散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

E・H・エリクソンと「アイデンティティ」~成長から“成熟”への軌跡(2)

2014年05月17日 | 永井陽之助
日本においてはコーポレートアイデンティティという言葉にまで広まっているが、一般的に流布された「アイデンティティ」という言葉は、エゴアイデンティティ(自我同一性)を指しており、60年代後半の大学紛争の時代において、青年期の心理的危機が改めて注目され、提唱者のエリック・エリクソンと共に知られるようになった。
 『成長から“成熟”への軌跡(1)~永井陽之助の現代政治社会論140513』

しかし、大学紛争そのものは暴力行使に対する批判、警察の対応の進化、そして何よりも「卒業―就職」に対する学生側の危機感の生成、と共に急速に収束へ向かった。70年初頭の「よど号・ハイジャック事件」は、新左翼過激派集団が大学紛争から別れ、暴力革命運動に本格的に移行し、社会へ「露出」を始めた象徴的事件であった。

これと共に、「アイデンティティ」という言葉も行き先を失い、青年期のエゴアイデンティティに限らず、様々な使い方がされ、専門用語に基盤を置きながら、日常用語化への道を歩むことになった。一方、エリクソンは自らの年齢と共に関心を老年期の問題へと移していくことになり、「アイデンティティ」は人生全般にも使われるよいになり、「ライフサイクル」も一般化するようになった。

なお、「ライフサイクル」について、「責任と洞察」(誠信書房1971)を翻訳した鑪幹八郎は、「人間生涯」と訳したが、一般化はされず、カタカナ表記になった。しかし、その意味について、上記の「あとがき」で次の様に述べている。

「サイクルという用語はエリクソンにおいては、慎重に選択されている。
「周期」という日本語の持つ反復的循環の意味とは異なる。人生という時の経過に応じ、我々は次々と性質の違った課題を解決していかなければならないことを記述したもので、時の流れに従って、同じものが繰り返しおとずれるという意味では無い。「人生の展望」といった方が近い」。

この説明は当たっており、段階ごとに人間は成熟していくとの哲学的意味を含んでいるはずだ。しかし、一般化に伴ってサイクルは周波数からくるイメージが強くなり、世代ごとに「幼年―青年―壮年―老年」が繰り返されると受け取られ、本来、秘められていた意図が希薄になっているのは残念なことだ。

その成熟につい永井は「人生は連続した一本の糸ではない」(「柔構造社会と暴力」P45(中央公論社))との表現を用いている。逆に言えば、成長とは、一本の糸の様に直線的に伸びる姿をイメージできる。即ち、右肩上がりになった経済成長のグラフの示す様子だ。

続いて、永井は「生活周期の各段階(幼時―青春期―成年期―老年期)に応じた、それぞれの“結び目”や“”をもった非連続の連続である」と述べる。おそらく、後年の“成熟時間”との発想はここに源がある様に思える。