幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

静電気

2011年10月18日 20時38分50秒 | 暮らし
 私が利用させていただいている自然系のお店から
竹布のD.M.が届きました。

竹布の宣伝なので
竹布が優れているということを表記してあるのは当たり前なのですが
それにしても
へぇ~~~~~~と思うことが書かれていたので
皆様にもご紹介しようと思います。



〝 静電気は衣服の脱ぎ着やドアを触る時だけでなく
 寝ている時にも発生しています。
 静電気が起こると交感神経が刺激され、
 寝つきが悪くなったり
 熟睡できなくなります


 アドレナリンの分泌が増え、ビタミンCが余分に使われるので
 疲れやすくなり、抵抗力が下がって風邪をひきやすくなります

 部屋に加湿器を置く、静電気が起きにくい天然繊維の物を選ぶなど
 静電気対策は万全に。”



この文章の後に
いろいろな布を1分間こすって発生する静電気量が表で示してありました。


ポリエステル=3500V

シルク=1700V

綿=1000V

竹布=82V


さらにそれから1時間後に測定すると
他の繊維は半分の数値で静電気が残っていましたが
竹布は30分の一の3Vに変化していたということです。


自分で実験したわけではないので
どこまでが本当かはわかりませんが
ひとつ
実生活で体験していることで納得できたのは
シルクのほうが綿よりも帯電しやすいということです。

化学繊維はほとんど身に着けない私ですが
冬になると
シルクすらもバチバチと静電気を起こす事に気づき
ここ数年は
シルクの下着やTシャツを冬は着ないようにしていました。


天然繊維は静電気が起きないはずなのに・・・
と不思議に思っていたのですが
それがこの表で
すごく納得できました。

全く無知で恥ずかしいです。



 冬はシルク混の綿毛布を敷き
羽根布団に綿のネルのカバーをかけて寝ている我が家ですが
これだと
寝ている間に結構静電気を帯びているということです。


・・・なんだか
竹布の毛布とシーツが欲しくなってしまいます。


あ~あ、
まんまとダイレクトメールの思う壺





ただ、眺める

2011年10月15日 22時06分50秒 | ひとりごと
 夫がまた、癇癪をおこしている。

人間
歳をとると成長する・・・とは限らないようだ。

残念ながら
実父もそうなのだが
年齢を重ねるごとに
いろいろなことに達観するどころか
どんどん
不具合な思考回路を訓練しているように見える。


こんな些細なことになぜ腹を立てるのだろう、と思うことや
笑って済ませられるようなことに
いちいちつまずいて、怒っているような気がする。


 おそらくこれは「癖」なのであろう。

思考回路というのは生まれてから今日までの「訓練」によって形成されるというから
自分が自分の思考を意識して変えることもできるはずなのに
彼らはわざわざ、面白くなくなる方へと
自分を導いているように見えてならないのだ。


しかも
そのきっかけを相手のせいにしている。


本当は自分の制し方次第だということに気づいていない。



かくいう私は
あやうく夫の癇癪につられてしまうところだった。
つられて
売り言葉に買い言葉で喧嘩になりそうだった。


 その時
先日の座禅のときのアドバイスが甦ってきた。


「見詰めてはいけません。
 見詰めると、吸い込まれてしまいます。

 目を閉じてもいけません。
 目を閉じると眠ってしまいます。

 ただ、眺めなさい。
 ああ、こういうことが起きていると
 眺めて、認識だけすればよいのです。

 そうすれば、己の心が波立つことはありません。

 そこへ
 自分の感情を入れるから
 辛くなったり苦しくなったりするのです。


 ただ、眺めればよいのです。

 それが
 無我なのです」




 で、私は今
腹を立てずに
「ああ、また、癇癪を起しているのだな」
と、眺めている。

怒ろうと思えばすぐにもおこれるし、喧嘩にもなる。

しかし
それもばかばかしい。

心を静め
ただ眺めていよう。


癇癪を起してしんどいのはわたしではない。

起こしている本人なのだから。

今朝の秋

2011年10月07日 10時12分55秒 | 暮らし
 胸がせつなくなるほど
秋になってしまった。

 暑い暑い夏。
その夏を存分に味わおうと思いながらも
どこかで
涼しくなって
湿気がなくなり
おしゃれする気分にもなれる秋を
心待ちにしていた。

常日頃
「今今を」
と思いつつも
あまりの暑さに
「今」を軽視してしまう未熟さを感じながら・・・。



 けれど
その秋が訪れると
空の青さや
風の透明さ
ひかりのさやけさなど
あまりにも美しすぎて
もったいなくて、
せつなささえ覚えてしまうのだ。




 私はまだ寿命を考えるほどの歳ではない。
しかし「授命」は老若関係なく定められている。
そして
それがいつなのか誰にも分かりはしない。

ゆえに
この秋に
来年
また会えるとは限らない。

いや
私が生きているとしても
環境が変わってしまうかもしれないではないか。


東北の人々だって
去年の秋に
だれが
今のような状態を想像しただろう。


数年前の秋に訪れた、
磐梯山の美しい容姿が脳裏に浮かぶ。
今日もきっとその姿は秋空に映えて美しかろう。
しかし
その磐梯山はもう
去年までの磐梯山とは違ってしまった。

そう思えば
今朝のこの
悲しいほどまでに美しい秋を
精いっぱい堪能しておかなくては。




 幸い
今日は出かける用事はなく
仕事も家でこなせるものばかり。

家事を済ませ
部屋を整え終わった9時半過ぎ
静かに茶を楽しむことにした。



 欅のくりぬきの丸盆
20年ほど前に骨董屋で手に入れた物。
いい感じに涸れてきている。

湯呑は
黄瀬戸の汲み出し。
土岐の瀬戸物市で手に入れた作家物。
ややこぶりだ。

菓子は
直系10センチほどの朱塗の丸い皿に
五郎丸屋の「月うさぎ」をひとつ載せた。

ご存じない方のために説明させていただくならば
「五郎丸屋」というのは
富山県小矢部市にある
二百数十年も続く菓子司で
そこの代表菓「薄氷」は
うすい真煎餅に和三盆を塗布したもので
茶道の世界では周知の銘菓だ。
「月うさぎ」はその秋バージョンで
丁度
雪うさぎを横から眺めて
ぺったんこにしたような形で
薄い桃色の細い耳がかわいい。

日常で白糖を摂らない生活をしている私にとっては
この菓子をひとついただくだけで
あとあと
胸から胃にかけてやや気持ちが悪くなるのだけれど
それを承知で、なお
口当たりの心地よさと
見た目のかわいらしさとに惹かれて
年にニ、三度
季節ごとのバージョンを楽しみたくなってしまうのだ。


お茶は
たまたま到来物の「加賀の棒番茶」がある。
これを淹れるのには
松江で購入した土瓶をしつらえた。

地肌は温かみのある茶鼠色で
側面に
まるで満月のような大きな円が描かれている。

「月にうさぎ」とは
いかにもできすぎか・・・、と思わないでもないが
もうすぐ名月でもある。

お盆仕立ての中で
一足早い
しかも
昼日中の
月見としゃれこむのも悪くない。



 「月うさぎ」を半分に割って口に入れる。
和三盆のふくよかさがひろがる。
ああ
日本は平和だ。ありがたい。

これを
加賀の棒番茶の独特の香りと味が
いかにもさっぱりとさせてくれる。

お抹茶でいただくのとはまた違った味わいとなる。

 

 萩の花が風で揺れている。

一期一会

この瞬間は二度とは来ない。

男の料理教室

2011年10月06日 21時14分38秒 | 暮らし
 二年ほど前
夫が料理教室に通った。

題して「男の料理教室」

市が広報で募集したもので
月一回の土曜日。


夫はメンバーの中で一番若く
他の人は全員定年退職した人ばかり、だったそうな。

先生は40過ぎの女性。


夫曰く

「みんな先生の言う事なんか全然聞いていないし
 やることも適当で
 めちゃくちゃ・・・

 だめだね、あれじゃ

 まったく
 じいさまは手におえん。
 嫌になっちゃうよ」




って、あなたもそのひとりでしょう?!


だいたい
男も、あなたくらいになると
全くおじタリアンで
人の言うことは聞かないし
自分勝手な事ばかり。

おまけに自分のやり方と合わないと相手を非難したりして・・・

ホント
手におえないわよね。


・・・と、思ったけれど
そこはぐっと、口にするのをこらえた。


 

しかし、その料理教室に通っている間
彼は一度だって
習った料理を作ってくれたことはなかった。


そうして
結局

「みんな勝手すぎて
 おもしろくない」

といって、やめてしまった。




 

 ところが今日
知り合いの男性が料理教室に通い
腕を上げた話を聞いた。

で、わが夫の話をすると
その人曰く

「そりゃあ、あなた!
 そんな、定年男ばかりの教室に通ったって駄目よ!!

 通うなら
初心者向けのフツーの料理教室でなくっちゃ!!!」




 フツーの初級の料理教室には
会社帰りの若い女の子たちが通うのだそうだ。

そこでは
物の扱いから
基本的な知識から
全てが初級でついていきやすい。

そして何よりも
若い女の子たちに囲まれて 
おじさんは鼻の下を長~~~~~くのばし
通うのがとっても楽しみになるのだそうだ。


うーん
なるほどね。


夫に料理を習わせようと思うのなら
まちがっても
「男の料理教室」などに通わせてはいけないということか。


若い女の子たちがいるフツーの料理教室をすすめなくちゃいけないのね。


なっとくです。

逃した魚は大きかった?!

2011年10月04日 10時13分03秒 | ひとりごと
 かなう寸前の夢がひとつポシャッた。

それが「チャンスを逃した」ということなのか
それとも「難を逃れた」ということなのか
今の段階ではわからない。

しかし、夢に関しては
ここであきらめてしまえば「できなかった」ことになるが
実現するまで続ければ「かなった」ことになる。

かの松下幸之助氏も言っているではないか。

「成功とは成功するまで続けることだ」
と。


要はわたしのその「夢」のひとつが
本当に叶えたいものであるかどうかということだ。

もしかしたら
心のどこかで拒否していたのかもしれない。

随分前まではそれがやりたくてやりたくてしようがなかったが
今はちょっと引いている部分があって
心の隅っこで
「いまさら、面倒くさいな」
と思っていたような気もするのだ。

だから
その思いが
情報空間に伝達して
今回の「ご和算」につながってしまったような気がする。


外見上の原因は私ではない。
しかし
本当の原因は「私」ということなのかもしれない。




今回の件が
ご和算になったことを知った姉は

「ま、それで、損失が出たわけでもないし、よかったじゃない。
 こういうことも〝御縁”だから・・・」

と言った。


確かにそうだ。

物事、御縁のある時はとんとん拍子に進むものだ。
ところが
最後の最後に来てダメになってしまったということは
「何か」あるのだろうし
「何か」を示唆されているに違いない。

もしかしたら、その話が進んでいれば
あとで困った事態になったのかもしれないと思えば
これは
私の守護、指導霊さんたちが頑張ってくださったことになるだろう。
そうだとすれば
なんと有難いことか。

しかし
先に述べたように
己の中に「何が何でも」という
がむしゃらさがなかったことや
「本当にこれでよいのだろうか」
と、躊躇したことが原因だとすれば
私は自ら自分の夢を絶ったことになるのだ。

ということは
やりたい、やりたいと言っていながら
本当にそうなりそうになると逃げてしまう
単なる「やりたい症候群」に過ぎないではないか。


・・・それって、なんだか悲しいし、情けない。



話がダメになってがっかりしている。
なんだか
とてもよい物件だった気がするのだ。


その寸前まで
腹をくくり切れない自分がいたのに、である。




やはり
夢は必ず叶うものなのだろう。
自分の思いさえしっかりと強ければ
、だが。