「王将」の唄に出てくる通天閣は現在のものではないが、当時の通天閣は、写真に残っている。阪田三吉は将棋指しの代名詞のようだが、今は将棋指しというより棋士というイメージの方が合う。
子どもの頃に「将棋指しは親の死に目にも会えない」「博打打ち」の印象もあって、子どもの頃には、私も親に盤駒を捨てられたこともあった。
実際、私が奨励会の頃の棋士は、ある意味で豪傑ぞろいだった。対局が終わって深夜になっても、酒盛りや将棋を指して夜を明かすことも多かった。気概があった半面、自己破滅型が多かったのかもしれない。それでも私には魅力的な世界だった。損得や要領を考えないで、根っからの将棋好き、そんな将棋指しばかりだった。昔がよかったとか、今が面白くないというのでなくて、時代の流れもあるだろう。今は将棋もスポーツ化しているのかもしれない。スマートで合理的な考えが主流のようで、ビジネスライクで捉えないといけない時代なのだろう。
人間性がどうとかこうとかよりも、将棋を純粋に技術で勝負する時代でもある。
人の生き様は様々だ。いつの時代でも、人の暮らしや考え方がそんなに変わるものではない。世の中が進歩し続けているというのは、ひとつの錯覚ととらえる要素もあるのではと思う。
遅れて歩く、そんな思いになることがある。時間を止めて、損得や合理性の反対の方向に走り出したくなる心境、ああ、やっぱり私はへそ曲がりで一生を終えそうな実感がする。
通天閣を見上げながら、これからどうするのか、腕を組んでじっと見入る。
冴えんなあ・・・
子どもの頃に「将棋指しは親の死に目にも会えない」「博打打ち」の印象もあって、子どもの頃には、私も親に盤駒を捨てられたこともあった。
実際、私が奨励会の頃の棋士は、ある意味で豪傑ぞろいだった。対局が終わって深夜になっても、酒盛りや将棋を指して夜を明かすことも多かった。気概があった半面、自己破滅型が多かったのかもしれない。それでも私には魅力的な世界だった。損得や要領を考えないで、根っからの将棋好き、そんな将棋指しばかりだった。昔がよかったとか、今が面白くないというのでなくて、時代の流れもあるだろう。今は将棋もスポーツ化しているのかもしれない。スマートで合理的な考えが主流のようで、ビジネスライクで捉えないといけない時代なのだろう。
人間性がどうとかこうとかよりも、将棋を純粋に技術で勝負する時代でもある。
人の生き様は様々だ。いつの時代でも、人の暮らしや考え方がそんなに変わるものではない。世の中が進歩し続けているというのは、ひとつの錯覚ととらえる要素もあるのではと思う。
遅れて歩く、そんな思いになることがある。時間を止めて、損得や合理性の反対の方向に走り出したくなる心境、ああ、やっぱり私はへそ曲がりで一生を終えそうな実感がする。
通天閣を見上げながら、これからどうするのか、腕を組んでじっと見入る。
冴えんなあ・・・