澤田瞳子「若冲」を読んでいたところ、MIHO美術館でこの展覧会をやっていることが分かったので、出かけてきました。
伊藤若冲と与謝蕪村は300年前の同じ年に生まれ、住所もある時期は京都市内のかなり近所に住んでいました。
MIHO MUSEUMは滋賀県甲賀市信楽町の、山の奥深くに位置しています。細い山道を登っていくのですがこんな山の中に本当に美術館があるのだろうかと心配になります。
宗教団体が所有する美術館で、中近東や東洋美術のコレクションに優れています。
本館とは離れた受付・レストラン棟で入場券を買って、そこから徒歩あるいは電気自動車に乗せてもらって向かいます。今回は雨が降っていたので、電気カートにしました。20人くらいの細長いカートです。
連絡道路の両側には枝垂れ桜の並木が続き、その先にトンネルがあります。
青い光が差し込んできます。
斜張橋を渡るとその先が本館です。
建物自体が美術品です。
特別展の会場に向かいます。
オーディオガイドを借りて、ゆっくりと鑑賞していきました。
桂南光が、辻惟雄MIHO館長とトークする「解説」「感想合戦」も録音されていました。(南光は学校で美術部の部長だったそうです)
蕪村は俳人としてはそれなりに知っていましたが、こんなに多くの絵画を描いていいたことを今回知ることができました。
当時、文化先進国であった中国の絵画を勉強して、彼の地への憧れが独特の筆致で表現されています。
(公式パンフレット)
若冲の絵画は、あの小説を読んだばかりなので興味深く鑑賞することができました。
特に「野菜涅槃図」がおもしろい。二股大根が中央に横たわり入滅し、その周辺には70種類もの野菜たちが嘆き悲しんでいます。(阿弥陀入来の来迎が描かれていないようですが・・・)
この展示会での解説文によれば、若冲と蕪村は同年にもかかわらず、直接的な交流を示す相互の手紙や関連文書に、今までのところ、全く交流した証拠が発見されていないとのことです。蕪村は門弟も多く、俳句の宗匠として活躍したのですが、若冲は趣味に生きる偏屈者だったからでしょうか。
伊藤若冲と与謝蕪村は300年前の同じ年に生まれ、住所もある時期は京都市内のかなり近所に住んでいました。
MIHO MUSEUMは滋賀県甲賀市信楽町の、山の奥深くに位置しています。細い山道を登っていくのですがこんな山の中に本当に美術館があるのだろうかと心配になります。
宗教団体が所有する美術館で、中近東や東洋美術のコレクションに優れています。
本館とは離れた受付・レストラン棟で入場券を買って、そこから徒歩あるいは電気自動車に乗せてもらって向かいます。今回は雨が降っていたので、電気カートにしました。20人くらいの細長いカートです。
連絡道路の両側には枝垂れ桜の並木が続き、その先にトンネルがあります。
青い光が差し込んできます。
斜張橋を渡るとその先が本館です。
建物自体が美術品です。
特別展の会場に向かいます。
オーディオガイドを借りて、ゆっくりと鑑賞していきました。
桂南光が、辻惟雄MIHO館長とトークする「解説」「感想合戦」も録音されていました。(南光は学校で美術部の部長だったそうです)
蕪村は俳人としてはそれなりに知っていましたが、こんなに多くの絵画を描いていいたことを今回知ることができました。
当時、文化先進国であった中国の絵画を勉強して、彼の地への憧れが独特の筆致で表現されています。
(公式パンフレット)
若冲の絵画は、あの小説を読んだばかりなので興味深く鑑賞することができました。
特に「野菜涅槃図」がおもしろい。二股大根が中央に横たわり入滅し、その周辺には70種類もの野菜たちが嘆き悲しんでいます。(阿弥陀入来の来迎が描かれていないようですが・・・)
この展示会での解説文によれば、若冲と蕪村は同年にもかかわらず、直接的な交流を示す相互の手紙や関連文書に、今までのところ、全く交流した証拠が発見されていないとのことです。蕪村は門弟も多く、俳句の宗匠として活躍したのですが、若冲は趣味に生きる偏屈者だったからでしょうか。