くにあっても近き弟子、
近くにあっても遠き弟子」という言葉を思い、
私は行いによって先生の最も近い弟子にしてもらおう、
私の生きる限り、
この教えを絶やさないようにしていきたいと思いました。

高橋信次先生の教えを初めに受けに行った時、
私を誘って下さった方が
「長尾さんは人間の生まれ代わりはあると思いますか」
と聞かれるので、「あると聞いてはいるけれど、
見たことはないので、分かりません」と言いますと、
「高橋信次先生は、
人間の生まれ代わりの証明をなさいます」と言われたのです。
それは私も知りたかったことですので、
是非連れて行って下さい、とお願いをして出掛けました。

ではなぜ証明ができるのかと言いますと、
今私達は日本に生まれていて日本語しか知りませんが、
その日本人の一人が過去に生きていた世界の、
例えば中国とかインドとかイスラエル、
イギリスなどの国の言葉で話をすると聞いたのです。
習いもしない言葉で話して通じ合えるというのは
これはただ事ではないと思い、
この先生の教えに触れたのです。



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