浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-10-16 00:42:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

      その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

しかし己の罪を悔い改め、日々の生活を通じて正しい教え、
神理の中に己の行いを行じていきますと、
やがて光に満たされます。
日々に神の御胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ
地獄の底に真っ逆さまに落ちないように、
毎日の生活の中に神の御胸に抱かれて、
そして光の国に住まわせてもらっている喜びですね。

愚かな過ちの多い私でも、
こんな幸せな毎日を送らせてもらっています。
そして数限りない多くの方から愛してもらえます。
なぜ私が、多くの方から愛していただけるのでしょう。
それは私が人を愛するから、人は私を愛して下さるのです。
愛するが故に愛され、与えるが故に与えられます。
これは法則ですね。

だから幸せになりたければ、
人様を幸せにさせてもらったらいいのです。
身の周りの方を幸せにしたらいいのです。
その時、必ず自分が幸せになります。
不孝になりたかったら、
周りの人をいじめて不幸にしてやれば、
必ず不幸になります。

簡単に幸せにも不孝にもなります。
山彦は山に向かって声を発しますと、
そのまま山に当たって返ってきます。
「オーイ」と言えば、「オーイ」と、
「アホー」と言えば、「アホー」と、
返ってきますね。
狂いはありません。
過ちの行為をすれば、
それは過ちとなって自分に返ってきます。


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「御垂訓」

2020-10-15 00:11:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

        その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

自分がどうであったか、
果たして過ちを犯していなかったかと追求していきますと、
もう、あるはあるは、過ちの塊みたいなものです。
よくまあ、こんな自分が今日まで生きさせていただいたことだ、
皆さんの許し、神様の許し、そんな大きな愛の中に許していただいてはじめて、
今生きさせていただいているのだなあということが分かります。
反省なしにそんなことに気付くことはできません。
反省もしたことのない指導者が、どうして人に反省の指導ができますか、
できません。

そして反省の中で己自身の哀れな姿も見せていただけます。
本当に哀れな可哀そうな自分も見せてもらうことができます。
人はみな可哀そうな存在です。
この世に生まれた以上、愛しき者と別れなくてはいけない、又巡り合った方と
別れなくてはいけない、そしていつの日かこの世を去っていかなければいけない、
そういう宿命を背負ってこの世に生きているのです。
又人生というのは自分の思うようにはなりません。
「ああしたいなあ」「こうしたいなあ」と思っても、どうすることもできない
しがらみ中に自ら縛られている自分の姿も、反省することによってはっきり
拝めます。

そして自分が許していただいているのだから、人さまを責めるような資格が
自分にあるのだろうかと思いました時に、そんな資格は一つも自分にはない
ことが分かりますね。
何の過ちもなければ、人を責める資格があります。
しかし、そんな方は一人もありません。
過ちを繰り返し、ほんとうに正しい道を知らないが為に、愚かにも過ちを犯し
罪を作り、やがて地獄に落ちるのです。
私たちは過ちに目覚めなければほんとうに地獄に行きます。
生きながら地獄の毎日です。

愚かにも悪業重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国

となります。


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「御垂訓」

2020-10-14 00:13:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

        その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

家庭の中で、或いは職場の中で人様を礼拝させてもらえばいいのです。
私のところに来ていただきましたら、
「有難うございました」と合掌して迎え、
治療させてもらっても、
「ああ、有難うございました」と合掌してお礼を言わせてもらいます。
その方の仏性に礼拝するわけですね。

どの方もみな神の心、仏の心を持っておられ、
素晴らしい面を持っておられます。
「あの人にはあんな素晴らしいところがある」
「この人にはこんな素晴らしいところがある」と見付けて、
それを褒め称えるのです。

それを、いいところを見ないで、悪いところばかり見付け出して、
文句を言って喧嘩をしています。
新しい畳でも叩けば埃が出て来るように、
過ちの無い人間は一人もありません。
過去を振り返ってみましたら、
どんな方でも「私はいまだかって過ちを犯したことはありません」と
言える人は、一人もいないはずです。

今は犯していなくても、過去において犯しているかも分かりません。
ですから、人の過ちを掘り下げるのだったら、
自分の過ちをせいぜい探すといいのです。
人の過ちを探している暇があったら、自分の過ちをしっかり探して、
自分の間違いを掘り起こせばいいのです。
これが反省です。

自ら法の後継者と称しながら、「私は一度も過ちを犯していないから、
今迄一度も反省をしたことがない」と講演をして
威張っている指導者もあります。
今日来ていただいているこの若い方は、この間から一週間、
奈良のY先生の内観道場に行き、
その帰りにここへ寄ってくれたのです。
一週間よく頑張ってくれました。

本当に御苦労さまでした。
私たちは自分自身の心を見詰め、
内観或いは反省することなしには、
自分の過ちに目覚めることができないのです。
反省、内観は神の与え給うた大きな慈愛です。
私も反省させていただくまでは、すべて自分が正しく、
人が間違っていると思っていました。



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「御垂訓」

2020-10-13 00:02:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書[講演集]より

            講演集、 二

      その人の長所を見付けて礼拝する


指導者が人を中傷し、嘘をつく、
そんな方の教えを信じてさんざん人の悪口を
言って、嘘をついて歩いたなら、間違いなく地獄行きです。
指導者が人の悪口を言い、嘘をついているのだから、
学んでいる人たちは又同じように人の悪口を言い、
嘘をつきます。

嘘を言っている多くの方をだましたり、人をけなしたり、
人の悪口を言ったりしていて、
死んだ時に極楽に行けるはずがありません。
熱心な弟子ほど教えを守りますから、
その指導者のように生きるはずです。
人をけなしたら、自分が地獄に行くということを覚悟して、
人をけなしたらいいのです。

人を褒めなさい。
そして感謝しなさい。
褒めてもらって怒る人はありません。
その方の素晴らしいところを見つけて下さい。
まあ「観自在菩薩―――アバロキチィーシュバラー」ですね。
観自在菩薩の、「観」は見る、「自在」は自由自在です。
灰皿一つ見ましても、上から横から底から見ますと、
それぞれ形が違いますように、
人間もその方を見た時、長所もあれば短所もあって、
それでこそ人間です。
完成された方は一人もおられません。

欠点の無い方はこの世に生まれる必要がありません。
欠点があるから、生まれてきているのです。
この欠点をとりあげて、
「あの人はああだこうだ」とけなしている人のほうが
おかしいのですね。

皆、欠点はあるのですから、
それよりもその人の持っている素晴らしいものを
見付けて褒め称えたらいいのです。
自分の身近な方を褒め称え、信頼し、
そして礼拝したらいいのです。
それでこそ本当の神の信仰につながります。


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「御垂訓」

2020-10-11 00:15:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より
               講演集、 二

      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

ですから、私たちは死んだ後、
嫌われるようなところには出ないようにしましょう。
死んだら生き残った人への執着を離して水臭くし、
私たちも死んだ人への思いを捨てて水臭くしたらいいのです。
私が「死んだら思いを残してはいけません。
どれほどいとおしい方でも、どれほど大事な物でも、
どんな大きな財産、地位、名誉であっても、
そんなものは一切捨てなくてはいけません。
死んだらもう心を離さなくてはいけません。

後に残った者も死んだ人の後を追ったらいけません」と言いましたら、
「先生は水臭い。
自分の大事な人を失ったことがないからそんなことが言えるのだ」と
言って怒られました。
「いや、私も大事な人を亡くしました。
しかし生きている者は死んだ方から思いを離してあげて、
極楽の世界に旅立ってもらうように仕向けなくてはいけません」
そう言うと、「水臭い水臭い」と言って怒りますから、
「では、あなたは死んだ人が出てきたら喜びますか」と聞くと、
「いや、やっぱり気持ちが悪い、恐ろしくていやです」と言われます。
この世を去った時、私たちは素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。

その素晴らしい世界に帰るには、先程から言っておりますように、
この世の一切のものから思いを離すこと、
そして自分の心の荷物を少しでも軽くすること、
それと自分の行く世界をはっきりと知っていることです。
そうすればもう迷うことはありません。
私にご縁のあった方は、亡くなったら皆きれいなお顔をしているのです。
ご縁のある方は皆、「安らかなきれいなお顔で極楽往生してくれました」
といって連絡して下さいます。
それは、その方たちが自らの心に目覚めて、光に満たされるから、
安楽往生ができるのですね。


お知らせ:恩師「長尾弘」先生のページを新規開設しました。
皆様のご訪問をお待ちしております。
URL
https://www.facebook.com/37sun4970masato (新規開設)
https://www.facebook.com/37sun4970hiro (新規開設)
https://www.facebook.com/37sun4970


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「御垂訓」

2020-10-11 00:12:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
         恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

     この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

誰でもいいと言って探しかけて指をさされましたら、皆びっくりします。
そんな神様が、肩に乗せてほしいと言ってきたら、誰でもいい気はしません。
なるほど神と祀られて、一般の低級な拝み屋さんなどが見ますと、威圧的に
神の怖しさを見せるのです。

そして言うことは立派なことですので、ついに神様として祀ってしまうのですが、
その本質は違います。
よく人間の体に神懲りしていますが、ああいうのは、
自らの心を悟っていない霊が乗り移っているのです。
真の神の御心を知らない者、神の御心を日々の生活に実践できない者に、
どうして真の神が懲かられますか。
死んだ後に、強い思いを残してこの世に出る幽霊は、絶対に歓迎を受けません。
誰も皆、お金は大事だと思いますが、そのお金さえ幽霊が出てきて言えば、
もう要らないと言います。

これはこの近所の方の話です。
そのおばあちゃんは、「ちょっと三千円貸してくれるか」、
「ちょっと五千円貸してくれるか」と言って、
あちこちでたくさんの借金をしたままよそへ引っ越しされました。
借金の持ち逃げです。

「まあ、しょうがないわ」と、皆諦めていたのです。
するとある晩、そのおばあちゃんが、「こんばんは、
お前とこで借りたお金をまだよう返さないでいる。
もうちょっと待っといてや」と言って、
一軒一軒借りた家を回って歩いたのです。
それで近所の人が、「あんなに長い間何も言わないでいて、
急に来てあんなことを言って、
もうちょっと待ってと言うてる。あんたとこにも来たのかいな」と
いう話になっていたのですね。

その後、何日にかして、その家の若い息子さんと、近所の人が会った時に、
「えらい遠い所にいったというけど、
この間おばあちゃんがこちらに来て何軒も尋ねて歩いた」と言うと、
「ええ?それはいつのことですか」とびっくりされたそうです。
そこで、何月何日だと言うと、その日はおばあちゃんはもう死んだ後だと言うのです。
それでびっくりした皆さんが、「もう銭は要らんから、おばあさんに二度と
こないように言うといて」と、家族の人にお願いしたそうです。
―――死んで出てきたら、金も要らなん、物も要らん、愛も要らん、
どうぞ二度と出て来ないようと言われるほど嫌われていたのです。


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「御垂訓」

2020-10-11 00:02:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

「あなたは自然に逆らってそういう超自然現象を現わす力があるのだったら、
この家庭の調和の為にしっかり頑張りなさい」と言いますと、
「あんなにガチャガチャ言うのは気に入らん」つまり、
その家の中で夫婦が絶えず喧嘩をするのが、
お稲荷さんじゃ気に入らないと言います。
「それは結構です。私が夫婦を指導いたしましょう。
その時はもう水を出しませんか」と聞くと、「もう出さない。
そのようにしてくらたらもう水は出さない」
「それでは約束しましたよ」と言って、その人たちを呼んで
「あなたたちは仲良くしなさい。

お稲荷さんは怒って水を出すのだと言っていますよ」と、
東京の夫婦に注意をさせていただきました。
ご夫婦はびっくりして、今後仲良くすることを誓ってくれました。
このように自然に逆らった超自然現象を現わす力があっても、
それは霊の力で自分の心を悟ることができないのです。
だから何回も出て来ては私に叱られて、
「許してくれ、許してくれ」と稲荷さんが泣いています。

しかしこの件以後はもう水は出なくなりました。
私の心の友の方々は、みな目のあたりに一緒に見てよく知っています。
一番気持ちが悪かったのは、
「先生のところに祀ってほしいのや、祀ってほしいのや」と、
神様が言うことです。
「いや、私は祀りません。私はそういう偶像は祀りません」と断わりますと、
「先生のところならどこでもいいから祀ってくれ。便所の端でもいい」
「そんな汚いところに祀ってもらってどうしますか。
まことの神の御使いをさせていただくこの私でさえ、
祀れとか拝がめなどとは言ったことがない。

あなたは自らを知りなさい」と強く言いますと、「祀ってくれなかったら、
先生の肩に乗せてほしい」と言ってきます。
「神と祀られながら、こんな愚かな私の肩に乗ってどうするのですか。
あなたはこの私の肩に乗る力がありますか」と私が言いますと、
「先生が駄目ならここにいる誰でもいいから肩に乗せてほしい」と指を
さして探しかけた時、冷たい風がピューッと吹いてきました。
すると、たまたま泉大津から見えていた方がキャーッと
飛び上がって逃げ出してしまいました。
それ以来再びその人はここに来てくれません。


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「御垂訓」

2020-10-10 00:03:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

「私は天上界において、神とコンタクトしてきます」と
言われる自称の偉い先生があります。
そんなもの、天上界にお伴していって見てきた人は一人もいません。
ただ自分で勝手に言っているのですから信用できません。
高橋信次先生の意識が入ってこられて先生の霊の言葉を
話す人たちもおられますが、
誰一人証明する人はありません。
証拠のないものを信じるのは盲信狂信となります。
誰も見ていないことで、そんなものは証明者がなかったら駄目だと思います。
そんなことをわざわざ言わなくても、自分が神の子として、神の御使いとして、
神の心を我が心として恥ずかしくないように日々の生活で自分が実践したら
いいのです。

よく、誤った神様や観世音菩薩や何々の大神と称するものが、
人の口を使って出てこられることがあります。
こういうことがありました。
東京のお稲荷さんはすごい力を持っていて、東京のあるお宅で超自然現象を
起こすのですね。
そこのお宅の床の間や将棋盤やお膳の上から水がフワ―ッと湧いて出てくるのです。
最初は、水道屋さんが工事ミスをして、天井の水道パイプから
水が落ちてくるのかと思って、
その箇所を探し回ったそうです。

又、天井裏の水道パイプから水が漏っていないかと天井も全部見たそうです。
しかし原因もないのに水が湧くので、その家の者が恐怖に襲われ、怖がって、
私のところに相談に見えたのです。
その東京のお宅ではお稲荷さんを祀っています。

「では、水の出て来るのを止めてあげましょう。
私がおまじないを書くから、これを、水の出てくる部屋に貼りなさい。
そうすればもう水は出ません。
もし水が出たら私が止めにいきましょう」と言いますと、
「東京まで来てくれるのですか」と驚いておられます。

「私はどこへでも行きます」と言って、紙に書かせてもらいました。
それを東京に持って帰って部屋に貼りますと、ピタッと止まったのです。
ところが、その家のお嫁さんのお母さんがこの近所にいるのですが、
ここに来ましてね、そのおばあちゃんに霊が入ってきたのです。
「どなたですか」と言うと、「東京の稲荷、お前らな、水が出て怖いこわいと
言うてるやろ、あれは私が出しているのだ」と言うのです。


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「御垂訓」

2020-10-09 01:51:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

    この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

その後、
歳をだんだん重ねていきまして、この正法にご縁があるまで、
何人かのお葬式に最後の手向けをさせてもらいましたけど、
もう皆、嫌な顔をしておられます。
ああ恐ろしいなあという顔ですね。
ところが、この正法にご縁を頂き、心というものが分かってきまして、
亡くなった方に対して法を伝えさせていただきましたら、
硬直しているお方が即、硬直が解けて、
ふわふわになって綺麗なお顔になっていきます。

唇などは、上等の口紅を塗ったようになり、
頬は頬紅を塗ったようになりますね。
それは、私のような人間にそのような力があるはずはないのです。
これは、正しい法を伝えさせていただくことによって、
そのお方が自分の心に目覚めて下さったから即、
成仏することができるのです。

私のことを「霊に囚われている」と人は言いますが、
亡くなったお方に成仏していただいて、
その方が忽ち百人が百人、千人が千人見て、
「まあ何と綺麗なお顔になられた」といって認められたならば、
それは霊的現象であり、且つ科学です。

体験をして、自分が実際に神の力を見せていただいて、
その話を人々にお伝えさせていただく、
この体験こそ、この自分の実践こそが尊いものであり、
それを通して神の力が示されるのです。

そして肉体を持ったまま、真の神を証明することができるのです。
行わない者に誰が力を現わしてくれるでしょうか。
法に背いている者に誰が法の力を注いでくれるでしょうか。
法に従ってこそ、神の力は働いてくれます。
正しい教えを自分が行じてこそ、法の力というものは現わされます。




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「御垂訓」

2020-10-08 00:44:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友の方々と
イスラエルの聖墳墓教会を訪問見学した時、聖墳墓教会内も壁に
掲示されていたイエス様(?)を意図したと思われるお顔の絵です。


       恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

自分の思い方、生き方によって私たちの心は天上界にいつもあるのです。
苦しみが少なく、常に感謝に満たされ、安らぎと喜びに中にあります。
この世に生きさせていただきます時に、日々の生活の中で常に「有難いなあ、
私は幸せだなあ、なんと幸せ者なんだろう」という思いに満たされた生活をし、
人生を過ごしますと、死んだ時に硬くならないのですね。
いくら表面上はいい恰好をして、綺麗な着物を着て人さまに対して
偉そうにしていましても、心の中で苦しみ、

つまり誤った行いや思いによって苦しみを
溜めている方は、あの世に帰る時に必ずその決算が出て来ます。
いよいよ息が切れてしまいますと、肉体は硬直を始めます。
見ている間に冷たく、悲しく、硬くなり、もう石みたいなものです。
顔は見るのも恐ろしい嫌な顔になります。
成仏なさった方のお顔はほれぼれと見とれるような綺麗なお顔になります。

私は幼い頃、親戚の者やその他亡くなったお方に、
何回か最後のお別れの立向けの水をささげさせてもらいました。
人間が死ぬと、なぜあんな嫌な顔になってしまうのだろうかと、
よく思ったものです。
そして幼い頃、母に聞きました。
「お母ちゃん、死んだらなぜあんな怖い顔になるんやろ、
あんないやらしい顔になるのはなぜやろう」と。

「あれはな、長いこと親しくしてもらっていた人が死んだ時、
いとおしい人が死んだ時、別れることはできない、
その人を捨てることはできないという思いが、
もう見るのも恐ろしい顔になって、
ああ怖い、怖い、早うこんなものどないかしてもらわなあかんという
顔にならないと、別れられない。
それで神様があんな顔にしてくださるのや」と、教えてくれたのです。
ああそんなものかと思っておりました。


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「御垂訓」

2020-10-07 00:17:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

    この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

若い時、好きな方とデートでもしますと、
「早く帰らなくてはいけないよ」と
言われていても気付いたら、「あら、もうこんな時間」と、
知らない間に時間が過ぎているのです。
楽しい時間というのは早く過ぎ、嫌な時間は長いもので、
私たちの一日も同じことです。
ものすごく心配な事があったり、恐怖に襲われたりしておりますと、
一日が無限に長く思われます。
早く夜がこないかな、寝てしまうと忘れられるのにと、
夜のくるのを待ち望みます。
ところが夜になったら寝られないでああ長い夜だなあと言って
朝まで待たなくてはいけません。
しかし幸せで楽しい時間というのは、一日があっという間です。

私などは「夜が明けたと思ったらもう寝なくてはいけないなあ、
休ませてもたったらもう起きなくてはいけないなあ」と言って、
楽しみいっぱいの一日でございます。
それは喜びと安らぎとそして感謝に満たされており、又人々の喜びと、
その人々の喜びを頂いてそれを我が喜びとする毎日だからです。
こんなことをしていましたら、私の寿命は限られているのに、
もうあっという間に私のこの世の生命は過ぎるのではないかと
ひやひやしているぐらい、
一日一日が知らない間に過ぎていきますね。
それは常に喜びに満たされていますから、心は天上界です。
私は禅定の時、よく言わせてもらっています。
「身はこの世にあり、心は天上界にあります」と。


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「御垂訓」

2020-10-06 00:32:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

     この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


私たちは死んだらおしまい、ではありません。
死んだら、素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。
その世界は魂のふるさとです。
ふるさとに帰ってはじめて、本当に成仏します。
この世に、この地球上に自分の思いを残しますと、
その思いが執着になり、
その思いの場所に自分がとどまるのです。

だから、いっさいの思いを捨てなくてはいけません。
そしてすべての思いを離すと、
自分のふるさとに向かって旅立つことができます。
しかし、旅立つ時、自分の心に重荷をいっぱい背負っていますと、
重くて走れません。
五十キロ背負う能力のある人に百キロの荷物を背負わせたとしたら、
これはもうえらいことです。

もし百五十キロ載せられたら、
ペシャンコに押しつぶされて動けません。
これと同じように、自分で作った心のお荷物によって、
自分自身が荷物に押さえつけられて、
たとえ帰る世界を知ってこの世から執着を離したとしても、
その重さによって動くことができません。

この心の重さを持たない為には、これまで何回も言っておりますが、
腹を立てないように、愚痴を言わないように、
人さまを憎まないように恨まないように、
要らない心配をしないように、
嘘は絶対に言わないようにしなくてはいけません。
これらはみなお荷物です。

そのお荷物を少しでも軽くして、もし今迄に溜めた荷物がありましたら、
一つ一つ、時間があれば本当の神様に対して心の底から「お許し下さい。
私はあの時あんな過ちを犯しました。
もう繰り返すことはいたしませんからどうぞ許して下さい」と、
悔い改めた時、それは一つ一つ許されます。


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「御垂訓」

2020-10-05 00:06:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より

                  講演集、 二

              黄金の光と暗い想念


先の続き・・・

私の一番上の姉が泉大津に嫁いでいるのですが、
そのお仏壇が又黒いのなんの真っ黒けだったのです。
私が二十代の時、そこでお世話になっていまして、
そこの仏さんの前を通る時、
「まあ、ここの仏さんはなんと暗いなあ、なぜこんなに黒いのかなあ」と思いました。
阿弥陀さんも横に書いてある南無不可思議光如来も南無無量寿光如来の字も
何も分からないほど真っ黒けでした。
この法にご縁をいただきましてから後、一回はおじいちゃんが亡くなられた時。
二回目はおばあちゃんが亡くなられた時、その後三回目に参ってお祈りしました。
今度家を建てまして、その新築の家に、
もう何十年も前の真っ黒けだったお仏壇を入れますと、
その新築の家よりも仏壇の方が光っています。
奥のほうから煌々と光っています。

私が二十代ですから、もう三十何年前に真っ黒けだったお仏壇です。
それが今は新品みたいで、新しく建てた家よりもなお光っています。
新しい家に古い家具を入れても調和しないものですね。
それだけが古く目立って、ついもうこのたんすも替えようか、
これも新しいのに替えようかということになって、そうしないと合わないものです。
ましてや真っ黒けの仏壇を入れたら似合うはずがないのですが、
家よりも仏壇のほうが光るぐらいになりました。
仏壇の中に不孝にして成仏することのできないご先祖様がおられますと、
仏壇はだんだん暗くなります。
家もそうです。
ものすごく陰気くさい家で、その中に入ると暗い感じを受けるお宅というのは、
その家の中に執着している何者かがあるから暗いのです。
墓地全体が暗いのもそうです。


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「御垂訓」

2020-10-04 01:02:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 二

           黄金の光と暗い想念


先の続き・・・

地元の方は何回も聞かれた話ですが、
今日はわざわざ遠方から来ていただいて、
初めてお見えになっていただいた方たちの為に
説明させてもらうお話だと思って、辛抱して聞いてください。
初めての方は、「ああ、ほんとうにそんなことがあるのかなあ」と
理解してもらえると思います。

「たださせていただく行為」の時は、
天から光がさぁっと射してきます。
徳島に行きますと、頂上にたくさんアンテナの立っている
眉山という山がありますが、
徳島から船に乗って、港を離れて後を振り返りますと、
私たちの行った場所、通った場所に、
雲間から数条の光が下りています。

その時運転をしてくれた方が、「先生、あれが眉山、
あちらが三本松、あそこは途中で下りてもらったところ、
雲間からさぁっと光が下りています」と言うのです。
見ると、本当に雲間から光が下りています。
その時、突然海面が全部黄金に変わりました。
もうたとえようのない黄金の海になってしまったのです。

船に乗っておられた大勢の皆様も「ウアー、なんと美しい海、
こんなきれいな海は見たことがない」
と皆わいわい言っていますけど、私たちは、
「ああ、これは神様が私たちの行為に対して、
その祝福の光を与えて下さっているのだ」と
いうことが分かっていますから、
「ああ、有難いなあ」と言い合って帰ってきたのです。

暗い想念、誤まった行為によってこの世を過ごし、
そしてこの世を去った時、暗い世界に
私たちがもし執着しておりますと、その光と反対の現象が出て来ます。
よそのお宅に行きました時、真っ暗な感じを受ける家というのがあります。
表に立つと奥が見えないような暗い家、或いはお仏壇を見ましても、
その中が真っ黒のお宅がよくありますね。
仏壇の奥が見えません。

正面の阿弥陀さんなども墨を塗ったように消えてしまって、
真っ黒で見えない。
お墓もそうです。
仏壇は本来あんなに暗くはならないものです。
ですから、真っ黒の仏壇でも、ご縁がありまして、
その中におられるご先祖様を天上界へ送りますと、忽ち光ってきます。
これはどこのお宅のお仏壇でも同じように暗いところがみな光ります。
いわば私は、仏壇の洗濯屋さんみたいなものです。
光るのです。
ではなぜ暗いのかと言いますと、
仏壇の中に迷える諸霊の方がおられるから真っ黒になっているのです。
線香の煙で曇っているのとは違うのです。

「私が一生懸命拝みましたから、
線香とロウソクの煤で仏壇が真っ黒になっているのです」というのは嘘です。
「では、見ていなさい」と言ってお祈りをして、
迷える霊が成仏されますと、パアーツと光ります。
特に仏壇の正面の上の欄間などは彫刻ですから、
もう真っ黒になったら磨きようがないのですけれど、
それが光ってきます。


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「御垂訓」

2020-10-03 00:03:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「講演集」より

                  講演集、 二

               黄金の光と暗い想念


先の続き・・・

そして、香川県から徳島県へと、あの大きな大坂峠を越えて入っていきました。
峠にさしかかった夕方、まだ暗くはなっていなかったのですけど、左側は山肌で、
中に道が通っており、右側は谷でやはり切り立った崖で、
ガードレールが付けてあって
谷へ落ちないようになっています。
山を切り開いた峠を車が登っていき、私は助手席に乗せてもらって左側を見ますと、
山肌がちょうど車の黄色いヘッドライトでパァーッと
照らしたように黄金色で、ずっと
光っているのです。
すごく光っています。
山肌が全部光っています。

それで、「ああひょっとしたら後からバスかトラックが来て、
黄色いライトをつけて追いかけてくるのかなあ」と
思って後を何回も見たのですけど、何も来ません。
その峠を越えるまでずっとものすごく光っていたのですね。
四国の旅から帰って何日か経って、
一緒にいってくれた方々と又お会いした時、運転してくれた方が、
「先生、あの峠を越える時、気が付きましたか」と言うのです。
「あ、お宅も気付きましたか」と言うと、
「私、運転していましたから、前のほうがパァーッと光って、
ちょうど黄金の光ですから、
あの強い黄色のライトで照らしたような光なので、バスが来たのだと思って、
何回もバックミラーで後を見ました」と、
やっぱり同じことを言っているのですね。

「そんなこと言ったら頭がおかしいのかと思ってね、よう言いませんでした」
「ああ、気付かれましたか」と私が言いますと、後ろの席に乗っていた方も、
「私も右側のガードレールがずっと光っていたのを見ていました。
大阪のカードレールは確か白だったと思うのに、
四国へ来たら金色が塗ってあるのかなあと思った」と言うのです。
「私たちは光です」と言いました時、
忽ちその車の周りがものすごい黄金の光に包まれていたのです。
現実に何人おられても、皆が肉の目で見ることのできる光です。
本当の愛ゆえに行動を起こしますと、どなたでも全部、光になります。
光に包まれるのです。
愛は光なり、神は愛、光こそ神、
そういう自然界の中にも厳然としてはっきりと
この肉体の目をもって光を見せていただけます。


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