Gikuri

ギクリのブログ。たまに自意識過剰。

婿殿

2020-10-03 | どうでもいい知識
東洋史専攻でしたが日本史の記事。
たまに日本の特に古代史に興味が湧いて
Wikipedia眺めてたりしてるのですが、
先帝から血筋の離れた天皇が即位する場合に
先帝の系統の女性と結婚しているケースが
いくつか見られるのが気になりました。
タイトル婿殿ですが必ずしも入婿ではないです。
(専門じゃないので以下は通説に従います)

有名なのは古墳時代の継体天皇ですね。
先代の武烈天皇の系統に男子がいなくなり
(雄略天皇が皇位継承のライバル達を殺して
男系が減ったから…)越前から迎えられた
ものの、記紀を信用するにしても応神天皇の
5世孫であり武烈天皇の血筋からは遠いです。
継体天皇にはすでに妻子がいましたが、即位に
当たり武烈天皇の妹の手白香皇女を皇后として
います。一説によれば抵抗勢力がいてなかなか
大和に入れなかったと言われていますが、
先代からすると遠戚の継体天皇が正当な後継者で
あると世に知らしめるためには、先代の系統の
女性の婿となることが必要だったのでしょう。
最終的には手白香皇女との子の欽明天皇と
その子孫が皇位を継承しています。

実は武烈天皇の父の仁賢天皇とその弟の
顕宗天皇も、先代の清寧天皇とはとこ関係で
傍系に当たります。兄弟は清寧天皇の父の
雄略天皇に父が殺され逃げ隠れていたのを後に
発見され、子のない清寧天皇の後継者とされたと
記録されています。先に即位した顕宗天皇は
雄略天皇(あるいはその父の允恭天皇)の子孫と
される難波小野女王を、次に即位した仁賢天皇は
雄略天皇の娘の春日大娘皇女を皇后としています。
逃亡していたのであれば最初から後継者として
見なされていたわけではないと思われますので、
先代清寧天皇に近い血筋の女性を妻とすることで
自らを清寧天皇の正当な後継者であるという
ことを主張しようとしたとも考えられます。

奈良時代の光仁天皇も先代の称徳天皇からは
血筋が離れています。天智天皇崩御後に起きた
壬申の乱以降、皇位が天武天皇とその男系子孫
またはその妻により継承されることになりましたが
(妻=持統天皇と元明天皇=天智天皇の娘ですし、
女系を見れば天智天皇の娘と天武天皇との子孫が
継いでいますが)天武系の子孫は長屋王の変など
政争と粛清が相次ぎ、称徳天皇の頃には男系の
継承者がほとんどいなくなってしまいました。
光仁天皇は天智系(天智天皇の孫)ですが、
天武系の聖武天皇の娘(称徳天皇の異母姉妹)
の井上内親王を娶って他戸親王が生まれており、
他戸親王が後継者となれば天武系も女系で継がれる
ため、それが決め手で称徳天皇崩御後に天皇に
選ばれたようです。結局井上内親王と他戸親王は
陰謀で死に追いやられたので、天武系の血統が
その後に継がれることはありませんでした。

血筋が離れているといえば室町時代、称光天皇に
子がなかったため父親同士がはとこ関係という
後花園天皇が即位しましたが、この際は先代系統の
女性との結婚を伴っておらず、称光天皇の父の
後小松上皇の猶子となる形で即位しています。
そもそも室町時代の女性皇族ってだいたい寺に
入っててあまり結婚してないような。

江戸時代、後桃園天皇とその次の光格天皇も、
後桃園天皇の父の桃園天皇と光格天皇がはとこと
いうことで遠い血筋から皇位を継いでいます。
後桃園天皇の後継を決める際、後桃園天皇の
一人娘の欣子内親王が成長したら娶るという
条件が考えられており、既婚の皇族はそれで候補
から外れたそうです。光格天皇と欣子内親王は
後に結婚しますが、生まれた子は幼くして亡くなり
後桃園天皇の血統は途絶えています。

政権交代頃から皇位継承の議論に関する記事を
ちらほらネットで見かけるようになりましたが、
旧宮家に生まれた男系の男性が皇室に復帰する
ことにより男系継承を維持する方策を採る場合、
旧宮家と現在の皇室との共通の男系祖先を辿ると
遠く室町時代まで遡るということですので、
以上の先例に従えば現在の皇室のどなたかの
女性の婿として復帰することになるのでしょうか。
現代の皇室は政治を執ることはありませんが、
縁戚関係を結ばず皇室の仲間入りをするよりも
婿入りする形の方が国民感情として受け入れられ
やすいと時の政権に判断されれば、あるいは
先例に従うこともあるのかもしれません。
コメント    この記事についてブログを書く
« Linuxだと国勢調査オンライン... | トップ | 新旧J-POP比較 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

どうでもいい知識」カテゴリの最新記事