東京には坂が多い。
ユニークな坂名もあって、「暗闇坂」などはその最たるもの。
残念なのは、いくつか「暗闇坂」があることで、ここは、京急鮫洲駅前の旧仙台坂の「暗闇坂」。
更に事態を複雑にしているのは、仙台坂は二つあり、しかも新旧があるという念の入れよう。
この旧仙台坂の暗闇坂の左に、芭蕉句碑がある泊船寺がある。
◇臨済宗・泊船寺(品川区東大井4)
山門脇に品川教委による区指定文化財の説明板が2基。
寺宝の芭蕉と服部嵐雪、宝井其角の座像を説明してある。
本堂左の大きな自然石の句碑が芭蕉のそれ。
「いかめしき 音やあられの 檜笠」
天保14年(1843)の造立。
碑裏には「芭蕉百五拾回忌建之」と刻され、協賛百余人の俳人名が並んでいる。
境内には、句碑が数基あるが、もう1基あるはずの芭蕉句碑が見当たらない。
そんなに広くもない境内を探し回るが発見できず、庫裡の呼び鈴を押す。
なんと庫裡の玄関わきの「芭蕉像安置」碑が、探す句碑だった。
裏面に句があるので、見つけられないのも無理はない。
「旅人と 我名よばれん 初しぐれ」
解説書によれば、貞享4年(1687)10月11日、『笈の小文』の旅に出る芭蕉の選別会の席上詠まれた句。
碑面の「芭蕉像安置」は、芭蕉百回忌の寛政5年(1793)、泊船寺に芭蕉堂を建て、その堂内に、深川芭蕉庵の柳で刻んだ芭蕉像を安置したことを記念するもの。
芭蕉像には「いつかまた 此木も朽ちん 秋の風」が添えられていたという。
「芭蕉像安置」碑の反対側には、芭蕉賞賛碑がある。
「はせをの前に芭蕉なく
芭蕉の後にはせをなし
芭蕉大なるかなはせをの葉」
◇区立児童公園(大田区多摩川2)
住宅地のど真ん中、滑り台やブランコがある児童公園の片隅にフエンスに囲われた一画があり、2基の石碑がある。
大きい石碑は、明治天皇御製歌碑。
芭蕉の句碑は、その右にややこじんまりと佇んでいる。
「梅香に のっと日の出る 山路かな」
行って見はしなかったが、ここから多摩川までは、3-400m。
なんでこの句がここに?と思う。
その疑問に答えるプレートがあった。
その昔、ここらあたりは梅林として有名で、花見客が押し寄せたのだという。
広さ2000坪、300本の梅の木が咲き競いあっていたらしい。
それにしても、芭蕉句碑に似合わない雰囲気だ。
とりあえず、ま、ここに置いておくか、というような投げやりな感じが漂っている。
民間企業の工場敷地に立っていたものを、ここに移転したのだとか。
廃棄されずにこうして保存されていることはうれしいのだが・・・
◇真言宗・真福寺(世田谷区用賀4)
山門の朱色が鮮やか。
地元では「赤門寺」と呼ばれているのだとか。
開基者は、用賀村の開拓者飯田図書。
永禄年間と推定されている。
芭蕉句碑は、六地蔵の左隣にある。
「みちの辺の 槿(むくげ)は馬に 喰はれけり」
傍らに説明板がある。
芭蕉句碑
江戸時代後期、用賀村大山道沿いで手広く醤油業を営んでいた商人
鈴木六之助(俳号天由)が建立した句碑
道の辺の木槿は馬に喰われけり
松尾芭蕉が貞享元年(1684)秋、
野ざらし紀行の旅に出て、大井川近くで
詠んだ句。 恭靖
帰途、山門前の長い参道と駅に向かう道との角に「杯状穴」を発見。
「盃状穴」については「凹み穴」と云ったり「椀状凹み」と云ったりして、このブログのNO44,45.55,56,58でも扱っている。ご覧ください。
◇日蓮宗・蓮華寺(中野区江古田1)
中野駅から延びる中野通りが、新青梅街道にぶつかる所に、蓮華寺の石段がある。
日蓮宗寺院にしては、石造物が多い。
芭蕉句碑は、本堂に向かって左の植え込みの中にある。
松の木を挟んで、右に「芭蕉翁」の小碑。
左に1,5mの自然石に句が刻み込まれている。
「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」
私が両親の故郷佐渡へ疎開したのは、昭和20年(1945)3月。
そのまま島の小学校へ入学した。
物資不足で、一クラスに2,3足割り当てのゴム長は、いつも抽選だった。
雨天時の農作業には、蓑を着用した。
蓑を実用した、最後の世代ではなかろうか。
「小蓑」からこんなことが、頭をよぎる。
芭蕉句碑の左、石柵と鉄扉に囲われて、井桁の上の球形は、哲学者井上円了の墓。
蓮華寺の斜め前の哲学堂公園は、東洋大学の創始者井上円了が哲学者養成のために、開設したもの。
◇真言宗・南蔵院(練馬区中村1)
延文2年(1357)中興というから660年の寺歴を有する都内でも古い寺の一つ。
参道を進むと長屋門があり、
その先の鐘楼門は、練馬区の指定文化財。
芭蕉句碑は、その鐘楼門の右手、薬師堂の前の石造物群に交じってある。
「魚鳥の 心は知らず 年の暮」
解説書からの引用。
『方丈記』に「魚は水に飽かず、いをにあらざればその心を知らず。とりは林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず」とあるに拠った句。
魚や鳥ではないから、魚や鳥の楽しみは分からないが、自分は閑居自在の生活に悠々と年忘れの会を楽しんでいる。他人にはこの楽しみはわかるまいの意。
境内の石造物は、どこか外部から持ち込まれたものも多い。
道標などはその最たるもので、「左にはぞうしがや 高田道」、「右に長命寺 福蔵院」とある。
その長命寺が、次の目的地。
◇真言宗・長命寺(練馬区高野台3)
私が石仏巡りを始めたのは、9年前。
若杉慧氏の著作にインスパイアーされ、本に載っている石仏を見て回ったのが、きっかけだった。
若杉氏は練馬区に居住していて、取り上げる石仏は、練馬区や板橋区のものが多かった。
長命寺の石仏を知ったのも、若杉氏の文章だった。
おそらく石仏巡りとして、一番最初に訪れた寺ではなかろうか。
「東の高野山」というのだそうだ。
境内は石仏であふれている。
一つの寺で、こんなに石仏が多い寺は、そんなになさそうに思える。
多いだけでなく、珍しい石仏も多い。
十三仏
芭蕉句碑は、「本堂(不動堂)の左前にある。
普通あまり石造物が立つ場所ではないから、一等地と云えるかもしれない。
「父母の しきりにこひし 雉子の聲」
貞享5年(1688)3月、高野山で詠んだ句。
解説書によれば、『枇杷園随筆』に
「御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに佇みて、此処はおほくの人のかたみの集まれるところにして、わが先祖の遺髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつれと」
と、その時の感慨を述べているのだそうだ。
「雉子の聲」は、行基菩薩の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を踏まえたもの、というから、「なるほど。そうなんだ。へえー」とひたすら関心するばかり。
芭蕉にとって23年ぶりの高野山詣でだった。
芭蕉を俳諧の世界に誘った主君藤堂蝉吟の位牌を納めに高野山に来たことがあった。
当時は、俳諧師になりたい野望はあるものの、芭蕉は、伊賀上野の、俳諧好きの無名な若者にすぎなかった。
それが、23年後、押しも押されぬ宗匠としての参詣。
芭蕉には感慨深いものがあったに違いない。
これで「東京の芭蕉句碑巡り」を終える。
正確には「東京23区の芭蕉句碑」とすべきだった。
多摩地区にも約20基を超える芭蕉句碑があるのだが、最近、車の運転に自信がなくなり、多摩地区の句碑巡りはあきらめざるを得なかった。
所在地を資料から転載しておく。
◇ひょろひょろとなお露けしやをみなへし
(国分寺市西恋ケ窪1-27 熊野神社)
◇象潟や雨に西施がねむの花
(調布市深大寺元町5-15 深大寺延命観音)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
(日野市百草560 百草園)
◇春もややけしきととのふ月と梅
(同上)
◇名月にふもとの霧や田のくもり
(日野市高幡733 高幡不動尊)
◇蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
(八王子市新町5 永福稲荷)
◇西行の草履もかかれ松の露
(八王子市寺町72 長心寺)
◇先祝へ梅を心の冬こもり
(八王子市北野町550-1 北野天満宮)
◇ひばりより上にやすらふとおけかな
(八王子市裏高尾町957 浅川老人ホーム清明園)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
(八王子市下恩方町246 三叉路ロータリー)
◇先たのむ椎の木もあり夏木立
(八王子市鑓水80 永泉寺)
◇旅人と我が名呼ばれん初しぐれ
(町田市成瀬5038路傍)
◇此のあたり目に見ゆるものは皆涼し
(稲城市大丸233 但馬稲荷)
◇名月に麓のきりや田のくもり
(稲城市東長沼2117 常楽寺)
◇暫くは花の上なる月夜かな
(羽村市川崎2-8 宗禅寺)
◇春もややけしきととのふ月と梅
(福生市福生1081 福生神明社)
◇玉川の水におぼれそをみなへし
(青梅市滝ノ上町1316 常保寺)
◇梅か香にのっと日の出る山路かな
(青梅市天ケ瀬1032 金剛寺)
◇行春に和歌の浦にて追付たり
(青梅市本町220 金刀比羅神社)
◇梅が香にのっと日の出る山路哉
(青梅市梅郷 吉野街道路傍)
◇やまなかや菊は手折らじ湯の匂ひ
(奥多摩町原5 奥多摩水と緑のふれあい館敷地内)