今年の夏は猛暑でどこへも出掛ける気にもなれずに家でじっとしていました、その関係でblogの更新も出来ずに皆様にはご無沙汰してしまいました。
久し振りに重い腰を上げて25日に丸岡城祉に行って来ました、丸岡城祉の近くは現役の時代には数え切れない程通っていて、天守は遠くから眺めていましたが見学に行くのは今回が初めてです。
”歴史民俗資料館”のある天守東側から天守の二階、三階部分が見えます。
歴史民俗資料館の横の石段を登って天守のある高台に登ります、階段の突き当りの踊り場で石段は180度折れ曲がって上の霞ヶ城公園に登って行きます。
下の民族歴史資料館と共通券の¥300を払って天守の建つ広場につきました。
石垣の上に立つ天守は想像してた以上にどっしりとして、その上に美しさが有ってしばらくその場で眺めていました。
天守の構造は二重(二層)、三階の望楼形の建物で、大きな入母屋の屋根をもつ一階の建物を土台にして、その梁の上に二階、三階の望楼部の建物を載せた構造で通し柱が無い構造になっています、外見からは一階の屋根と三階の屋根の二重(二層)に見えますが内部は三階建てになっています、一階の入母屋と三階の入母屋の棟の向きは東西の方角になっています、屋根には土を焼いた瓦ではなく、凝灰岩の笏谷石(しゃくだにいし)を加工した石瓦約6.000枚(約100t)で葺かれていて,全国的にも稀であります。
丸岡城の創建は天正4(1576)年と云われていますので、現存する天守の中では最古の天守と云われています。
丸岡城から大凡4㎞の山間部に、大宝2(702)年に泰澄大師(たいちょうたいし)が創建した霊峰白山信仰の霊場であった豊原寺跡が有ります、天治元年(1124)年には500余坊の坊舎が立ち並び、最盛期には豊原三千坊と呼ばれて繁栄していました、源平合戦の時には木曽義仲に、戦国時代には朝倉氏に従いました、一向一揆の際にはその拠点となった為に、天正3(1575)年に織田信長軍によって焼き払われてしまいました、織田信長はこの時の恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄(現福井市)に築城を命じました、勝家は甥(一節には養子)の勝豊を豊原に派遣し、廃墟となった豊原の整備と砦の再構築を行い、翌天正4(1576)年に城を豊原から丸岡(現在の場所)に移して、平山城を築いたのが丸岡城の始まりとされています。
天守近くに柴田家の紋どころ”まるに二つ雁金”の初代城主の柴田勝豊の陣を模した撮影場所が有りました。
天守の内部を見学する前に色々な方角から眺めてみることにしました、北東の角から天守を見上げたところです、東側には跳ね上げ式の武者窓が見えます、また北側には出窓のように外に飛び出しているのは”石落とし”で格子の間から弓を射たり、床の板を外して石垣を登ってくる敵に石を落とすためのものです、その他正方形の小さな鉄砲狭間(てっぽうざま)がいくつか見えます。
南側から見ると堅固な石垣の上に天守の土台となる一層部分が見えます、一層部分の入母屋の横から見ている所になります、二階は一層部分屋根裏を使用していることになりますが、一層の屋根と三階との間に二階の破風部屋の屋根が見えます、石垣は”野面摘み(のづらづみ)”で自然石を加工しないでそのまま積み上げたものです、石と石との隙間には小さな石をかませて強度を上げています、この摘み方は戦国時代より以前に用いられた古い工法です。
西側駐車場から天守を望みますが、木々の茂みで上層部だけは見えますが全体像が見えません。
西側駐車場から天守に登る石段横に”国宝 霞ヶ城”の石柱が立っています、丸岡城は霞ヶ城とも呼ばれています、(訳は後ほど)、昭和9年に国宝に指定されていますが、昭和23年の福井大震災により倒壊しました。
昭和25年の重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再現されました、修復に際しては元来使用されていた建材を極力使用して再現しているそうです。
西側の登城道と石積み。
天守の出入り口に通じる石段です、この天守は出入り口が一か所のみです。
天守の最上階の屋根にはかつて木製銅張りの鯱鉾が載せられていました、昭和17年の改修時に当時は戦争中で銅板の入手が困難なため、屋根瓦と同じ笏谷石製に代わりました、ところが昭和23年の福井震災で倒壊した時に屋根の上から落ちて破損してしまいました、その時の笏谷石製の鯱鉾が展示されていました。
現在は昭和30年の修復再現時に以前の木製銅張の物に変えられています。
一階内部の様子です、鴨居や敷居がなく一つの空間になっています、大きな柱が並んでいて特に創建当時の釿(ちょうな)削りの太い柱で梁を支え、梁は上層部を支えている土台になっています。
一階に昔の丸岡城のパノラマ模型が展示されていました、中央の城山を堀が囲んで、その外側に城下町が整然と並んでいる様子が分かりました。
丸岡城の沿革説明によりますと、明治維新になって不要になった城や堀を明治5(1872)年に民間に払い下げになって、城郭の石垣、建物そして堀などは競売に付されてなくなりました、天守も廉価で落札され、四名の個人に分けて転売されました。
明治34(1901)年に四名が天守を丸岡町へ寄付したことで、長く保存される糸口になったのです、そして昭和9(1934)年に念願かなって国宝の指定を受けたようです。
出窓状に外に張り出した”石落とし”です、格子の間から弓矢を放ったり、床の板を外して石を落とす構造になっています。
一階の柱や梁の木組みです、太い柱は40㎝を超える様な柱や梁の強固な木組みには驚きました、良く見ると梁が木組みで継がれているのが分かります、福井地震で倒壊後に修復再現した時に継いだものでしょうか?。
一階から二階に登る階段です、急な階段には摑まるためのロープが垂らされていました。
二階は一階に比べて柱も少なく屋根裏部屋の感じがしました。
三階へ登る階段は傾斜がきつく(67度と云われています)、一段の間隔も大きく大変登りずらかった、階段と云うよりハシゴのようでした
三階の部屋の広さは二階と同じくらいですが四方に窓が付いていて二階に比べて明るい空間でした、天井がないために屋根の木組みが良く見えました。
太い梁が四方に走っていて強固な構造になっていることが分かりました、
三階には回縁(かいえん)が付いていますが、床の位置より高く造られていて、三階床から回縁には出にくくなっています、回縁の床も人が乗るほど強固ではないようです、この回縁は天守の外観を飾るためのもののようです。
屋根の石瓦です、創建当時の石瓦は福井市の足羽山(あすわやま)から産出した笏谷石(しゃくだにいし)で葺かれていましたが、笏谷石は火山凝灰岩の一種で加工が割りとし易いので使われていましたが、近年では足羽山から産出さなくなったので、同じ凝灰岩の石川県産を使っているようです、緑色の瓦は後から補修した石川県産の凝灰岩で加工したもののようです。
三階の窓から東西南北を見た景色です、この天守は海抜17mの自然の丘の上に高さ6mの石垣の上に建てられています、三階の床の高さは下から32mの高さになりますが、城下の様子や展開する敵味方の状況をよく把握でき、作戦を練る上で好都合であったようです。
三階から二階に下りる時に階段を上から写しました、かなり急角度です、しっかりローップにつかまって降りました、小さなお子さんを連れたご家族が来ていましたが、1人のお子さんが外の景色を見ないで、怖がって早く下りようって鳴き叫んでいました、高所恐怖症でしょうかね?。
天守を出て周りを散策してきました、日本一短い手紙で有名な
一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ の石碑が立っていました、この手紙を書いた本多作左衛門重次は三河の人で、家康に仕えた譜代の武将です、陣中から妻にあてた手紙ですが、文中の”お仙”は後の六代目丸岡城主になった本多成重(幼名を仙千代)のことです。
この手紙をヒントに丸岡では、平成5年から”日本一短い手紙、一筆啓上賞”
の手紙のコンクールが始まり、たいへんなブームになっています。
天守の建つ敷地の一角に”お静慰霊碑”立っています、丸岡城築城の際の伝説として伝わっていますが、石垣が何度も崩れて城が建てられなかった、そこで人柱を入れることになり、片目の女お静が息子を武士に取り立てるという約束で人柱に成りました、初代城主の勝豊は長浜城へ移り、お静の願いは叶えられなかった、その後堀の藻刈りをする卯月の頃になると、長雨が降り人々を困らせたといわれ、この雨を「お静の霊、お静の涙雨」と呼び、お静の霊を慰めるために祠を建てたと云われています、現在はその横にお静供養塔も建てられています。
牛ヶ島石棺(うしがしま せっかん)
霞ヶ城公園の一角に保存展示されています、丸岡町の牛ヶ島地区の東側にある御野山古墳から出土したと伝えられています、福井県内では最古の(4世紀代)の舟形石棺(割竹形石棺)です、材質は凝灰岩で前後左右には縄掛け突起が有ります。
雲の井井戸
場内で一か所の井戸です、天正3(1575)年、織田信長軍によって越前の一向一揆の最後の拠点となった豊原の寺院や砦が焼き払われて一向一揆が平定されました、その翌年に柴田勝家の甥の勝豊が丸岡城を築城しましたが、一向一揆の残党が丸岡城に攻撃を仕掛けてくることが度々ありました、そのたびにこの井戸から大蛇が現れて口から霞を吹き出して城をすっぽり隠してしまいました、そのために幾度か危機を脱することができました、そんな言い伝えから丸岡城を ”霞ヶ城” と呼ぶようになったと伝えられています、今でも春先に霞ですっぽりと隠れる丸岡城を見ることが出来るそうです。
城の周りを散策してから、再び天守を見あげて城を後にしました、天守は権力の象徴として建てたと思われますが、その容姿は実に美しいと感じました。
丸岡城は天正三年に柴田勝豊によって築かれて初代城主になりましたが、天正10(1582)年に長浜城に移りました、そのあとに安井家清、青山宗勝、青山忠元、今村盛次を経て慶長17(1612)年に本多成重(四万石)に変わりました。
成重は大阪夏の陣で松平忠直の先陣として真田軍を打ち破る功績を上げました。
そして、寛永元(1624)年に初代丸岡藩主となりました、その後本多家は四代続き、元禄8(1695)年に越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末まで有馬家は八代(約176年)続きました。
初代柴田勝豊から17代続いた丸岡城も明治維新を迎えて時代の移り変わりで城郭や建物、堀などが失われ、天守閣と丘陵を残すのみとなりました、城下町、丸岡の歴史を知る上には貴重な天守閣を国の宝として長く保存してほしいと思います。
長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございます。
この記事を書くにあたり、「丸岡城とその周辺ガイドブック」や「丸岡城のパンフレット」などを参考にさせていただきました。
久し振りに重い腰を上げて25日に丸岡城祉に行って来ました、丸岡城祉の近くは現役の時代には数え切れない程通っていて、天守は遠くから眺めていましたが見学に行くのは今回が初めてです。
”歴史民俗資料館”のある天守東側から天守の二階、三階部分が見えます。
歴史民俗資料館の横の石段を登って天守のある高台に登ります、階段の突き当りの踊り場で石段は180度折れ曲がって上の霞ヶ城公園に登って行きます。
下の民族歴史資料館と共通券の¥300を払って天守の建つ広場につきました。
石垣の上に立つ天守は想像してた以上にどっしりとして、その上に美しさが有ってしばらくその場で眺めていました。
天守の構造は二重(二層)、三階の望楼形の建物で、大きな入母屋の屋根をもつ一階の建物を土台にして、その梁の上に二階、三階の望楼部の建物を載せた構造で通し柱が無い構造になっています、外見からは一階の屋根と三階の屋根の二重(二層)に見えますが内部は三階建てになっています、一階の入母屋と三階の入母屋の棟の向きは東西の方角になっています、屋根には土を焼いた瓦ではなく、凝灰岩の笏谷石(しゃくだにいし)を加工した石瓦約6.000枚(約100t)で葺かれていて,全国的にも稀であります。
丸岡城の創建は天正4(1576)年と云われていますので、現存する天守の中では最古の天守と云われています。
丸岡城から大凡4㎞の山間部に、大宝2(702)年に泰澄大師(たいちょうたいし)が創建した霊峰白山信仰の霊場であった豊原寺跡が有ります、天治元年(1124)年には500余坊の坊舎が立ち並び、最盛期には豊原三千坊と呼ばれて繁栄していました、源平合戦の時には木曽義仲に、戦国時代には朝倉氏に従いました、一向一揆の際にはその拠点となった為に、天正3(1575)年に織田信長軍によって焼き払われてしまいました、織田信長はこの時の恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄(現福井市)に築城を命じました、勝家は甥(一節には養子)の勝豊を豊原に派遣し、廃墟となった豊原の整備と砦の再構築を行い、翌天正4(1576)年に城を豊原から丸岡(現在の場所)に移して、平山城を築いたのが丸岡城の始まりとされています。
天守近くに柴田家の紋どころ”まるに二つ雁金”の初代城主の柴田勝豊の陣を模した撮影場所が有りました。
天守の内部を見学する前に色々な方角から眺めてみることにしました、北東の角から天守を見上げたところです、東側には跳ね上げ式の武者窓が見えます、また北側には出窓のように外に飛び出しているのは”石落とし”で格子の間から弓を射たり、床の板を外して石垣を登ってくる敵に石を落とすためのものです、その他正方形の小さな鉄砲狭間(てっぽうざま)がいくつか見えます。
南側から見ると堅固な石垣の上に天守の土台となる一層部分が見えます、一層部分の入母屋の横から見ている所になります、二階は一層部分屋根裏を使用していることになりますが、一層の屋根と三階との間に二階の破風部屋の屋根が見えます、石垣は”野面摘み(のづらづみ)”で自然石を加工しないでそのまま積み上げたものです、石と石との隙間には小さな石をかませて強度を上げています、この摘み方は戦国時代より以前に用いられた古い工法です。
西側駐車場から天守を望みますが、木々の茂みで上層部だけは見えますが全体像が見えません。
西側駐車場から天守に登る石段横に”国宝 霞ヶ城”の石柱が立っています、丸岡城は霞ヶ城とも呼ばれています、(訳は後ほど)、昭和9年に国宝に指定されていますが、昭和23年の福井大震災により倒壊しました。
昭和25年の重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再現されました、修復に際しては元来使用されていた建材を極力使用して再現しているそうです。
西側の登城道と石積み。
天守の出入り口に通じる石段です、この天守は出入り口が一か所のみです。
天守の最上階の屋根にはかつて木製銅張りの鯱鉾が載せられていました、昭和17年の改修時に当時は戦争中で銅板の入手が困難なため、屋根瓦と同じ笏谷石製に代わりました、ところが昭和23年の福井震災で倒壊した時に屋根の上から落ちて破損してしまいました、その時の笏谷石製の鯱鉾が展示されていました。
現在は昭和30年の修復再現時に以前の木製銅張の物に変えられています。
一階内部の様子です、鴨居や敷居がなく一つの空間になっています、大きな柱が並んでいて特に創建当時の釿(ちょうな)削りの太い柱で梁を支え、梁は上層部を支えている土台になっています。
一階に昔の丸岡城のパノラマ模型が展示されていました、中央の城山を堀が囲んで、その外側に城下町が整然と並んでいる様子が分かりました。
丸岡城の沿革説明によりますと、明治維新になって不要になった城や堀を明治5(1872)年に民間に払い下げになって、城郭の石垣、建物そして堀などは競売に付されてなくなりました、天守も廉価で落札され、四名の個人に分けて転売されました。
明治34(1901)年に四名が天守を丸岡町へ寄付したことで、長く保存される糸口になったのです、そして昭和9(1934)年に念願かなって国宝の指定を受けたようです。
出窓状に外に張り出した”石落とし”です、格子の間から弓矢を放ったり、床の板を外して石を落とす構造になっています。
一階の柱や梁の木組みです、太い柱は40㎝を超える様な柱や梁の強固な木組みには驚きました、良く見ると梁が木組みで継がれているのが分かります、福井地震で倒壊後に修復再現した時に継いだものでしょうか?。
一階から二階に登る階段です、急な階段には摑まるためのロープが垂らされていました。
二階は一階に比べて柱も少なく屋根裏部屋の感じがしました。
三階へ登る階段は傾斜がきつく(67度と云われています)、一段の間隔も大きく大変登りずらかった、階段と云うよりハシゴのようでした
三階の部屋の広さは二階と同じくらいですが四方に窓が付いていて二階に比べて明るい空間でした、天井がないために屋根の木組みが良く見えました。
太い梁が四方に走っていて強固な構造になっていることが分かりました、
三階には回縁(かいえん)が付いていますが、床の位置より高く造られていて、三階床から回縁には出にくくなっています、回縁の床も人が乗るほど強固ではないようです、この回縁は天守の外観を飾るためのもののようです。
屋根の石瓦です、創建当時の石瓦は福井市の足羽山(あすわやま)から産出した笏谷石(しゃくだにいし)で葺かれていましたが、笏谷石は火山凝灰岩の一種で加工が割りとし易いので使われていましたが、近年では足羽山から産出さなくなったので、同じ凝灰岩の石川県産を使っているようです、緑色の瓦は後から補修した石川県産の凝灰岩で加工したもののようです。
三階の窓から東西南北を見た景色です、この天守は海抜17mの自然の丘の上に高さ6mの石垣の上に建てられています、三階の床の高さは下から32mの高さになりますが、城下の様子や展開する敵味方の状況をよく把握でき、作戦を練る上で好都合であったようです。
三階から二階に下りる時に階段を上から写しました、かなり急角度です、しっかりローップにつかまって降りました、小さなお子さんを連れたご家族が来ていましたが、1人のお子さんが外の景色を見ないで、怖がって早く下りようって鳴き叫んでいました、高所恐怖症でしょうかね?。
天守を出て周りを散策してきました、日本一短い手紙で有名な
一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ の石碑が立っていました、この手紙を書いた本多作左衛門重次は三河の人で、家康に仕えた譜代の武将です、陣中から妻にあてた手紙ですが、文中の”お仙”は後の六代目丸岡城主になった本多成重(幼名を仙千代)のことです。
この手紙をヒントに丸岡では、平成5年から”日本一短い手紙、一筆啓上賞”
の手紙のコンクールが始まり、たいへんなブームになっています。
天守の建つ敷地の一角に”お静慰霊碑”立っています、丸岡城築城の際の伝説として伝わっていますが、石垣が何度も崩れて城が建てられなかった、そこで人柱を入れることになり、片目の女お静が息子を武士に取り立てるという約束で人柱に成りました、初代城主の勝豊は長浜城へ移り、お静の願いは叶えられなかった、その後堀の藻刈りをする卯月の頃になると、長雨が降り人々を困らせたといわれ、この雨を「お静の霊、お静の涙雨」と呼び、お静の霊を慰めるために祠を建てたと云われています、現在はその横にお静供養塔も建てられています。
牛ヶ島石棺(うしがしま せっかん)
霞ヶ城公園の一角に保存展示されています、丸岡町の牛ヶ島地区の東側にある御野山古墳から出土したと伝えられています、福井県内では最古の(4世紀代)の舟形石棺(割竹形石棺)です、材質は凝灰岩で前後左右には縄掛け突起が有ります。
雲の井井戸
場内で一か所の井戸です、天正3(1575)年、織田信長軍によって越前の一向一揆の最後の拠点となった豊原の寺院や砦が焼き払われて一向一揆が平定されました、その翌年に柴田勝家の甥の勝豊が丸岡城を築城しましたが、一向一揆の残党が丸岡城に攻撃を仕掛けてくることが度々ありました、そのたびにこの井戸から大蛇が現れて口から霞を吹き出して城をすっぽり隠してしまいました、そのために幾度か危機を脱することができました、そんな言い伝えから丸岡城を ”霞ヶ城” と呼ぶようになったと伝えられています、今でも春先に霞ですっぽりと隠れる丸岡城を見ることが出来るそうです。
城の周りを散策してから、再び天守を見あげて城を後にしました、天守は権力の象徴として建てたと思われますが、その容姿は実に美しいと感じました。
丸岡城は天正三年に柴田勝豊によって築かれて初代城主になりましたが、天正10(1582)年に長浜城に移りました、そのあとに安井家清、青山宗勝、青山忠元、今村盛次を経て慶長17(1612)年に本多成重(四万石)に変わりました。
成重は大阪夏の陣で松平忠直の先陣として真田軍を打ち破る功績を上げました。
そして、寛永元(1624)年に初代丸岡藩主となりました、その後本多家は四代続き、元禄8(1695)年に越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末まで有馬家は八代(約176年)続きました。
初代柴田勝豊から17代続いた丸岡城も明治維新を迎えて時代の移り変わりで城郭や建物、堀などが失われ、天守閣と丘陵を残すのみとなりました、城下町、丸岡の歴史を知る上には貴重な天守閣を国の宝として長く保存してほしいと思います。
長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございます。
この記事を書くにあたり、「丸岡城とその周辺ガイドブック」や「丸岡城のパンフレット」などを参考にさせていただきました。
歴史は嫌いな方ではないのでパンフレットやら現地で買ってきた観光ガイドを読みました、時間はたっぷりあるんので、読んでいると興味が湧いてきて面白くなります。
丸岡は、昔の事になりますが、九頭竜川沿いに美濃白鳥や郡上八幡に行くときに通りました、幸村さんの車には六問銭のマークが有りましたね(笑)
和泉村の九頭竜川で拾った石が今でもありますよ。
上田も今は大河ドラマブームで賑やかでしょう、毎週楽しみに見ています。
goさんの画像と説明を観ながら、ふつふつと当時に観たのが蘇りました。天守の崩壊した残骸の写真が三階に展示されていて、驚いてみたのを覚えています。
福井地震は僕の生まれる前の出来事で、福井市や大聖寺に甚大な被害をもたらしたとは聞いていました。子供のころから城の天守の写真が好きで、家に天守の12か月のカレンダーにも丸岡城の天守が説明書と共に載っていて、丸岡城が現存天守の最古だと覚えていて、長じて丸岡城に行ってその写真を観た時には非常にショックを覚えたのを記憶しています。
いつでもなんて思わずにまた行って観たいお城ですねえ。
おはようございまし、そうでしたか、お仕事の関係で丸岡の近くを通ったり何回か天守を見学されておられるようですね。
私は遠目には何回か見ているのですが、実際に訪れたのは今回か初めてです、全国に現存する天守の中には鉄筋コンクリート造りのものもある中で、丸岡の天守は福井地震で崩壊した後も出来るだけ既存の建材で忠実に再現されているのに感心しました、屋根瓦も笏谷石で葺かれているのは初めて知って驚きました、また何回か行ってみたい場所です。
コメントを頂き、有難うございます。