石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-19(谷中7丁目のイ)

2016-11-01 06:54:05 | 寺町

谷中寺町も、最後の7丁目に。

谷中7丁目の大半は、谷中墓地。

 寺は、功徳林寺、了俒寺、安立院、天王寺の4か寺を数えるのみ。

 

68 浄土宗功徳林寺(谷中7-6-9)

モダンな本堂の脇に山門から参道が真っ直ぐ伸びている。

その先に赤い鳥居があって、そこが笠森稲荷。

全てが「新しく」、「直線的」で、夾雑物はない。

石造物もない。

正確に言うと本堂付近にはなくて、稲荷神社前に、狐が2匹いるのみ。

浄土宗寺院の功徳林寺について書くべきことは皆無で、話題はもっぱら笠森稲荷になるのだが、これが紆余曲折、複雑怪奇な話で、気軽に手を付けられない。(*もう一つの笠森稲荷については、谷中寺町6、NO20大円寺をご覧ください)

順を追って話を整理しよう。

 (1)谷中が寺町になる前から地元にあった感應寺(現・天王寺)は、谷中墓地の大半を含む広い寺域を有していた。

(2)その感應寺門前に、八代吉宗公に従って江戸に来た倉地甚四郎なる武士が、紀州から笠森稲荷を勧請した。その笠森稲荷と別当の福泉院の所在地が、現在の功徳林寺の寺地。

(3)明治初年の廃仏稀釈で福泉院は廃寺。笠森稲荷は、寛永寺の子院養寿院に移った。

(4)明治時代半ば、空地だった福泉院跡地に現在の功徳林寺が創建され、メモリアル遺構として笠森稲荷が再建された。いわば、これは、ダミーの笠森稲荷ということになります。

笠森稲荷をこれだけ詳述して、江戸きっての美女「笠森お仙」に触れないわけにはいかないだろう。

お仙は、笠森稲荷地内にあった水茶屋の女。

水茶屋には、文字通りの、冷や水一杯を出す休憩所と売春宿の両義があるが、お仙は、前者の茶屋娘。

明和(1764-1772)の初めころ、茶屋に出たお仙は13歳だった。

スッピンの百姓娘は、しかしながら、あっというまに江戸市中にその美貌を知られることになり、一目見たさに弥次馬が店に押し寄せた。

「天性の麗質、地上の上品、琢(みが)かずして潔、容(かたちづくら)ずして美」と表現したのは、大田南畝。

その美しさは、鈴木春信の筆によって余すところなく描かれている。

笠森お仙は、昭和のスター山口百恵に似ていると私は思う。

共通点は、出処進退の潔さ。

お仙は19歳になった明和7年(1770)、突然、店から姿を消した。

腕っこきのかわら版屋が探し回ったが、行き先は燿と知れなかった。

が、実際には、言い寄る男たちを袖にして、さっさと結婚していた。

お相手は、笠森稲荷を紀州から勧請した倉地家の跡取り息子だったというから、まるで小説の筋書きみたい。

若い時にスターとなると、その引け時が難しい。

更に難しいのは、引退後、その動静が世に知られないこと。

お仙と百恵はその点、完璧な身の処しようだったといっていい。

お仙の墓は、中野・上高田の正見寺にある。

このブログの、「東京の寺町シリーズ(3)、NO48中野区上高田」で正見寺のお仙の墓についても触れているが、遺族の意向で非公開だと書いている。

世の中と遮断するという姿勢が、死後の世界まで徹底されていることに、清々しい感動を禁じ得ない。

功徳林寺の前を右へ、長安寺前をもう一度右折して民家が途切れた所にあるのが、

69 天台宗随龍山了俒(ごん)寺(谷中7-17-2)

 山門前の石塔に大きく「天台宗」とあるが、寛永元年(1624)創建時は、日蓮宗だった。

創立した日安尼の五輪塔墓塔が本堂右前の墓域にある。

本寺の感應寺(現・天王寺)とともに日蓮宗の不受布施派に属していたが、元禄11年(1698)の不受布施禁令により、時の住職妙用比丘尼は島流しとなり、同時に天台宗への改宗を余儀なくされた。

歴代住職の没年一覧の妙用比丘尼の行には、「法難により配流」と刻まれている。(出所は、森まゆみ『谷中スケッチブック』だが、探しても見当たらなかった)

 

 了俒寺を出て、谷中墓地へと入って行く。

交番にぶつかったら左折、ここが墓地の中央通り。

右に五重塔跡を見てゆくと「安立院」の標識があり、小路の先に山門が見える。

 70 曹洞宗長燿山安立院(谷中7-10-4)

隣の天王寺(旧感應寺)の子院だったというのだが、日蓮宗でもなく、天台宗でもなく、曹洞宗なのは、なぜなのだろうか。

本堂に向かって左手に石仏群。

まず、六地蔵。

仏名が、それぞれ明示してある。

境内左隅の石仏、右端は聖観音立像。

ただし、これは石像ではなく、銅像。

昭和56年(1981)、浅草の住人が、秩父、坂東、西国、百観音霊場巡拝達成記念に造立したもの。

きりっと佇立する宝篋印塔。

その左隣の地蔵立像の台石には「戦死病没 震水火災横死 有縁無縁法界萬霊」の文字が読み取れる。

その地蔵供養塔の左には、小型の地蔵が10体並んでいる。

うち3体には番号があって、例えば下の地蔵だと、右側に「八萬四千躰之内」、左に「第五千八百五十八番」と刻してある。

これは、谷中墓地を挟んで南側の「浄名院」の八萬四千体地蔵の一つ。

浄名院の八万四千体地蔵については、このブログNO8「八萬四千体地蔵」をご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=feb66aaf533d9d82f5cd67bfede1bbe4&p=8&disp=30

木の茂みに隠れて見えにくいが、2基の石造物がある。

細長い石塔には「印度佛蹟巡拝墳土供養」とある。

珍しい。はじめて見た。

もう1基は、上部に「南無/将軍/地蔵/尊」と右から2字ずつ縦に刻んである。

その下に線彫の将軍地蔵がおわすのだが、線が薄くてはっきりとは見えない。

希少品なのに、線彫りの宿命、見にくくて、残念。

 

次回が、「谷中寺町シリーズ」の最終回。更新は、11月6日です。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html