石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137文京区の石碑-32-護国寺の石碑(2)

2019-08-11 08:28:33 | 石碑

護国寺の石碑続編。

◇報国六烈士碑

太子堂前の石造物群の途中で、前回は終わった。

石碑でない石仏の身代わり地蔵や一言地蔵はパス。

 

その隣の「陰陽道先師留魂碑」は、日本陰陽会(現日本疫学連合会)が、昭和10年(1935)、建てた業界先人の慰霊碑。

本堂がある境内へ。

鐘楼と本堂の間、右側に4基の石碑が並んでいる。

3基は、とにかく大きい。

一番手前は、梔園小出翁碑。

歌人だそうだが、私はまったく知らない。

次に、「報国六烈士碑」。

日露戦争でロシア軍背後の交通、通信網破壊の命を帯びた6兵士の慰霊顕彰碑。

この碑は、明治41年に建てられたが、その後、同様な碑が各地に建立されているらしい。

その隣は、「棋聖宗員の碑」。

将棋の十一世名人、八代目伊藤宗員の顕彰碑。

左端の小碑は、「討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査」とあり、西南戦争戦死者の慰霊碑。 明治13年(1880)に建立されたもの。

私は、昭和13年生まれだが、明治13年の出来事は、歴史的事件と受け止めている。

ということは、令和生まれの人たちにとって、昭和の出来事もまた、歴史的な出来事で、身近に感ずることはないんだろうな。

この4基の石碑の背後、つまり本堂に向かって右側と本堂裏側は墓域で、明治の立役者の

 墓が並んでいる。

           山形有朋

 

           田中光顕

          大隈重信

       松平不昧公

         三條実美

先ほども述懐したが、私にとっては教科書でみた人物ばかりです。

本堂裏にひときわ高い宝篋印塔があるが、これは「秩父三十四所総開帳供養塔」。

秩父札所の各寺が財政困難でひっ迫すると江戸での開帳を行った。

その開帳の場所は、護国寺と決まっていて、その恩恵を謝とする記念塔。

「秩父三十四所総開帳供養塔」の近くにある「西国三十三所写」は、もともとここにあったもの。

かつて本堂裏は今のように整備されておらず、山野のままだった。

その地形を利用して、西国観音札所の写しがあった、その入口石標。

本堂左側に移動する。

薬師堂前の植栽の中にあるのが、「象供養塔」。

建立主は、象牙組合というから、納得。

乱獲を助長して、今更「供養」しても始まらないとは思うけれど。

薬師堂と忠霊堂の狭い道を行くと出会うのが、巨大な庚申塔。

三猿が台座を支え合う斬新なデザインで、国の有形文化財に指定されている。

今回は、石碑がテーマなので、庚申塔にこれ以上深入りしないが、境内には、このほか3基の庚申塔がある。

巨大庚申塔の背後は、廃棄物集積場のようだが、その中にポツンと忘れられたかのように佇むのは「忠魂塚記念碑」。

日清戦争で故国のために戦い戦死した兵士の遺骨を収集、その霊を悼む記念碑。

石碑建立の前は、ここに小墳があったが「爾来三十有余年人之を知る者甚だ稀なるに至れり」供花を供える者など皆無になったことを憂いて、この「忠魂塚記念碑」が建てられたのは、大正15年(1927)だった。

それから90年近く、いまや廃棄物とさほど変わらない扱いのまま、存立している。

と、この「忠魂塚記念碑」の状態に拘るのは、この奥には旧日本陸軍墓地があって、日清、日露、満州事変、各戦争の戦死者合葬墓と慰霊碑がきちんと整備されているからです。

墓地中央正面にあるのは「音羽陸軍埋葬の地英霊の塔」。

英霊の塔由来碑もあるので、碑文を転載しておく。

 この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています。本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。毎年十一月には、その遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。    平成七年十一月十一日              財団法人 日本郷友連盟東京都支部 

 個人墓も約30基ほどある。

大砲の弾を墓石にしたものもあって、いかにも陸軍墓地らしい。

墓地の一隅にある多宝塔は日清戦争戦死者の慰霊塔。