幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

一瞬の直観

2012年11月22日 11時05分18秒 | 波動
 例のごとく
実家へ手伝いに帰ってきた。
なかなかまとめて時間が作れず
今回はわずか二泊三日の滞在だった。

 そんな短い時間の中で
母が私にしてほしいと望むこと、
私が父や母や美代子さん(義母)にしてあげたいと思うこと
山ほどあって忙しいことこの上ない。


 しかもその内容のほとんどが
お天気に恵まれないと困ることばかりだった。

北陸福井のこの時期は時雨れることが多くてなかなか晴れてくれない。
でも、おかげさまで、なか日に素晴らしい晴天に恵まれ(前日の新聞の予報では雨だったのですが)
望まれること、望んだことのすべてをクリアーすることができた。

有難いことである。


 が!!

そんな中でひとつだけ
超アンラッキーなことが起きた。

車の左前方下部を
叔母の家の塀でこすってしまったのだ。

バンパー全体が取り替えとなるだろうな、っていう感じで・・・


 ま、幸い
叔母の家の塀は丈夫な石組みなので何ともなかっし
車も自損事故の保険で直せるので
さしあたって腹は痛まない。



 人身事故でなくて良かったわ~~~~~

と胸をなでおろしたのだが、
が、しかし、やっぱり、

「なんでぇ?!」

と考えずにはいられない。


この事故さえなければ
今回、本当に思うようにいろいろなことに恵まれ
母も美代子さんも喜ばせ
帰った甲斐万々だったのに・・・

これがあるばかりに
何だか気分がおもーくペシャンとなるじゃん!!

と、その夜、少し落ち込んだ。



 で、考えた。

なぜ、神様は私にその事故を与えてくださったのか。

なぜ、ラッキーなまま帰ることができなかったのか。






 そういえば
私の車と夫の車
どっちで帰ろうかな、と考えた折

「こすると嫌だな、パパので帰ろうっと」

と判断したではないか。



 実家は昔からの村の中にある。
どの道も細くて
安気に運転ができない。

私の車の方が新しいし車幅もわずかだが広い。

もしもってこともあるし、みたいな感じで夫の車で帰ることにしたのだった。


あーん

・・・ごめんね、クオリス
そんな理由であなたを選んでしまって。


これがもし

「パパの車の方が運転しやすいし
 荷物もたくさん乗るし
 狭い道も私の車より走りやすいから

と考えて選んだなら
この事故を引き寄せはしなかったかもしれない。

「こするといやだから」と
「走りやすいから」は
私の中では同じ意味だったのだが
実際の言葉としてのエネルギーも働きも全く違ってしまう。

前者は「こする」という事実を引き寄せ
後者は「走りやすい=無事に済む」という結果になるのだ。

たとえ、ほんの一瞬のことであっても
否定的な言葉ではなく
良い方の言葉で考えなければならないということを痛感する。

ごめん、ごめんね、クオリス
今度から気を付けるね。




 ところでなぜ、私が塀で車をこすったか。

叔母の家の前も車が一台しか通れないような狭い道。
村の中の昔からの道なのだ。
でも、一方通行ではない。


叔母を玄関前のその道でおろした時

「ちょっと待っててね」

と、彼女が庭先に回った。

明らかに私に何かを持たせようとする気配。

おばは、かなりの年で
しかも病後のリハビリ中である。

私は叔母を気遣って
一緒に庭先に回ることにした。

その一瞬、

「車、ここに止めておくとまずいかな?
 前から車が来たら、迷惑よね」

と、思ったのだが
母が乗っていたこともあって

「ま、ほんのちょっとのことだし
 こんな道、だれもこないよね」

と、自分に言い訳し、そのまま、エンジンだけ切って車を離れてしまったのだ。
ところが、庭先に回るや否やクラクションがひとつ鳴った。

「あ、まずい!!」

と、すぐに車の方に戻ったのだが
車にたどり着く前に
クラクションは再び鳴らされた。

「ごめんなさーい」

と頭を下げながら車に飛び乗り
あわててバックし、
叔母の前の家の空き地に左に切って入ろうとしてしまったのだ。

その時
叔母の家の塀はまだ車の横にあった。

あと50センチバックしていれば、
その塀も切れてなくなっていたのだが
あわてていたために塀のあるなしを確かめずに
まだ塀のあるところでハンドルを切ってしまったのだ。


 ここでも
反省しなければならない。

私は車を降りる前にちゃんと

「まずいよ」
「車、来るよ」

という、小さなささやきを聞いているのだ。
にもかかわらず、

「ちょっとの間だから大丈夫だよ」

と、その声を否定し、無視して
そのまま車を離れてしまった。

一瞬のささやき
一瞬の直観
それらに従うことが大事だと常々いろんな本で読んで知っているはずなのに
それができなかったのだ。

もし、あの直観にしたがって
冷静に車をバックし
その空き地に止めてから車を離れていれば
この事故は起きなかったに違いない。

つまりは、小さな内からのささやきを無視した結果なのだ。

みなさま、
一瞬の内なる声
くれぐれも素直にお従いあそばせナ 



 さらに、さらにもうひとつ。
大きく反省しなければならないことがある。

あの時
もしかしたら私は有頂天になっていたのかもしれない。

前日もこの日も
イマジネーションした通りに事が運び
思ったことが全部できていることに気をよくし

「ほら!!できたわ。
 やっぱり、ね。

 私って、すごいじゃん!!」

みたいな、奢りを持ってはいなかったか。

口では

「ほんと、有難いよね。
 特に親孝行に関しては
 神様はよく願いを聞いて下さる。

 おかげさまで、全部できて
 母も喜んでくれています。

 ありがとうございます」

なんて言いながら
心のどこかで

「すごいじゃん!!
 思った通りになる」

と、奢ってしまっていたに違いないのだ。


「物事がうまくいっている時こそ
 陰の力への感謝を忘れず
 謙虚になりなさい」


と、あれほど言われているのに。


「うまくいくのはお前の力ではありませんよ。
 奢り高ぶらないように」

と、お叱りを受けたように思うのだ。



 果たしてどれが
直接の要因かはわからない。
けれど、このいずれもが
常に心しなければならない大切な事であるのは間違いないだろう。




・・・・・ちなみに
この話を夫にしたら
曰く

「単に運転が下手なだけでしょう?!」

だとさ 

鹿島様と夫 その3

2012年11月16日 21時36分23秒 | 波動
 はい、はい、はい
行ってきました、帰ってきました。

夫は無事、鹿島神宮の早朝参拝をさせていただけたようです。
計画通り、6時には鳥居前に立ち、
一時間かけて、ゆっくりと、丁寧にお参りできたようです。


「お天気も素晴らしくてねぇ、
 神宮の森を歩いていると
 早朝散歩の地元の人が
 声をかけてくださったり
 上り始めた朝日に照らされて
 木々が輝いたり
 いやぁ、よかった、よかった」

・・・・・だってサ・・・

「ま、僕には
 神様の声なんて
 全く聞こえなかったけれどね」

・・・そういう人は特別なの、
我々凡人は、自分の思いとして浮かんでくるのよ。
自分の心の声に耳を傾ければよいだけ…


 でもまあ、4人で出張に行き
二人は神社などには全く興味のない人で
もう一人は、行っては見たいけれど仕事の後にしようよ、
などと言っていたとか。
で、結局
仕事は長引き、そんな余裕は全くなかったそうな。

「お母さんの言うとおり
 早朝参拝にしておいて正解だった」

ですとさ。


 何を断ち切っていただいたのか
何を与えていただいたのか
今はさっぱりわからないけれど
まずはおめでとう様、である。


 多くの成功者が実行しているというトイレ掃除。

これを始めてから、
夫は、少しずつではあるが穏やかになっているような気がする。

半年、一年続けられたとすれば彼がどんなふうに変化するのか
とても楽しみである。

鹿島様と夫 その2

2012年11月14日 08時39分55秒 | 波動
「お母さん、鹿島神宮行ってくる」

帰ってきた夫が開口一番そういった。

ふふん、こやつ、少しは成長したな・・・

心の中でにんまりしながら
でも
ちょっと意地悪してやった。


「あら、どうして?!
 無理だ!!って言ったのに」

「だって、お母さんがあんなにいいって言うんだから
 やっぱ、行っといたほうがいいかなと思って」

「ふーん、そりゃそうでしょう。

 鹿島なんて、ここからは遠くて
 そう簡単に行けるところじゃないし
 おまけに、会社のお金で行かせてもらえるんだから
 こんな、ラッキーなことはないもの、
 神様がお招きくださったとしか言いようがないじゃん!!

 鹿島様は“鹿島発ち”といって、
 旅発つ時の開運厄除の神様なのよ。

 あなたの人生の新ステージへの旅たちかもしれないのに、
 いかにゃ、もったいないよ」

「まあね、
 ・・・・・夜でも大丈夫かな?」

「24時間参拝はできるよ。

 でも私が、初めて行ったのはもう日が暮れた後で
 一応、鳥居はくぐったものの
 何だかすごく怖くて、御手洗い場より先には入れなかったけどね。

 威厳のある大きな森でね、
 なんか、いろんなものに見つめられている気がして
 とっても怖かった・・・」

「ふーん、とするとやっぱり朝かね?」

「そりゃそうでしょう、早朝参拝に限るわよ。
 朝は打って変わって、素晴らしく清々しいから・・・。

 日の出前の「気」が一番高いし、 
 日の出前から日の出にかけての「気」が変わる一瞬を体感するのもいいわよ」

「って、じゃあ、何時ごろ?」

「幸い今は日の出が遅いから
 六時ごろに鳥居前にいればいいんじゃないかしら」


…ってな会話をしながら
アイパットの地図で
鹿島神宮を検索し
参拝順序を詳しく説明した。
おまけに
田口ランディの「聖地巡礼」の
「鹿島神宮」まで読ませてしまった。




 はてさて、
神様は本当にお招きくださっているのか。
彼がその気になったのは嬉しいが、
本当に参拝できるかできないかは神様次第。
お許しがなければ
お参りできないこともある。
参拝するつもりで計画を立てていても
何かと不都合が起きるのだ。

本当に参拝させていただけて
4ヶ月のトイレ掃除のご褒美が
人生の鹿島発ちとなれば、いかにもめでたい。
有難いことだ。


 


 ちなみに彼が泊まるのは
三年前に私がチバラギ旅行した折
第一泊、二泊目の車中泊に利用した有料駐車場に隣接するホテルだ。
そして彼が利用することになる温泉大浴場も
私が二夜連続で利用した、そのホテルと廊下続きの温泉である。


 神計らいって本当におもしろい。
帰宅後の彼の報告が楽しみ!!

神様、守護霊様、ありがとうございま~~~~~~~す❤❤❤

鹿島様と夫

2012年11月13日 09時08分29秒 | 波動
 夫が鹿島に出帳になった。

 そう、あの鹿島!!

 旅立ちの神様、鹿島神宮様のおわします地。

私がこのブログを始めたころ、・・・もう三年前?・・・、に参拝をさせていただき
いろいろなものを取捨したところ。
夫との関係にもやもやして
離婚か継続かを迷っていたころに招かれた地。
えっ?、そんな話知らないよ。って興味のある人は2010年3月のこのブログを読んでみてくださいね。美しい写真に出会えますよ)

 私は思わず言った。

「それは素晴らしい!!
 ぜひ、鹿島様にお参りしてらっしゃいな」


と!!
間髪入れず夫は応えた。

「行けるわけないだろう。一人じゃないのだから」


・・・おやおや、相変わらずですねぇ。

試みる前から
「できるわけない」
と応えてしまう。あなたの「できない癖」がまた出ましたね。

そうね、
だからあなたは今の地位。
だからあなたは今の収入。
だからあなたは「どうせおれなんか」
・・・なのよね。

毎日、ことあるごとにそれを話しているのに
いまだにこれだもの…ふぅ~~~~~疲れるねぇ




 人は何かを言われてそれを理解するのに0.2秒
そして、それに応えるのに0.4秒

合計0.6秒の間に次への展開を選んでしまうのだそうだ。

これはあくまでも脳科学上の話。

つまり、0.6秒の間にできるかできないかを選んでしまっているのだ
イエスと応えれば、その瞬間から脳は実現する方法を探し出す。
そしてその脳の波動がいろいろな現実を引き寄せる。
そうして「イエス」と応えたことが現実化される。

 ところが「ノー」と応えればそれまで。
脳は閉ざされてしまう。
そうしてそれは不可能となる。

 だから何かを依頼されたり提示された時には
「はい、やってみます」
と、すぐさま応える習慣を身につけることが大切。
果たして本当にできるか、
どんな手段があるのか、
・・・なんて、その時に考える必要はない。
後から脳が、ひらめきとして、
あるいは共時性としてチャンスを与えてくれるのだから。
大切なのは
ただ
瞬間的に「する!!」と思うことだけ




 夫の場合も
もし
「そうだね、行ってみたいね」
とか
「うん、何とか努力してみるよ」
と応えていれば
きっと何らかの形でその機会は訪れたに違いない。

 が、残念なことに彼はまたしても
「できるはずがない」
と自分でそのチャンスを捨ててしまったのだ。

 鹿島の神様がお呼び下さったのかもしれないのに
今までの何かを断ち切り、
新しい人生への「鹿嶋発ち」」をさせて下さったかもしれないのに。

なんて、もったいないこと・・・


 まあ、あとは
そんな彼でも、
大きな器の神様が
どうにかしてお呼び下さることを願うのみ。
そこまでして下さるかどうかは
彼の行い次第なんだろうけれど。

7月のあのおぞましい事件から4か月
彼は毎朝トイレ掃除を続けている。
その功績を認めてもらえたらいいな…

お参りさせていただければ
少しは彼が成長したということだものね。

結果を楽しみにするといたしましょう。





 さてさて
夫のことはさておいて
自分の運を上げるも下げるも自分次第。
わずか0.6秒の判断でラッキー体質になるか
ついていない人になるか・・・

あなたならどっちをお選びになりますか?

最後を想えば

2012年11月12日 08時57分19秒 | ひとりごと
 ステキな口語自由律句に出会った。


 つまづいて又つまづいて自我捨てていく
                       緒方すみ子(俳誌 新墾より)
この句を目にしたとき別の句を思い出した。
何年か前に中日俳壇に入賞していた作品で、
忘れられない大好きな句

 純心になれよなれよと雪の降る
                       大村 あさ

 きっと、お二人とも年配の方なのだろう。
胸にしみる。そう思う。

 結局、私たちはこの人生を通してどれだけ純真に美しくなれるか、
どれだけ自我を捨てて、人を愛せるか
それを磨いているのだと思う。

 間違えて、戸惑って、愛して、裏切られて
憎んで傷ついて、
それでもなお、許して愛する・・・・・
それを繰り返し、体験し、やがて魂が浄化するのを見つめるのだろう。


 冒頭の句の作者、緒方すみ子氏はさらに読む

 ふりむけば人生くるくる走馬灯

 たとえ、100年生きたとしても
宇宙の時間から見ればそれは一瞬のこと
浦島太郎の地上と竜宮城の時間の違いのようなもの。

今、どんなにつらくとも、それは必ず変化していく。
絶対にそのまま続くということはない。
如何にもならない時はあえてそれに甘んじ、
じっと耐えて待つことも一つの手。
やがて事態は動く。

大切なのはその時に腐らないこと。
不平を想わないこと。
アンネの日記のアンネ・フランクのように幸せ探しをすること。
必ず良い方に動くことを信じてイマジネーションすること。



 緒方氏は最後にこんな句を載せている。

 ありがとうと言えたらいいな 終りのことば