いつものように朝のウォーキングでゴミ拾い。
駅に近い方の河川敷には花火のカスやら飲食物の残骸やらが
毎日飽きもせず散らかされている。
この頃では夫も率先してゴミを拾って歩く。
が、彼はたびたび愚痴をこぼす。
愚痴というよりも憤りだろうか。
で、そのたびに私は彼を諭す。
「あのね、淡々と拾いましょうね。淡々と。
そうやって、文句を言ったり、腹を立てたりするのなら
拾わずに、視界に入れずに済ませなさいな。
自分が拾ってやっている、と思うから
捨てた相手に腹がたつのでしょう?
そこには、自分が正義で、捨てた人は悪という高慢な考えが入っていませんか?
あなたが腹を立てるほうが、よほど、よくない波動を散りばめることになるんですよ。
そんな波動を、朝からふりまくくらいなら、
ゴミにかかわらずに、平常心でいる方が世の中の役に立ちますよ。
平常心でいられないならゴミ拾いはしない。
ゴミ拾いをした方が気持ち良いならば、その気持ちよさだけを見つめる。
どちらかにしてくださいね」
私たちは、よく、
何の気なしに
いろいろなことを批判する。
でも、「批判」した瞬間に
自分がふりまいてしまう「よくない波動」を意識している人はどれくらいいるだろうか。
そして、その「よくない波動」が、
全く関係ない誰かに影響を与える、ということに気づいている人がどれだけいるだろうか。
批判の中には憤りがある。
憤りは憤りを呼び
イライラや怒りを呼び起こす。
やがてそれらは大きなうねりとなって世界中にだって影響を及ぼしかねないのだ。
だから気を付けなければならない。
私という、なんの力も持たない普通の個人が
一瞬一瞬をどんな感情で過ごすかに。
何の力も持たない私が
世界にとって少しでもお役にたちたいならば
この瞬間を機嫌よく、平穏に、
愛を放出して過ごすのが一番だということを常に意識していよう。
ゴミは拾ったほうが気持ち良いから拾います。
朝のご挨拶は笑顔でできる限り優しくこちらから。
生まれたてのお日様に感謝して、
歩ける私の身体に感謝して
気持ちよく
幸せに今日を始めることに努めます。
駅に近い方の河川敷には花火のカスやら飲食物の残骸やらが
毎日飽きもせず散らかされている。
この頃では夫も率先してゴミを拾って歩く。
が、彼はたびたび愚痴をこぼす。
愚痴というよりも憤りだろうか。
で、そのたびに私は彼を諭す。
「あのね、淡々と拾いましょうね。淡々と。
そうやって、文句を言ったり、腹を立てたりするのなら
拾わずに、視界に入れずに済ませなさいな。
自分が拾ってやっている、と思うから
捨てた相手に腹がたつのでしょう?
そこには、自分が正義で、捨てた人は悪という高慢な考えが入っていませんか?
あなたが腹を立てるほうが、よほど、よくない波動を散りばめることになるんですよ。
そんな波動を、朝からふりまくくらいなら、
ゴミにかかわらずに、平常心でいる方が世の中の役に立ちますよ。
平常心でいられないならゴミ拾いはしない。
ゴミ拾いをした方が気持ち良いならば、その気持ちよさだけを見つめる。
どちらかにしてくださいね」
私たちは、よく、
何の気なしに
いろいろなことを批判する。
でも、「批判」した瞬間に
自分がふりまいてしまう「よくない波動」を意識している人はどれくらいいるだろうか。
そして、その「よくない波動」が、
全く関係ない誰かに影響を与える、ということに気づいている人がどれだけいるだろうか。
批判の中には憤りがある。
憤りは憤りを呼び
イライラや怒りを呼び起こす。
やがてそれらは大きなうねりとなって世界中にだって影響を及ぼしかねないのだ。
だから気を付けなければならない。
私という、なんの力も持たない普通の個人が
一瞬一瞬をどんな感情で過ごすかに。
何の力も持たない私が
世界にとって少しでもお役にたちたいならば
この瞬間を機嫌よく、平穏に、
愛を放出して過ごすのが一番だということを常に意識していよう。
ゴミは拾ったほうが気持ち良いから拾います。
朝のご挨拶は笑顔でできる限り優しくこちらから。
生まれたてのお日様に感謝して、
歩ける私の身体に感謝して
気持ちよく
幸せに今日を始めることに努めます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます