執筆にあたり、筆者の考えと当時の「自分」の考えを区別することを思い立つ。
そこで、筆者は「自分」を探検する「時の旅人」となる。旅人が「自分」の活動と心的風景を描写する方法だ。その旅において、幼少の頃からの様々な、契機、経験、選択があって自己が形成されていくことを改めて知る。それぞれ新たな「自己発見」も含まれる。
しかし、それ以上に、その「繋がり」あるいは「変化」の中に、自らの人生を丸ごと再発見できたと感じとる。
但し、このアプローチは<記憶>が純粋の記憶なのか?との問いを伴う。
筆者が自分を対象化した時、それは観察者から見た自分にデフォルメされたのではないか?従って記憶は純粋な当時の自分と異なるものを含んだものではないか?
これはプルーストが『スワン家の方へ』で表現した有名な挿話、「紅茶に浸したマドレーヌ」から現れる過去の問題かもしれない。