NO86,87と「越後の石工・太良兵衛の石仏」を連載した。
その中で、太良兵衛と比較する形で、高遠の守屋貞治を取り上げた。
石仏愛好家なら知らない人はいないだろうと思って、あえて説明をしなかったが、どうだったのだろうか。
つまり「守屋貞治を知らなければ、石仏愛好家として”もぐり”である」という命題は成立するか、ということになる。
名前は知っているが、作品を見たことがないのは、どうなるのか。
と、したり顔に論じる私が、実は、守屋貞治の石仏をほんの一部しか見ていないのです。
ほんの一部というのは、山梨県北杜市の海岸寺の貞治石仏のこと。
3年前、寺を訪れて、彼の技量の高さに舌を巻いたものでした。
「なんだお前は、守屋貞治の石仏をろくすっぽ見もせずに、太良兵衛を先にしたのか、順序があべこべだろう」と言われれば、返す言葉もない。
ということで、おっとり刀で高遠へ行って来ました。
これは、その「駆け巡り見仏記」です。
9月上旬、中央高速を西へ。
高遠へは、諏訪ICを降りて左の山へと進むのだが、反対側へ出て、国道20号線を上諏訪方面に向かう。
上諏訪駅の近く、小高い丘陵の中腹にある「温泉寺」に、守屋貞治の石仏が多数あるからです。
高遠へ行く前にちょっと寄り道しようというもの。
諏訪湖を眺望する温泉寺は、高島藩主諏訪家の菩提寺。
「温泉寺」という寺号がいい。
臨済宗妙心派の禅寺です。
温泉寺に守屋貞治石仏が多いのは、彼が、寺の住職・願王和尚を敬慕していたからでした。
願王地蔵(守屋貞治作)
願王和尚も又、貞治の人柄と石工としての才能を高く評価し、旅に出るたびに多くの僧侶に彼を紹介し、推薦していました。
守屋貞治作品が日本の広い範囲に今でも散見できるのは、願王和尚に負うことが大きいと云われています。
本堂の裏は山墓地。
頂上に高島藩主の廟所があり、中腹に歴代雲水の墓域がある。
その中央におわす地蔵菩薩立像は、守屋貞治作品。
貞治は『石仏菩薩細工』を残しているが、なぜかこの地蔵は記載されていないらしい。
それなのに、守屋貞治の傑作と見なされるのは、卓越した技術と気品を感得できるからでしょうか。
台石に「蔵六首座」とある。
以下は、ブログ「石を訪ねて」http://gyumei.blog87.fc2.com/blog-date-200711.htmlからの丸写しだが、「首座(しゅそ)」とは、住職に代わって雲水たちと問答をするリーダーだという。
この地蔵は、曹谷曽省という雲水の墓で、彼は願王和尚の一番弟子だった。
愛弟子の死を悲しむ和尚は、貞治に地蔵菩薩の彫像を依頼する。
曹谷曽省を良く知る貞治は、地蔵の形で首座曹谷を蘇えらせた。
だから、仏というより人間くさいお顔の地蔵なのです。
墓地から本堂へ下りてゆく。
本堂に向かって右隅に石仏群。
中でも屋根つきの地蔵菩薩が目を引く。
屋根に取り付けられたカーブミラーは、石仏を明るく浮き立たせるためのものだろう。
しかし、狙いは不発で、地蔵のお顔は暗いまま、はっきりしない。
基台の正面には「三界萬霊」。
側面に「奉納 千野忠」と刻されている。
千野忠とは、高島藩家老なのだそうだ。
造立は文政六癸未五月初二日。
貞治59歳、円熟期の作品ということになります。
円熟期は晩年期とも重なって、亡くなる前年の作品群が温泉寺にはある。
長い坂の参道の、寺に向かって右にある西国三十三所観音がそれ。
瓦屋根、白壁の細長い覆屋が3棟、重なるように並んで、1棟に11基の石仏が配置されています。
高遠の建福寺にある三十三所観音も同じ配列で、こうした形式は他では見かけないから、もしかしたら、貞治の発案ではないだろうか。
最下段の覆屋の向かって右から、一番、二番・・・と左に進み、次の覆屋では左から右へ、12番から22番までが並んでいる。
当然、最上段棟は右から左へと配列されているのだが、これが参拝者にとって、最も効率的な歩の進め方なのです。
覆屋の前面は格子戸で、格子から覗かないと石仏の全体像は見えない。
うす暗い自然光の中、陰影を残して浮き上がる石仏は、精緻にして穏やか、端正にして優美、仏を仏たらしめる精神性に満ちています。
これまで見てきた無数の石仏たちとは、明らかにレベルが異なることが見て取れます。
一番 青岸渡寺 如意輪観音 十一番 上醍醐寺 准胝観音
平凡な表現ですが、「他の追随を許さない」造形美であることは確かでしょう。
九番 興福寺 不空羂索観音 二十九番 松尾寺 馬頭観音
石工の職業病である目の病に侵された貞治は、ついに失明し、この三十三観音も23体を彫って、あとは弟子に委ねたと記録にはあるそうです。
三十三所観音を制作する場合、一番から順にてがけるのか、そうだとすれば、二十四番からは弟子の作品となりますが、何度見ても私にはその差は分かりません。
二十三番 弥勒寺 千手観音 二十四番 中山観音 十一面観音
そもそも二十三番が、貞治の作なのかどうか。
ややシャープさを欠く、と私には見えますが。
覆屋の横に建碑。
「西国三十三観音
当山願王大和尚建立
信州高遠守屋貞治作
昭和四年六月 修繕 当山十三世 玄秀」
昭和4年頃、守屋貞治の名前はそれほど知られていなかったはずです。
にもかかわらず建碑に名が刻されたのは、彼が願王和尚の愛弟子であり、名工としてその技量が温泉寺では、長く、高く評価されてきたからでしょう。
ちょっと寄り道のつもりが長くなった。
高遠へと杖突峠を上る。
高遠の人たちは、昔、諏訪盆地へは歩いて往復していた。
杖突峠は有名な難所だった。
重い道具箱を背負う旅稼ぎ石工たちは、とりわけ難儀したに違いない。
高遠市街地の手前の集落に、貞治の生家があるのだが、下調べをしてこなかったので、通り過ぎてしまった。
「たかとほの 山裾のまち 古きまち ゆきかふ子等の うつくしき町」。
田山花袋が歌ったように、古く美しい街並みが高遠には残っている。
ということは、鉄道も通らず、開発も遅れたへき地だったということです。
山がちで耕地は狭く、百姓は貧しくて、高遠藩の財政は逼迫していた。
農閑期の出稼ぎは常態で、藩もそれを半ば強制的に奨励した。
農繁期には、必ず村へ帰ることを義務付けて。
旅稼ぎの手段は、石工。
品行方正で腕のいい高遠石工の評判は上がるばかりで、長野県内はもちろん、岐阜、愛知、山梨、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川、静岡が彼らの出稼ぎ先だった。
守屋貞治もそうした石工の一人だった。
しかし、いつ、どこで、誰について石工としての修行をしたのか、一切不明です。
父、孫兵衛は石工でしたから、父が師匠だったことは、多分、間違いないでしょう。
その父親は、貞治18歳の時、死亡します。
一人立ちを余儀なくされた彼のその後は、長く空白のままです。
高遠の田舎の石工の生涯なんて、分からないのが当然だろう、そう思うのが普通ですが、貞治の場合、作品記録『石仏菩薩細工』が残されていて、彼の足跡を辿ることができるのです。
しかし、独立後10年の記録はほとんど皆無。
書き残すほどの仕事をしなかったということでしょうか。
仕事らしい仕事の最初は、高遠「建福寺」の六地蔵。
寛政4年、貞治28歳の時でした。
建福寺は、臨済宗妙心派の名刹で、藩主保科氏の菩提寺。
山門に至る急こう配の石段が印象的な寺です。
貞治が師と仰ぐ諏訪の温泉寺住職願王和尚と密接な関係にあり、貞治は42体もの石仏をこの寺に残しています。
貞治の六地蔵は前面格子の覆屋の中にある。
中は暗くて写真の地蔵は不鮮明なのが残念。
高遠町(伊那市に合併前の)教育委員会編纂『高遠の石仏』は、「各地蔵の相も異なり、貞治作の特徴を備えていない」と否定的です。
山田誠治(高遠石仏研究会副会長)は、「6体の両端の彫りは幼稚で、貞治作ではない。廃仏毀釈で打ち壊されたものを誰かが修復したものか」と推測する。
格子つき覆屋は、西国三十三所観音の保存と展示にも使用されています。
三十三体を3棟の覆屋に収納、展示するこの形式は、効率的でユニーク、もしや貞治のアイデアかと思うのですが、ここ建福寺に限っては大失敗。
石段の最上段左に3棟が重なるようにならんでいます。
崖地にあるから、参拝者は一段下に立って石仏を見上げることになって、結果、次のようなことが起きます。
①格子があって全体像が見えない。
②格子から覗いても暗くて像がはっきりしない。
③見上げる形になり、蓮華座ばかり大きく見えて、上半身が見えにくい。
背伸びしてレンズを格子に突っ込み、フアインダーは覗けないから、見当でシャッターを押す、と下の写真のようになる。
三十三番 十一面観音
二十九番の馬頭観音は貞治仏の中でも傑作とされる一体ですが、写真はうまく撮れません。
3棟を平地に移し、格子を全面ガラスにしてほしいものです。
同じことは、寺の西門わきの地蔵堂についてもいえる。
格子があって、中の地蔵の像容が見えにくい。
下の格子からのお姿はかくの如く、無残。
蓮華座の上になぜかカップ酒。
格子から手を伸ばして届く場所ではない。
誰がどうしておいたのか、不思議だ。
貞治が彫った地蔵には、佉羅陀山(からだせん)地蔵大菩薩が多いが、これもその一つ。
佉羅陀山は、須弥山の近くにある地蔵の故郷だそうで、その像容は左手に宝珠、右手は錫杖を持つ代わりに施無畏印を結んでいます。
基壇正面には、願王和尚の讃が彫ってある。
「帰命魔訶 薩宝珠雨 梵台金環
常金地百 怪不能来 願王」
圧巻は、その願王和尚を地蔵菩薩に見立てた願王地蔵尊。
願王地蔵菩薩(『高遠の石仏』より借用)
この寺で受戒会座中に倒れ、そのまま遷化した師・願王和尚を偲んで、石工守屋貞治が万感の思いを込めて彫像した渾身の傑作がこれ。
地蔵尊崇敬者の和尚のために、身体は佉羅陀山地蔵、お顔は願王和尚というお地蔵さんです。
三十三所観音の傍に正観音坐像。
横に「正観世音菩薩 守屋貞治作」の石柱がある。
石像に違和感がある。
顔だけが白っぽい。
修理したようだ。
首から上をすげ替えて、「守屋貞治作」とするのは、いかがなものか。
たとえば絵画の世界、著名画家の作品に穴が開いた、だれかが書き直して修理する、ことなどありえない。
地震か廃仏毀釈、首がなくなった理由は様々だろうが、欠けたそのままにしておくべきではないか。
元々『石仏菩薩細工』にこの正観音は載っていないという。
ならばますます「守屋貞治作」と表示するのは、問題があるように思う。
順序が逆になったが、山門へと延びる急な石段の両脇に立つ石仏の左は貞治作品の延命大地蔵菩薩。
彫技からして貞治作としか見えない、右の楊柳観音は貞治の弟子、渋谷藤兵衛の作品です。
建福寺の最後に「守屋貞治顕彰碑」を紹介する。
碑文は、貞治本人の直筆文。
私は読めない。
傍らの解説をそのまま載せておきます。
高遠町にある守屋貞治作品は、48体。
うち43体は、建福寺にある。
彼の故郷でありながら高遠に貞治作品が少ないのは、施主になるだけの財力がある家がなかったからでした。
駒ケ根市に貞治作品が多いのは、その逆、スポンサーになるだけの経済的余力のある家や講が多かったからです。
残り5体のうち3体があるのは、守屋家の菩提寺桂泉寺。
石仏は、石段の中ほど両側にある。
右が准胝観音。
准胝観音
左は延命地蔵。
いずれも貞治55歳、海岸寺での百体観音制作中、故郷に戻っての仕事です。
貞治の作品には、なぜか准胝観音が多い。
あまり見なれない石仏なので、伊那市教育委員会の説明文を転載しておく。
「准胝とは清浄の意味で、この観音は、息災・延命・求児・除病の祈願を与えるといわれる。豊かな体躯、荘厳な顔の表情、円形光背のなかに納められている一本一本の手、頭髪、蓮弁の美しさなど、その技術には目を見張るものがある。」
はるか眼下に高遠の街並みを見下ろしながら、石仏2体は、295年、この場所に佇んで来たことになる。
海岸寺での10年間に及ぶ百体観音制作の途中、故郷高遠での仕事といえば、三峯(みぶ)川の常盤橋のがけの上に安置されている大聖不動明王も外せない。
三峯川は度々氾濫した。
困り果てた村人たちができることは、神仏に祈ることだけ。
その祈りの仏として村人に頼まれ貞治が造ったのが、この波切不動。
一時、高遠町郷土館に収容、展示されていたが、村人に病人が続出、お不動様のたたりではないかと騒ぎになり、元の場所に戻されたという。
身体に比べて顔が大きい。
下から仰ぎ見るように貞治は造ったのだから、がけの中腹に安置すべきだという意見もあるようだ。
貞治作品の最高傑作の一つ。
傑作とされる理由を伊那市教育委員会の説明文から読み取ってほしい。
高遠を去る前に高遠歴史博物館に寄った。
高遠石工の史料があれば、見たいと思ったから。
着いて分かったのですが、なんと偶然にも「高遠石工 石仏写真展ー守屋貞七、孫兵衛、貞治ー」の特別展が開催中でした。
貞治からすれば、貞七は祖父、孫兵衛は父ということで、守屋家は三代にわたり石工を業とする家だったことをこの展覧会で初めて知りました。
祖父から父、そして貞治へと受け継がれた技術も当然あるわけで、そうした観点からの調査、研究が始まったばかりということのようです。
貞七、孫兵衛の作品は、駒ケ根市とその周辺に多いと解説されています。
翌日、貞治作品を観に駒ケ根市へ行くので、先祖の作品も視野に入れて「見仏」して回るつもり。
≪参考資料≫
◇高遠町誌(上)昭和58年
◇高遠町教委『高遠の石仏』平成7年
◇春日太郎「守屋貞治の生涯と石仏」(『別冊信濃路石仏師守屋貞治 昭和61年』所載)
◇水沼洋子「貞治仏をたずねて」(『野ざらしの芸術 井上清司写真集 昭和57年』所載)
◇小松光衛「石工守屋貞治のこと」(『史跡と美術』1978・5所載)
◇春日太郎「守屋貞治三十代を中心とした作品考」(『日本の石仏』NO11 1979秋号)
◇春日太郎「高遠の石工」(『日本の石仏』NO17 1981春号)
◇上伊那郷土研究会『高遠石工守屋家三代百年の足跡』2014
。