石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

100 石仏のある風景

2015-04-01 05:47:58 | 石仏めぐり

ブログ「石仏散歩」、やっと100回になった。

月2回の更新だから、丸4年経ったことになる。

石仏巡りそのものはブログ開始前からやっていたが、それも古希前後からのことで、通算、7年ほどか。

年々、足腰が弱くなってきている。

最近では、1万3000歩を超えると膝通がひどくて歩けなくなってしまう。

石仏巡りの場所も限定的にならざるを得ない。

もっと若いころ、せめて60代から石仏巡りを始めていたならなあと、つい一人ごつていたりする。

 

最近、こんなことがあった。

春の彼岸、供花でカラフルな寺の墓地を歩いていて、ふと足が止まった。

ある家の墓域に大振りな立像石仏が4体。

                      正受院(北区)

右端の阿弥陀如来の足元に視線が走る。

猿が3匹うずくまっている。

近寄って、刻字に庚申の二文字を確認する。

阿弥陀如来を主尊とする庚申塔は珍しいが、それ以上に珍しいのは、場所が個人の墓域であること。

本来、庚申塔は村や集落の辻々に立てられていた。

それが開発で行き場を失い、寺の門前や境内に移された。

しかし、寺の墓地に移されることは、まず、ない。

庚申塔は墓標ではないからです。

更に、集団的な講により造立された庚申塔が、個人の墓域にあるというのも不可解です。

 

何を言いたいかと云うと、7年間で、私自身、随分変化したということを言いたいのです。

7年前だったら、これが阿弥陀如来であることを判らなかった。

地蔵と観音の区別すらできなかった。

庚申塔など、見たことも聞いたこともなかった。

石仏について全くの無知でした。

上述の体験を珍しいことと受け止めることなどありえなかったのです。

4年にわたる100回のブログは、石仏に無知な70歳の男が見聞と知識を少しずつ広げてゆくプロセスの記録だったことになります。

今回は、ある時、ある場所での「石仏のある風景」アラカルト。

私の「思い出のアルバム」であり、成長記録でもあります。

 

私の石仏開眼は、佐渡八十八ケ所めぐりがきっかけでした。

ガン再発を懸念しながら、故郷佐渡をもっと知りたいと念じ、選んだのが佐渡遍路。

選択は正解でした。

知らなかった佐渡に数えきれないほど出会い、故郷の人と自然を満喫しました。

同時に佐渡札所巡りは、知らなかった石仏との出会いの場でもありました。

佐渡は地蔵の島と云われます。

              梨の木地蔵(佐渡市豊田)

いたるところにお地蔵さんがおわします。

賽の河原であの世の安寧を願い、代かき地蔵に農作業の手伝いを頼み、目洗い地蔵で眼病を治す・・・あの世でも、この世でも、あらゆるものに姿を変えて、あらゆる願いを叶えてあげる(これを「能化」というのだとは後で知りましたが)、お地蔵さんは、まるでスーパーマンみたいだなと思ったものです。

 

帰宅して、東京の石仏も見てみたいな思いました。

初めて手にしたのが、佐久間阿佐緒『東京の石仏』。

今になって思えば、これが恐ろしく偏った本だった。

石仏墓標を、可愛いとか美しいとかでしか評価しない。

とりあげる石仏も観音さまだけ。

それも如意輪観音ばかり。

 

     円福寺(板橋区西台)   

お地蔵さんや阿弥陀さんなど目もくれないのです。

たとえば、こんな感じ。

ちょっと長いが引用する。

「この造仏は、仏像とか美人画とかいう既成の概念にまったくとらわれず、いま、目の前にいるかわいらしい少女の姿、表情に、彫る者自身が、身も心も完全にのめりこんで、美しさを含むその若やかでなよよかな少女のにおいに、惑溺し尽くした果てのように思えてならない。
浮世絵美人画の嗜好は石仏にも伝播しないはずはないのだが、浮世絵の妖奇な幻想味ではなく、石仏においては、童子童女のかれんで、しかも未熟な美しさに美の極限を求めるものであり、それは維新の動乱を迎える前の、退廃的な、しかしそれなりに洗練されたふるえるような時代感覚だったのである」

佐久間氏には『江戸石仏散歩』なる著作もあるが、内容はまったく同じ。

石仏初心者の私が、佐久間式に「刷り込まれ」たとしてもおかしくはないでしょう。

もともと、野の仏の風情に惹かれて、大抵の人は石仏の世界に入ります。

石仏の像容が問題であって、民俗学や歴史学の視点など初めから持ちうるはずもありません。

だから佐久間式石仏鑑賞は、初心者の私に恰好なお手本でした。

佐久間氏の影響は、このブログの「NO3蝶観音」、「NO19アイーン観音」、「NO39My石仏ミス板橋」に色濃く反映されています。

とりわけ「My石仏ミス板橋」は、日本石仏協会の古参理事であるK氏に、その手法を厳しく戒められたことで、印象深い作品です。

「39 My石仏ミス板橋」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d5c117a3e324a4662fc41af6a5d11be6&p=3&disp=30

 

修那羅山に行ったのは、5年前の夏。

念願を果たして満足はしたが、もう一度行って見たいと思い続けている。

期待違わずヘンテコな場所で、そのヘンテコさは満喫したものの、見落としたヘンテコさもかなりあるように思えてならない。

どんな具合にヘンテコなのか。

こんな風にです。

      修那羅山早宮神社(長野県筑北村)

神像でもなく、仏像でもない。

場所柄何かの祈願石像らしいのだが、ヘンテコリンで分からない。

今回は一か所一枚の写真で、と進めてきたが、ここだけはそうは行きそうにない。

一例をもって他を類推することが不可能なほど、ヘンテコさは個別的で独特。

こうしたヘンテコなのが山を埋め尽くしているーそれが修那羅山なのです。

 修那羅山と云い続けてきたが、正確には修那羅山安宮神社。

安宮神社は、姥捨山の南、7キロの地点にある。

 開山者は、修那羅大天武という修験行者。

 

寛政7年(1795)生まれで、没年は明治5年(1872)、78歳でした。

折しもこの年、明治政府は神仏分離令を発布、修験道を禁止した。

山麓の人々の崇敬を一身に集めた大天武の死は、同時にシャーマンが活躍できた時代の終焉でもあったのです。

       修那羅大天武

神社に残る「修那羅大天武一代記」によれば、

大天武は、子供の頃すでに「聡明顯悟にして他の群童と異なり」村人は彼を神童と呼んだ。

「岩窟を観れば猿のごとくよじ登り、終日結跏趺坐して経文を唱えていた」から、村人は「役行者の再来か天狗の子孫ならんか」と驚嘆した。

「衣は寒中と雖も単衣、木の実、草の葉を食す木食の行を修し、野に臥し、山に寝ぬるを常として」各地で修行を重ね、再び、故郷へ帰ってくる。

これを聞きつけた里人たちは、「崖上で結跏趺坐する大天武に参詣し、加持祈祷を請ふ者多く、殊に其霊験の著しきより、人呼びて大天狗と称せるに至る」。

彼の行法は仙人法と呼ばれ、神道の祝詞、仏教の経文と山岳修験の呪文を混ぜ合わせたもの。

人々の願いは、多種多様。

大天武はそのすべてを受け入れ、祈祷した。

その霊験著しく、ムカデの怨霊を払い、足なえを立たせ、雨を降らせ、虫歯も眼病も治した、と伝えられている。

人々の願いの多様性は、境内に群立する石造物に現れている。

ネコは養蚕の大敵、ネズミ除けの神。

狼は秩父三峯権現のお使いで、猪や鹿の害を防ぐと信じられた。

子供を咥える、これは狐だろうか。

文字が読めない。

情けない。

金銭の神も在す。

借金の催促を遅らせて、と頼む「催促金神」があれば、「ツキ当神」なるギャンブルの神もある。

 

最も多いのは、治病の神様。

「明王薬師」、「眼大楽大神」は眼病。

「頭神」、「腹神」は頭痛と腹痛の神だろう。

「痰護明神」は喘息だろうが、「足八幡」は何か、膝関節痛に効きそうだ。

「五臓大日如来」に五臓六腑の健全なることを祈り、「一粒万倍神」の薬効があれば、すべてこれ息災。

 

 

修那羅山の神々の使命は、民衆の現世利益に応えること。

教義の正当性や論理性などくそ食らえ。

密教の主尊大日如来もここでは形無しです。

「イワシの頭も信心から」、「信ずる者は救われる」。

願いかなって、寄進された奇態な石像約230点、それにほぼ同数の文字碑、文字塔が神社を取り巻いています。

明治5年の修験道禁止令発令に呼応するかのように、大天武は死んだと先述したが、実は、修那羅山の石造物建立の最盛期は明治30年代でした。

中央政府の御威光は、ここ信州の山奥までは届かなかったのか、民衆のふてぶてしさがそれを無視したのか、いずれにせよ、信州には80を超える修那羅講が健在で、大勢が参拝するとともにこのヘンテコな民間信仰のメッカを支えてきたのでした。

「ヘンテコな」と書き始めて、修那羅山石仏をさらっと紹介するつもりだったが、長くて重くなった。

書き換えたいのだが、面倒なのでこのままにしておく。

 

東のヘンテコな石像が修那羅山石造物群とするなら、西のヘンテコリンは羅漢寺(加西市)の羅漢群か。

 両者の共通点は「へたうま」。

「ぶすかわ(ぶすだがかわいい)」があるのだから「へたおも(へただがおもろい)」とした方がいいかもしれない。

広くない境内に、びっしりと細長い石仏が立ち並んでいる。

                羅漢寺(兵庫県加西市)

石仏というには奇態な石像群は、一様に方形の石の上の部分だけを頭として丸彫りし、躰の部分は方形のまま、手指は線彫してある。

特徴は、目。

ざっくりと彫りこんだ切れ長な目は、その深い陰影が哀しみを湛えている。

五百羅漢といいつつも、実数は400位らしい。

もちろん一つとして同じ表情はないのだが、一つだけ共通点があって、それは微笑んでいないこと。

五百羅漢に笑い顔がないのはここだけだろう。

当然制作意図はあるのだろうが、制作者、制作年代ともに不明で、知りようがない。

五百羅漢といえば、釈迦の高弟。

どこかにお釈迦さまがいらっしゃるはずなのだが、石仏巡りの経験の浅い私は探しもしなかった。

探してもこの奇天烈石像群では、見分けられたかどうか。

五百羅漢に混じって、来迎二十五菩薩もおわす、と資料にはある。

「えっ、そんなものあったの」と慌ててフアイルを探してみる。

              阿弥陀如来と二十五菩薩

どうやらそれらしい写真があるが、当時は、二十五菩薩のことなど知りもしなかった。

奥の日の当たっているのが阿弥陀如来、と今では分かるが・・・

五百羅漢と違って、阿弥陀如来と二十五菩薩はありきたりの石仏なのが、面白い。

五百羅漢を観終わっての私の感想を一言で云うと「偏執狂」。

何か怖い妖気が漂っていた。

 

「石仏のある風景」で、外せない写真がある。

秩父観音霊場第三十二番法性寺奥の院の観音さま。

山の上の突き出た巨大岩そのものが奥の院で、その先端に観音様が立っていらっしゃる。

秩父の山中で観音菩薩に私が何を感得したのか、そして、現世利益を本誓とする観音さまが、無信心な私にどのような救済を与えてくださったかは、ブログを見ていただきたい。

「秩父札所を歩くー終わりに08.11.30」

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_19.html

「秩父札所を歩く―第三十二番 般若山法性寺(曹洞宗)08.11.22」

 http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_1243.html

 

東京で石仏巡りをしていると、寛文、元禄、享保、文化、文政などと江戸の時代区分がすんなり頭に入るようになる。

大半が江戸期か明治の造立だから当然なことです。

京都や奈良へ行くとそうはいかない。

中世の年号などなじみが薄いからだが、磨滅して文字がないものも多い。

文字はなくても、苔に覆われ傾いた石仏は、それ自体古さをにじませていて、寺の境内の隅、あるいは路傍に佇むそうした石仏群が、ことのほか、私は好きなようです。

下の写真は、京都府木津川市当尾の浄瑠璃寺から岩船寺への道、その路傍の無縁塚。

浄瑠璃寺の九品往生の阿弥陀如来や点在する磨崖仏も悪くないが、私の軍配はこの半ば棄てられた石仏群に上がる。

二尊仏は、観音と地蔵か。

この世とあの世の安寧の願いが込められている。

願いは叶えられたのだろうか。

それにしてもコケの帽子がオシャレだ。

下は、同じ地蔵と観音だが、とても同じには見えない。

 

          高野山参道の地蔵(左)と観音(右)

このピカソ風石仏がどこにあるかというと、なんと高野山参道。

弘法大師のお膝元だから、さぞ儀軌にうるさいのかと思うのだが、どっこい、そんなことはない。

ピカソもたじたじの御面相のオンパレードなのです。

 

中世無縁仏の保存ということでは、世界遺産・元興寺が一頭地抜きんでている。

国宝瑠璃殿と宝物殿の間に整然と並ぶ石仏、石塔2500基は、地下から掘り出され、あるいは周辺から集められたもの。

              元興寺(奈良市)の浮図田

4区画の浮図田に分けて、きちんと保護、保存されている。

浮図(ふと)を辞書で引く。

「①仏陀のこと ②[(ストーパの意)石塔」とある。

日本最初の寺院らしい用語だ。

ところで、元興寺のHPを見ていて、面白い記事を発見した。

『元興寺の盃状石』http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/link/link.html

「盃状石」とは、石造物の表面に盃状のくぼみを持つもの。

私は「凹み穴」とか「椀状凹み」と称して、板橋区内と日光街道の寺社、堂、祠、墓地を探して回り、ブログにアップしたことがある。

44 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=0ce43de9227393b5421eb0d968bf2e02&p=3&disp=30

45 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その2)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=fc04a9b8709f4d996b82f3d8443e2fb4&p=3&disp=30

55 椀状凹みを探して日光街道を行く①日本橋ー杉戸宿http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2407158064cb1d896350455749ba9642&p=2&disp=30

以下、56,58,60と日光街道編3本あり。

その気になって探すと、盃状石はどこでも見つかるようだ。

多分、関西にもあるだろうとは思っていた。

しかし、奈良時代の講堂基礎石にも盃状石があるなんて、実に意想外。

正直、驚いた。

世界遺産であり、国宝、重文を多数擁する古寺元興寺のHPで、盃状石についての記事があることも衝撃的だった。

頭が柔らかい管理者がいるからでしょう。

古い無縁仏を大事に保存する姿勢にも相通ずるものがあるように思えます。

 

これが石仏の範疇に入るか否かは議論のある所でしょうが、記憶に残る一枚。

長岡市栃尾地区の音子(おんご)神社の珍棒地蔵。

いや、地蔵さまも大変ですなあ。

探していたものがこんな巨大だとは知らず、真ん前の道路で通りがかりの御婦人に「ちょんぼ地蔵はどこですか」と訊いた。

無言で、肩越しに傘でその方向を指して、振り向きもせず立ち去っ彼女の素っ気なさだけが記憶に残るのだが、考えてみれば、この前まで案内されてもちょっと困ったに違いない。

 

ブログ「石仏散歩」100回目ということで、「石仏のある風景」を思い出すまま、だらだらと書いてきた。

こんな調子だと途切れることなく続きそうなので、これでお終いに。

最近、テーマ設定に苦しんでいる。

「どこそこの石仏めぐり」が出だしたのは、その表れ。

できるだけテーマ主義を貫きたいのだが、どこまでやれるだろうか。

マイナーな「石仏」をとりあげるブログなのに、毎日120-150人が訪問してくれている。

寺社名で検索し、このブログにたどり着いて、ついでに他の記事も一つ二つ覗いてみる、というような人が多いようだ。

常連は100人くらいだろうか。

101回からも引き続き、よろしくお付き合いください。