浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-08-31 00:15:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


           講演集、 一


    「魂の修行とは悪い癖の修正」


先の続き・・・

「実在の世界」にその方その方の持っている個性、
つまり魂の段階というのがあるのですね。
これは「光の量の区域」といって、光の量の多い、
魂の段階の高い方は高い世界の住人でいられる。
又光の量の少ない、
低い段階の方は見えない世界の低い世界におります。
しかし地獄にいて、
そこからこの世に生まれ出た人は一人もおりません。
全部、一応光の世界に戻った方が自分の持っている魂の欠点を
修正する為に、この世に生まれて来るのです。

ではなぜそのすばらしい光の世界からこの地上に
出なくてはいけないかと言いますと、光の世界は、
同じ光の量を持つ者同士が寄り集まるようになっているのです。
十すばらしい方は十すばらしい方ばっかりが集まっており、
三すばらしい方は、三すばらしい方ばかりが集まっている。
魂の次元に応じてそれぞれ個性を持った者が、この世に
同じ肉体を持って生まれ出て、魂の次元の高い方を見て、
次元の低い方は「あのように生きなくては」と学ばせてもらい、
又低い方の言動を見て「あのように生きてはいけない」
と学んでいくのです。

光の世界が幸せであったから、
私達は幸せになりたいという願いがあるのです。
故郷への望郷、ノスタルジアですね。
その為に人は皆幸せになりたいと思うのです。
あの世からこの世を見ますと、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所なのです。
一歩足を踏み外すと、断崖絶壁から転がり落ちる。
或いは深い泥沼に落ちるかも知れない。
この世は本当に危ない世界です。

私達も今は幸せな結構な生活だなと思っていても、
一歩踏み外したらとんでもない不幸に陥る場合があります。
男女の問題で幸せな家庭を破壊する方がよくあります。
泥沼ですね。全く危険なのがこの世界です。
こんな危ない世界に来て、
なぜ私達が苦労して魂の修行をせねばならないのかと言いますと、
それは「調和された神の意識の中に帰る為に」生まれては死に、
生まれては死にして修行を繰り返しているのです。

オギャーと生まれて、なぜ苦しい思いをしてお金儲けをせんならん、
商売せないかんと思っているのですけど、
それが本当の目的ではなかったのです。
自分の魂を広く豊かにするのが目的だったのです。
その目的の為に、持っている悪い癖、欠点を打破すること、
それが幸せに繋がっていきます。自分に悪い欠点があるから、
私達は不幸になるのです。
悪い癖、欠点の為に苦しみを大きくしていく、
だからその癖を少しでもなくしていくことですね。
そしてお互いに助け合って調和することを目的として、
私達は魂の修行をするのです。


              ~ 感謝・合掌 ~






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「講演集」より。

2014-08-30 00:41:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


            講演集、 一


     「魂の修行とは悪い癖の修正」


人生というのは、人との出会いの中に展開していきます。
そして人々との出来事を通して苦しみ悲しむのです。
人と出会えば必ず出来事が起きます。
この出来事によって私達は魂の修行をさせてもらうのです。
人間はその人その人によって非常にすばらしい面を持っておれば、
またすばらしくない面も持っております。
そのすばらしくない面を、
すばらしくする為にこの世に生まれて来るのです。
分かり易く言いますと、自分の持っている悪い癖、
欠点を修正することです。

これが魂の修行に繋がるのですね。
なくて七癖、あって四十八癖という程、
人はそれぞれの癖を持っています。
この癖を修正する為にこの世に生まれて来ております。
その癖というのは出会う出来事によって強く出て来るのです。
悪く出る癖、良く出る癖とありますが、
自分の持っている悪い癖、欠点というのは、
私達の持つ「業」とも説かれています。
この業の修正をするのですね。

魂が綺麗に浄化されてしまうと、
仏教で「如来は再び、再生はされない」と説かれているように、
心が綺麗になると、もうこの世に生まれる必要はなくなるそうです。
一般には私達は一体どこから生まれて来たのでしょうか。
この肉体は父母の縁によってこの世に来ただけであって、
この肉体を動かしている私達の命はどこからいただいたのでしょうか。
各人の持っている個性はどこからいただいたのでしょうか。
これは私達の見ることの出来ない世界、
つまり「実在の世界」からです。
これが本当にある世界で、この世は仮の世界、
物質化現象の世界ともいいますが、形として現れた世界であって、
見えない世界が実在の世界です。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-29 00:05:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


            講演集、 一


     幸せの根源は「心の持ち方」


幸せの根源とは一体何でしょうか。
それは私達の心の在り方にあるのです。
毎日の生活で、病気の方、
経済的に恵まれない方がある一方で、健康にも
経済的にも環境にも恵まれている方など、
いろんな方がありますが、
私達はそういう環境の中に生きていると思っています。
もっとも現実には環境の中に生きていますが、
本当は自分の心の中に生きているのです。
言い換えると「心の持ち方」の中に生きているのです。
ものの思い方、ものの見方によって、
人は幸せにも不孝にもなります。

或る一つの出来事が起きましても、それに捉われて、
私ほど不幸な者はいないと悲しんで
暮らす者もあれば、
いやいやこれ位で止めてもらって有難いことだ、
もっともっと苦しい方も、
もっと悲しい方もあることを思えば私は幸せだ、
と言ってその出来事を感謝に変えてしまう、
そういう思い方によって、今仮に苦しい環境にあっても、
常に感謝する方向に心を向けますと、
やがて不調和な環境が調和されてきます。
よく「泣き面に蜂」とか「二度ある事は三度ある」とか言います。

これは或る一つの出来事に捉われて、
それに振り回されておりましたら、
又次の不孝が起こるということで、
泣いているところに蜂が来て、
又泣かなくてはいけないようなことになるのです。
その時、心の持ち方を感謝に変えたら、
あとに泣くことは続かないのですね。
よく不幸が続くと言いますが、
これは皆私達の思い方が大きく作用しています。
生きている限りは苦しみも体験し、喜びも悲しみも体験する為に
私達は生きさせてもらっているのであって、
何事が起きてもいいのです。
ただそれに心を捉われないことです。
幸せに生きるには、出来事に捉われないことですね。


       ~ 感謝・合掌 ~






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「講演集」より。

2014-08-28 01:06:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


          講演集、 一


     幸せの根源は「心の持ち方」


幸せの根源とは一体何でしょうか。
それは私達の心の在り方にあるのです。
毎日の生活で、病気の方、
経済的に恵まれない方がある一方で、健康にも
経済的にも環境にも恵まれている方など、
いろんな方がありますが、
私達はそういう環境の中に生きていると思っています。
もっとも現実には環境の中に生きていますが、
本当は自分の心の中に生きているのです。
言い換えると「心の持ち方」の中に生きているのです。
ものの思い方、ものの見方によって、
人は幸せにも不孝にもなります。

或る一つの出来事が起きましても、それに捉われて、
私ほど不幸な者はいないと悲しんで
暮らす者もあれば、
いやいやこれ位で止めてもらって有難いことだ、
もっともっと苦しい方も、
もっと悲しい方もあることを思えば私は幸せだ、
と言ってその出来事を感謝に変えてしまう、
そういう思い方によって、今仮に苦しい環境にあっても、
常に感謝する方向に心を向けますと、
やがて不調和な環境が調和されてきます。
よく「泣き面に蜂」とか「二度ある事は三度ある」とか言います。

これは或る一つの出来事に捉われて、
それに振り回されておりましたら、
又次の不孝が起こるということで、
泣いているところに蜂が来て、
又泣かなくてはいけないようなことになるのです。
その時、心の持ち方を感謝に変えたら、
あとに泣くことは続かないのですね。
よく不幸が続くと言いますが、
これは皆私達の思い方が大きく作用しています。
生きている限りは苦しみも体験し、喜びも悲しみも体験する為に
私達は生きさせてもらっているのであって、
何事が起きてもいいのです。
ただそれに心を捉われないことです。
幸せに生きるには、出来事に捉われないことですね。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-08-27 00:53:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


              講演集、 一


           「尊いご縁」


私は常に言わせてもらうのですが、
私に縁ある方は幸いなり、又縁のない方は救われません。
こうしてご縁をいただいて日本国中を回っているのですが、
私が金儲けをするとか、私の売名行為であるとか、
又何らかの形で自分の利益を求めてやって来るのでしたら、
皆様が損をします。
しかしその思いがいっさいなくて、
「ただ、させていただく」だけで私が寄せていただいておりますと、
皆様が得をする筈ですね。

それは皆様が失うものがないからであり、
与えられるからです。
病気も悪いところがあれば本当に奇蹟的に
助かって下さる方が多いです。
これは神様が――神様と言っても宗教にはいっさい関係なく、
私達をつくって下さった自然、
万象万物を調和させて下さっている大自然の力、
この力を神様と申し上げています。
この神様はすべての者に幸せになってほしい、
健やかに生きてほしいと願って下さっているのです。
その神様の御心を縁ある方々に少しでもお伝えさせていただきたい、
縁ある方々に必ず幸せになっていただかなくてはならないと
思っています。

こうしてお会いさせてもらうのも尊いご縁です。
ご縁をいただくのに、仏教においては次のように説かれています。
「正しき法に縁を得るのは、あの大洋の真ん中で、流れてくる
浮木に、片目の亀が巡り合よりも尚難いものである」
つまり片目の亀というのは、世界が半分しか見えない。
流木に亀が会うだけでも得難いのに、
しかも片目の亀が出会うのですから、
ご縁をいただくことは誠に得難く尊いということです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-26 00:28:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         ~ 恩師の「講演集」より ~


              講演集、 一


        「わが師、高橋信次先生」


私は高橋信次先生という、
既に十二年前に亡くなられた方の教えにご縁をいただきました。
この方の教えを受けまして、これは素晴らしい、
実践させてもらったら必ず功徳があると知りました。
そしてその教えを実践し、
体験したことを人々に紹介させてもらっております。
この先生は、心に関する本を「心のシリーズ」として
十五、六冊出版されました。

この先生には身近なお弟子さんがたくさんおられました。
私は直接ご指導を受けたことは
一回もないのですが、ご講演の中で、或いはご著書の中で
「私の身近にあっても私から遠く離れた弟子もある。
私がいまだめぐり合うことができなくても私の最も近くにいる
弟子もある。
それは私の説いた教えを実践してくれる人である」と、
たびたび述べておられます。

先生が亡くなられた時はもう三日程、
気が違ったように泣き叫びました。
しかし泣いても先生は戻っては下さいません。
その中にあって、「遠くにあっても近き弟子、
近くにあっても遠き弟子」という言葉を思い、
私は行いによって先生の最も近い弟子にしてもらおう、
私の生きる限り、
この教えを絶やさないようにしていきたいと思いました。

高橋信次先生の教えを初めに受けに行った時、
私を誘って下さった方が
「長尾さんは人間の生まれ代わりはあると思いますか」
と聞かれるので、「あると聞いてはいるけれど、
見たことはないので、分かりません」と言いますと、
「高橋信次先生は、
人間の生まれ代わりの証明をなさいます」と言われたのです。
それは私も知りたかったことですので、
是非連れて行って下さい、とお願いをして出掛けました。

ではなぜ証明ができるのかと言いますと、
今私達は日本に生まれていて日本語しか知りませんが、
その日本人の一人が過去に生きていた世界の、
例えば中国とかインドとかイスラエル、
イギリスなどの国の言葉で話をすると聞いたのです。
習いもしない言葉で話して通じ合えるというのは
これはただ事ではないと思い、
この先生の教えに触れたのです。

               
        ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-25 00:38:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の「講演集」より ~


         講演集、 一


   「自然が見せてくれた実相」


以前の私は、ご多分に洩れず、皆様と同じように、
他力の信仰を求めていました。
ところが、信仰の話を聞かせてもらったり、
本を読ませてもらったりすると、これは間違っている、
正しくないとすぐに分かるものですから、
こんなものは駄目だということで、あらゆる宗教を探し求め、
どの組織にも入ることはなかったのです。
或る時S教の信仰がすばらしいと聞いて、電話長で探すと、
岸和田にあったので、
電話をして「入会はようしませんけど、
修行だけさせてもらえますか」と頼むと、
どうぞということだったので、
朝六時から行われている修行に何カ月か通いました。

そんな或る朝、
いつも通っている国道のポプラ並木が光っています。
後光がさして、その国道が何とも言えず美しく、
とてもこの世のものとは思えないほどで、
普段見慣れている道が大層きれいに見えたのです。
何と不思議な感じがするものだなあと思っていました。
心が本当に静まり返った時は、
万象万物が、覆われたものを取り外して、
実相を現わしてくれるのですね。心が調和された時には、
本当のものが見えて来るのです。
ふだん気付かなかった美しいものが見えて来るのです。
さらに与えていただいた環境に感謝することによって、
自然の声を聞くことができるようになります。
或る時は地球の回る自転の音を聞くこともできます。
目に見えない世界の方々との対話もできます。
これは誰にでも可能なことです。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-08-24 02:01:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の「講演集」より ~


         講演集、 一


      「八正道」について


お釈迦様は正しく見なさいとおっしゃいます。
人間が幸せになる方法の一つとして、
まず物事を「正しく見なさい」「正しく思いなさい」
「正しく語りなさい」「正しく仕事をしなさい」
「正しく生きなさい」「正しく道に精進しなさい」
「正しく念じなさい」「正しく定に入りなさい」
この八つの正しい生き方を説かれました。
「八正道」ですね。これを日々の生活に生かせたら、
私達は幸せになれるのです。

●正しく見る
  正しくとはどういうことか、なかなか分かりません。
  自分を中心としてものを見ると、
  自己保護と、自我我欲の色眼鏡に振り回されますから、
  常に相手の立場に立って、
  自分中心の見方をしないこと、これが正しい見方です。
●正しく思う
  常に他を生かす愛の思い、これこそ正しい思い方です。
●正しく語る
  相手を思いやり、相手に安らぎと喜びを与える言葉や、
  その方が幸せになるよう、
  生きる勇気を与える言葉を語ることです。
●正しく仕事する
  私達は一人では生きられません。
  この社会の数え切れない多くの人々の恩恵を受けて、
  生きさせてもらっています。
  このいただいた恩恵のご恩返しの行為こそ正しい仕事で、
  金もうけが正しい仕事とは
  違うのです。

●正しく生きる
  常に自分を厳しく見つめて生きていくことです。
●正しく道に精進する
  これはまず家庭の調和を築かなくてはいけません。
  両親からいただいた無条件の愛、その愛に対して感謝し、
  ご恩返しを行うことです。
  これを忘れては、幸せになれません。夫婦が喧嘩ばかりしていて、
  神様に夫婦仲良くさせて下さいといくら拝んでも駄目です。
  家庭の調和に為には、子供に片寄った愛情を持ってはいけません。
  子はわがものではなく、神様から預からせてもらったものです。
  肉体を分け与えたと思ったら間違いです。
  魂は皆独立した立派な人格者ですから、
  神様から預かった子と思って豊かな愛情をもって育てて欲しいですね。
  そして自分が幸せになったら又他の人にもその幸せを分け与えていく
  これが正しく道に精進するということです。

●正しく念じる
  常にしっかりした目的を持って、
  そこに心を向けることが正しく念じることです。
●正しく定に入る
  「定に入る」とは死ぬことではなくて、
  常に反省して安らぎと感謝のひとときを持たせてもらうことです。
  今日一日を反省し、
  間違ったことがあったら悔い改めて二度と再び繰り返さないことを
  誓って、
  そのあとで感謝と安らぎのひとときを持たせてもらうことです。
  このようにすれば必ず幸せが来ます。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-23 01:33:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一


      「神の使徒としての決意」


お釈迦様は、弟子を布教に出される時、
「あなた達はあなたの赴くところの天と地と、
その地の多くの人々の幸福と利益の為に赴きなさい」
といって弟子を出されたのです。
私も頭は坊主ではありませんが、
お釈迦様の直弟子の一人としてどこへ行かせてもらいましても、
その地の天と地、
多くの皆さんの利益と幸福の為に少しでもお役に立てたら、
仏の弟子として自分の使命が果たせるのではないかと思って、
あちこちに行かせてもらっています。

次にお話するのは、人のあるべき行いについて、
或る光の大指導霊(シルバーバーチ)の
言霊です。私達の心掛けるべき言葉だと思います。
「自分自身の日々の生活の中で数多くの体験から、私は大人の霊、
つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと。
決意しました。
真理をできるだけ分かり易く説いてみよう、
常に慈しみの心をもって人間に接し、決して腹を立てまい、
そうすることによって私がなるほど神の使者であるということを
身をもって証明しよう、そう決心したのです。

同時に私は過去世の姓名は絶対に明かさないという
重荷を自ら背負いました。
仰々しい名前や称号や地位や名声を捨て、説教の内容と、
私の思いと、行いだけで勝負しようと決心したのです。
結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないと
いうことです。
私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。
私がどのような程度の霊であるかは私のやっていることで
判断して下さい。
私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、
暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、
それだけで私は幸せなのです」
高い高い光の霊が、
こんな風にして私達人間の生き方を思って下さるということですね。
よく「私の過去はお釈迦様である」とか
「私の過去はイエス・キリストである」とか
言われる方がありますね。

ほんとうの高い意識の霊魂は自分の名称を明かされることなく、
ただ説かれるもの、また霊的現象としてあらわれる現証の中に
神の子としての証をされます。行いをもって証をされるのですね。
私達も皆神の子です。神の子として自分の行いを行じた時、
みんな神の子として証ができるわけです。
先程の決意の言葉を福山の会場で話していました間に、
いろいろ病気を持った方が、その話を聞くだけで治っていかれました。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-22 01:10:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一


      「黄金の光と金粉の現象」


こんな話をしても余り信じていただけませんが、
先日香川県へ行きまして、
その時も殆ど夜も寝ずに三、四日四国を回って来たのです。
車を運転して下さった方が
「先生こんな大変な悪霊をあちこち救ったりして、
お疲れになりませんか」と言われましたが、私達は、
自分という我があった時に疲れます。
しかし、ただ人々が、また迷える霊が救われてくれ、
喜んでくれたら、
自ら何の求めることなしに行動を起こしました時、
これは神の使いです。
そして神のお使いとして肉体を持った者が行動を起こした時、
その人は光につつまれています。

香川県から徳島県へ抜ける峠の山道に入って行きました時、
私は助手席に坐っていましたから、左側の山肌を見ていていました。
すると車の黄色いランプで照らしたように山肌が光って見えましたから、
後ろからトラックが来るのだろうかと何回も後ろを見たのですが、
何も来ていません。
そして山肌がず―っと光るのを見ていました。
その後帰って来てから、運転してくれた人と、
もう一人いっしょに行った人と三人が会った時に、
「先生あの時パアーッと前の方が光に包まれていたのを
知っておられましたか」と言われますので、
「あの峠に入る時でしょう。
あの時は後ろからダンプガーが来るのかと、
何回も後ろを見ていたのですよ」と話したのです。
運転する人はずっと前のほうを見ていて前方が光ってきたので、
何度か後方を確認したと言い、
そして後の右側の席に坐っていたもう一人の方は、
崖ふちに付けられたガードレールが普通は白いのに、
黄色に見えるので、
黄が塗ってあるのかと思って見ていたというのです。

つまり車の周囲が全部黄金の光に包まれていたのですね。
三人が三人とも各方向を見ていて黄金の光に包まれたのを見たわけです。
しかも、肉体を持った者の目で見るというような現象も見せてもらいます。
寄せてもらう場所によりましたら、会場にたくさんの金粉が出て来ます。
山口の婦人会でお話をさせてもらいました時もたくさんの金が
出て来ましたが、
ああいう現象も、肉体を持った人間、私のような者ですが、
神の使いとしてその行いが間違いないと自然が認めた場合に、
そういう不思議なことを自然が示して下さいます。
今日この会場におられる長門のAさんの例ですが、この方は半年ほど入院しておられて
とうとう医者から見放されて、自宅で療養して下さいと家に返されたのですね。

たまたま大阪にお姉さんがおられたご縁で、
山口県の長門から弟さんが車に乗せてわざわざ連れて来られたのです。
その時は本当に車椅子がなかったら動けないという状態でした。
お姉さんのお宅で初めてお目にかかった時に、
「どうにか立てますか」と言って手で支えましても、もう一歩も動けません。
また右手も指が動かなくて、左手で字を書く練習をしているということでした。
それが治療をさせてもらいましたところ、ぼちぼちと歩かれたのです。
「手を見ましょう」と言って見ますと、手も動いたのです。
紙と鉛筆で上手に字を書かれました。

「お上手な字ですね」と言ったのですが、
初めてお会いしたその方の周囲に金粉がいっぱい出て来ました。
今日も長門から来ておられますが、今はもうピンピンとして元気にしておられます。
その後も山口県と大阪と離れていて、そのAさんに「どうか光を当てて下さいと祈って下さい。
私も同時に祈りますから」と言いまして祈らせてもらいますと、顔中がピカピカに
なる程何回も金粉が出て来たということでした。
全く動けず、現代の医学では見放されてしまったAさんが、何もしないのに、
手も触れないのに治っていただくという事実は、普通では信じられないことです。

≪Aさんが皆の前に出て来られて、先生が実験をされました。
合掌をして坐られたAさんに向かって先生がお祈りの言葉を述べられると、
暫くしてAさんの額の辺りにキラキラ光る金粉が認められ、
一同不思議な現象を見せていただきました。≫


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-08-21 00:18:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の「講演集」より ~


           講演集、 一


      「無我の境地、神の使途」


このようにお話させていただいて、
あちこちに寄せていただくのですが、
もう一睡もせず走り回っている時があります。
それでも何ら疲れないですね。
普通の常識で考えましたら、
とてもたまらないだろうなと思われるでしょうが、
しかし疲れも知らないこのエネルギーは自分が自らを、
自分の思いをすべて捨てて、待っていただいている方に、
たとえ一人でも二人でも安らいでいただけたら、
喜んでいただけたらというその思いが、
私のエネルギーになります。

「しんどいなあ」とか「もうあかん」という状態になることは
ありません。
仏教でよく「無我の境地」と言います。
お坊さんが坐禅をされて無我の境地に到達されたとか、
私は悟ったとか言います。それも一つの無我ですけど、
「自らの自我をなくした日々の生活」これが無我で、
私には私の自我は何もありません。
他の方から私の自我について質問を受けた時、
私は次のように答えます。
「私のすべては神のもの、私のすべては人々のもの、
私の時間は神のもの、そして私の時間は人々のもの、
このように祈らせてもらい、このように実践させてもらっています」と。
自分という我をなくしていまったら、
その生活の実践は神の御心のままに為したことです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-20 03:34:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


              講演集、 一


            「喜びの現証」


小学校五年生の男の子ですが、
牛乳瓶の底のような物凄い度の強い眼鏡をかけているのです。
視力は検査表の一番上のあの大きなのが、
0.一ですか、その字が見えないのです。
ですから自分の履物さえ眼鏡がなかったら履けないのですね。
勿論階段などあったら大変です。
眼鏡がなかたらお尻で這って下りなければならない、
そういう子が来られまして、
「どうか安らぎをお与え下さい」と祈りますと、
瞬間に眼鏡が要らなくなりました。

帰り際にお母さんが泣いて喜んでおられましたけれど、
その子は元気に外に遊びに行っておりました。
これも一つの現証です。
全部そんなにうまいことはいきませんよ。
その縁によって、そういう奇蹟を現わしてもらうことがあります。
四国の方で、
24歳のものが言えない方が突然に耳が聞こえて
ものを言われるようになりました。
これも現証だと思います。
ものが言えませんし、
耳も聞こえませんから聾唖学校に通っていたのですが、
全く聞こえなかったその方に、私の前に坐ってもらって
「どうか光をお与えください」と祈りました時、
突然聞こえてきたのです。

「聞こえます、聞こえます」と言われたので、
皆さんびっくりしていただきましてね。
こういうことも絶えず見せていただきます。
今私の所に来てくれているSさんのお父さんが
下半身無力症というのか、全身動かなくて、
指一本動かすことが出来なかったのですが、祈りますと、
その晩から足が動くようになり、
三日目には松葉杖も持たずに歩いて来られて
「先生歩けるようになりました」と言われました。
これなども奇蹟と思います。
これらは見えない世界からのものであって、私の力ではありません。
私以外の神の力が働いて下さって、
信じられないような奇蹟を現わしていただけるのです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-19 00:35:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「講演集」より ~


講演集、 一


「現象・理証・文証」


なぜそんなことが起こるのかと言いますと、
法に従って生活し、感謝と安らぎの中にいますと、
この世の学問とか常識を超えた世界が現実に現れて来るのです。
これは正しい生活、安らぎの中に現れて来る現象で、
その場に坐っておられた方は皆さん共に体験されておりますね。
自分一人だけではないのです。
おとなしい方は身震いしたと言われ、
また或る方は私の胸の中から鳴って来たと言われ
人によっては、絶えず頭痛のしている方は痛い所に響いて、
それ以後頭痛が消えてしまったなど、いろいろとおしゃっています。
このような現証は別にとらわれることはないのですけど、
正しい教えと言いますのは、それを行じた時、
必ず現証が自然とついて回るのだそうです。

正しい生活の副産物ですね。
そしてそれは理論的に証明できます。
正しい教えには、現象・理証・文証がついて回るそうです。
私は字を書くことは下手で、
文証はとても駄目であろうと思っておりますと、
このお話会のテープをちゃんと文字に起こして、
今日までの分のコピーを送っていただきました。
皆さんも非常に喜んでおられます。
この間も或る方が、このコピーしたものを読まれて
「何か知らないけれど泣けて泣けて、
涙を流して読ませていただきました」と喜んでおられました。
そのように文証も、私は十分書けなくても又縁をもってこうして
文字に表していただけるのですね。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-08-18 04:49:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の「講演集」より ~


            講演集、 一


      「反省会場に起こった現証」


先日来、とても不思議なことが起こっています。
反省のあとに禅定、感謝と安らぎの時間を持たせてもらっています。
その時、
その場にいた皆さんは聞いておられるのですが、
何もない空間から声が聞こえて来るのです。
しかも地球上の言葉とは違う男の方の厳かな声で話をされるのです。
勿論日本語とは違います。
英語ならばこれは英語やなとか、これは中国語やなあ、
インド語やなあぐらいは私も分かります。
しかし全然耳になじみのない言葉がずっと響くのです。
そういうことがこの間から三回程ありました。

そしておとといの晩でしたか、
禅定の一番最後に「神よ、どうぞこの場に集う方に光をお与え下さい、
すべての方々に調和と安らぎをお与え下さい」
と言って祈ることばを唱えました時、
テレビでUFOが飛んで来た時に
ああいう音を流していますけれど突然ギィーという音が
鳴り響いてきました。
そして一瞬、不思議なことですがそういう音が響いて来ますと、
私の合掌していた手の形が自然に開いたり、
ものを受ける形になったりして、
それにつれての音の響きが自然に変わるのです。
皆さんの頭の中が一瞬しびれる程の大きな音が鳴り響いて、
その後、「ありがとうございました」と言いましたら、
音はパッと止まりました。
こんな不思議な現象もちょいちょい起きております。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-08-17 05:15:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の「講演集」より ~


          講演集、 一


      「毎日の反省会」


私は今日のように外に出ました時はお休みですけれど、
家に居ります時は、夕方六時十五分から約一時間、
今で五年になるのですが、
この一時間は反省と祈りの時間として持っているのです。
最初は今助手をしてくれている二人の人達に
「あなた達の心の掃除をしましょう」と言って、
二人の人を相手に始めたのです。
毎晩一時間坐りましょう、
これは私の心に問いかけますからあなた達も
自分の心に問いかけて下さい、
過ちがあれば明日の生活に正して下さい、
ということで始めました。

●今日一日、腹を立てることはなかったか。
●愚痴を言う事はなかったか。
●両親の恩を感じ、
   その恩に対して万分の一でもお返しができたか。
●人々に心から慈悲を、愛を与えたか。
●人の命は明日の保証のある者は一人もいない、
 その時が来て後悔のないような 今日一日を過ごしたか。
●明日に家族の人に死がおとずれても、
 後悔のないように接することができたか。

このように項目をつくりまして、言わせてもらうのです。
そのあと静かに安らぎの時間を持っております。
だんだんと人が増えてきまして、
この頃では多い時で四十名近く来られますが、
大抵は二十人ぐらい毎晩おいでになっております。
しかし来ていただく方は用事があれば休まれますし、
今日はちょっと行って坐って来ようかという方は来て下さいますね。
私は一日も休みがありません。

特につらいのは、心の中に良くない思いを持ったり、
過ちを犯した時、自分が言わせてもらうのですから、
これは針の筵の上に坐っているよりも、もっと辛いです。
今日はしたくないなあ、止めたいなあと思っても、
人が来てくださったら止めるわけにはいきません。
私も凡夫ですから、「今日これがなければ楽だろうなあ」と
思う事もあります。

見方を変えたら、私は大変怠け者で常に過ちを犯し易い、
皆さんよりもたくさん過ちを犯して来た、
そんな私でもこうして毎晩自分の過去の過ちを悔い改めれば、
神はお許し下さるし、また未来の喜びを与えていただくことができます。
そんなことを繰り返しながら、もう五年が過ぎました。


               ~ 感謝・合掌 ~




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