朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

秋の祭り2

2011-10-27 | 京都の文化(秋)
京都時代祭2011の続報です。



豊公参朝列。

牛車が来ました。檳榔毛唐庇車(びんろうげひさしくるま)。

ほとんど、人の力で引いていますが、それでも後ろには交代用の牛が一頭従っていました。現代では牛も、過保護なのか、御所から平安神宮までの距離も歩くのが辛いのでしょう。葵祭にて、かつて牛車を引く牛が疲労のため行進中に倒れてしまったことがあったようです。



千成瓢箪の馬印は、豊臣秀吉公のシンボル。



室町洛中風俗列。

室町時代後半(16世紀)に経済的に繁栄した京の町衆によって催された風流踊りを再現しています。この踊りは全国各地に伝承されて江戸時代以降の盆踊りの原型となりました。

室町時代の大事件、「応仁の乱」はこの繁栄の前段になります。
室町時代、応仁元年(1467年)に発生し11年間にわたって継続した武力衝突で京都の町がほとんど焼けてしまったといわれています。

京都では「前の戦争」というと「応仁の乱」のことだそうです。

8代将軍足利義政の継嗣争いによって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争いほぼ全国に拡大しその結果、乱の影響で幕府や守護大名が衰退し戦国時代に突入していく原因になりました。



小袖姿で竹製のささらを持って踊る「側(がわ)踊り」で、男性が女装してして踊る「風流踊り」ご庶民の間の広がっりまいた。

京都時代祭2011 風流踊り 室町時代



応仁の乱でほぼ全焼した京都の復興は、現代の公共事業の大盤振る舞いがあって好景気につながったのかと想像しました。が、”義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。”(wikipedia)とあるので、政府(幕府)の投資ではなくて、町民の経済力がひっぱたようです。つまり、民活。

(つづく)

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