幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

またまた「眺め」ざるを得ない?!

2011年10月23日 13時20分48秒 | ひとりごと
 今朝はいつもより30分早く起きた。

娘が駒ヶ根に預けている馬に会いに行くために
夫に彼の車を使わせてほしいと頼んだからだ。

そのために、夫は電車で会社に行くことになる。
そうすると
30分早く動かねば間に合わないのだ。

娘も夫を送った足で高速に乗ろうと段取りし
預け先のオーナーへの手土産をはじめとして
持っていかねばならないものを
昨夜のうちにを玄関先に出していた。



 ところが時間になっても当の彼女が起きてこない。

そういえば、
2,3日前から私たち母娘は体が異常にだるく
どうも、何かのウィルスに入られてしまっている気配だった。

今日、友人と半年ぶりに出かける予定の私は
昨夜のうちに例の遠隔治療を受けてやや復活していたのだ。

しかし
そのだるさは尋常ではなかったので
もしかしたら・・・と思い
夫に声をかけてくれるように頼んだ(私は朝食の準備で手が離せなかったので…)



「どうだった?」

「うん・・・、と返事しただけ・・・」


・・・???
いったい、どんな声掛けをしたんだろう。


「もしかしたら、熱とか出ていて
 しんどくて起きられないかもしれない。
 二、三日前から調子よくなかったから。
 ・・・ちょっと、見てきてくれる?」

と、頼んだのに、その回答の仕方って変じゃありませんか?

どうせまた、ドアのところから

「おい、時間だぞ」」

とか

「もう、起きろよ」

って声かけただけじゃないんですか?
私は様子を見てきてくれって頼んだのに・・・・・


と思いながらもそれを口にはせず
しばしの時間が流れた。



でも、娘は起きてこなかった。



確かにあの子は朝が苦手だ。
しかし
そのことについて、ついこの間、活を入れたばかりだし
第一
日持ちのしない手土産まで準備しておきながら
起きてこないというのはどう考えてもおかしい。
これは、身体の具合がかなり悪くて
起きるに起きれないとしか考えられなかった。




そこで、自己判断した私は

「パパ、今日は車に乗って行ってくれていいと思うよ。
 たぶん、彼女、身体の調子が悪くて起きられないんだと思うから・・・
 もしかしたら、熱も出ているかもしれないし・・・」

と、言った。


すると彼は、間髪入れずに

「うん、もう、そうするよ!!
 約束を守らないやつの、言う事なんか聞けないからな。

 自分で言い出して、約束しておきながら
 それを守らないなんてサイテーだ!!」

と応えた。


     
 

                 



それって・・・・・
なんか違いません?!

それが、
仮にも
父親の言う言葉、ですか?!

相手は、病気で苦しんでるかもしれないんですよ!!
(実際に、後で私が見に行ったとき、彼女は熱にうなされていた)
あなたが、言っていることは間違いではないだろうけれど
それとこれとは
話が違うのではありませんか?!
こういう時に、
そういうことをいうんですか?!

娘の病気を心配する気持ちや、感情は出ないのですか?!

それって、人としてどうなんですか?!



・・・と、私の中に
怒りと、失望と、やるせなさが噴出した。



が!!

今日もまた
あの言葉が甦る。


〝見詰めてはいけません。
 ただ、眺めなさい”



〝見詰めれば吸い込まれます。
眺めていれば達観して救われます”


そうだ!!
今、この感情に引き込まれては
自分が辛くなるだけ。

自分の夫を
「冷たい」」とか「優しくない」とか思えば
それは、私自身が情けなく、悲しくなるだけのこと。

ああ、この人はそういう人なんだな・・・

と、それだけの思いでとどめ
悲しんだり、寂しくなったり、批判したりするのはやめよう。
腹を立てるのもよそう。

ただ、眺めて、こだわらず、流してしまおう。


・・・そう、自分に言い聞かせた。
そうして
あえて
心を鎮めた。

ゆっくりと鼻から息を吐き
大きく鼻で息を吸う。

その吸った息を
丹田までおろす。

そうした深い呼吸にだけ意識を集中していると
やがて感情は波立ちを消し静かになる。

その静かさの中に己を置くのだ。


おかげで、そのあと、いつものように
彼の影に引きずられることなく
淡々と自分のことをこなせたのだった。


娘に、煎じ薬の処方をし
友達との約束をはたした。

夫に再会するときも
何もなかったかのように接した。


その間、私の心が
怒りや悲しさに振り回されることはなかった。




何かに書いてあったように

「自分を傷つけるのは相手ではない。
 それをどのようにとらえ、
 どのように受け止めたかという
 自分自身の感情なのである。

 この世には
 自分しかないのである」


とは、まさにこのことである。



己さえ、それを見詰め過ぎなければ
けっして、吸い込まれることはなく
すなわち、傷つくこともないのである。

これが、自我を失くすことの一つであり
ただ〝眺める”ということなのかもしれない。


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