石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

47 聖語 真言宗(智山派)寺院編

2013-01-16 07:54:40 | 寺院

去年3月、撮影予定が雨で中止となり、代わりに保存写真フアイルから素材を集めて、ブログを作成した。

題して「27 聖語(浄土宗寺院編)」。(カテゴリーで寺院をクリック、その下部に)

今回も事情は同じ。

予定のテーマが仕上げられない。

フアイルから聖語を集めた。

ただし、今回は真言宗(智山派)寺院の聖語。

浄土宗寺院の聖語との違いが分からない。

あるのだろうか。

 石仏とは無縁なテーマで、すみません。

でも、それぞれ味わいある言葉ばかりです。

    円乗院(さいたま市)


「糸で
つながる
数珠の玉
手と手を
つなごう
平和の輪」

  観音寺(八王子市)

「心なき言葉は

 人を苦しめ

 心よりの言葉は

 人を救う」

             金剛寺(世田谷区)

「どうでもいいという

 人間からは

 なにも生まれてはこない

 そういう生き方からは

 なにも授かりはしない」

        真蔵院(春日部市) 

「何か

 足りない?

 じゃあ

 そこに

 真剣味という

 ひと味を

 足そう」

 

           大正院(本庄市)

「皆ともに

 祈り祈られ

 みちのくの

 被災の彼の地に

 光よ来たれ」

 

       大満寺(北区)

「道」

「心豊かな人生を

 送る為に

 自分自身の

 善いところ

 悪いところを

 知る。

 ありのままの

 自分を知る。現住」

           東覚寺(江東区)

 「願う心

 他にふりむけて

 爽やかな今」

     東光院(大田区)

「悪事を己に向かえ

 好事を他に与え

 己を忘れて他を利するは

 慈悲の極みなり」

    東光院(大田区)

「人は

 見えても

 自分は

 見えない」

         南蔵院(足立区)

「”こだわらない心”

 が長寿に通じる」

            福善寺(匝瑳市)

「我が身を

 立てんと

 せば

 まず

 人を立てよ

 当山 執事」

          遍照院(上尾市)

「己で限界

 を決めない

 限りの無い

 点を目指す」

           宝晃院(西東京市)

「あの人いい人

 この人悪い人

 誰が決めたの

 境目はどこ」

        宝珠院(大田区)

「仏とは大いなるいのち

 仏の慈悲につつまれて

 あなたもわたしも

 生かされて生きる」

              宝生院(港区)

「もの置けば

 そこに

 生まれる

 秋の蔭」

 (高浜虚子)

          宝蓮寺(江東区)  

「強い心がないと

 生きていくのがむずかしい

 しかし

 暖かい心がないと

 幸せにはなれない」

 

         宝幢寺(志木市)

 「時を待て

 焦りは

 心の

 ロスタイム」

 

            龍光寺(江東区)

「花無心招蝶
 (はなはむしんにしてちょうをまねき)

蝶無心尋花
 (ちょうはむしんにしてはなをたずねる)」

 

早稲田通りの馬場下町交差点を北へ行けば早大正門があり、南へ行けば早大文学部にぶつかる。

その馬場下町交差点角の龍泉院の掲示板が面白い。

びっしりと文字が書き込まれた模造紙が4枚、圧倒的な文字数の多さはいかにも大学町の寺に似つかわしい。

                 龍泉院(新宿区)と掲示板の聖語を読む人 

 少し長いが書き写しておく。

智慧はあらゆる人びとの心をうるおす

「金沢の郊外に専称寺という浄土真宗の寺の前坊守(さきのぼうもり)で高光かちよさんがいらっしゃいます。

そのお話の中でよく出るのが、次のような体験談です。

上京してタクシーに乗ったら、その運転手がぶっきらぼうで、ろくにものも言わない。行く先を告げても返事もしない。そしてポツリ『お客なんてのは私らには荷物並みなんだ』という。一瞬、『なんてことを』とカチンときたけど、一息ついて『なるほど荷物並みか』と受け止めて『運転手さん、この荷物、大分古くってこわれそうだから、気をつけて運んでね』と、答えた、と。

返事もないまま、しばらくしてその運転手が、会社への不満を話しかけてくるんだそうです。車を降りるとき『あんた大分血の気の多い人みたいね。気を付けてね』というと『お客さん、あんたも帰り気を付けてね』と答えて、ドアを閉めたそうです。かちよさん、『嬉しかったです』と仰る。人間、何時なんどき、どんなレッテルを張られることやら解らぬけれども、何をいわれても『なるほど』と、そのままに受け止める。これが如来さまより賜った智慧でしょう。

 『智慧海のごとし』という仏語は、かちよさんが出された本の題名です。海は何が流れてこようが一切拒みません。そして一切を包んで溶かしこみ、一味にしてしまいます。この仏の智慧に身を置く時、周りの人たちみんなが、それに同化感応してしまいます。この運転手さんみたいに。」(1枚目)

 

「中川精子さんは、三重県松坂市の中学校の先生です。お寺で、いつも聞法(もんぽう)しています。受持ちの生徒の中にヤンチャ者のツッパリがいます。彼が他のクラスの生徒をなぐった。担任としてなぐられた子の家、謝りにいかされる。ツッパリが『何も先生が行かんでいいやんか』と口をとがらす。

『いや、先生がな、いたらんばっかりにあんたらになぐり合いさせてしもたんや、ごめんしてな』と精子先生けっして高姿勢にでない。聞法の成果、仏の智慧がそうさせるのです。と、『先生、ごめんして。また先生を謝りにいかせんならんようにしてしもて。おれ、つらいんや』とツッパリの子がしおらしく先生に謝る。ところが、こちらが高飛車に叱ったり、怒ったりすると『そやけど・・・』と開き直って、口答えするという。

校内で何か事件が起きると『お前らの中にやった者がおりはせんか』と疑ってかかると子どもらが無言で『先生、その姿勢まちごうとるぞ』と審問してくれます。指導者は高いところから下りて、みんなと掃除するとか、だれかに仕事を頼んで一緒にするとか、肌で触れあえば、子どもたちは何でも話してくれます。構えると対話は消えます。教壇の上から、何を問うても答えがないのに、仕事してもらって、『ありがとな。たすかったわ。そいで、こんなことあったみたいやな』と問うと『あ、それ、あいつがやりよったんや。でもあいつな、悪いことした、もうやらん、というとったよ』と返ってくるんです。と、先生は述懐してくれました。

チエと表記する語に二通りあります。一つは知恵。これ、今、学校で教わるチエ。もう一つは昔から仏教で使われる難しい字の智慧。こだわるわけではないけれど、この二つを使い分けます。」(2枚目)

 

「知恵は人間の知恵、人知。それは自己容認、自己増強、拡大を目指す。子どもの頃から家庭や学校で学んできた学問知識、人生のテクニック、世渡りの才覚といったもの。

それに対し、智慧とは仏智。これは仏法を学ぶことではじめて教わるもの。人間のともすれば知識万能、技術至上に走る独りよがり、思い上がりを否定し、道理随順に帰らしめる、深いものを見る目のこと。知恵は外向き、智慧は内向き、ともいっていい。また人知はどこまでも自己肯定に立ち、それに対し仏智は、私に自己否定を迫ります。

高光かちよさんとタクシー運転手の場合、荷物といわれて一瞬『何を』とカチンとくる。これが知恵の領分、一息ついて『それもそうかも』とそのまま受けるのが智慧の働き。『この私に向かって失礼な・・・』と自己肯定に立ったのが、『荷物でいいではないか』とひるがえされ(否定)れば、相手もろもろ世界は変わる。中川先生が先生顔し、先生風吹かせて高い所からものいう。これが知恵、生徒と通じ合えない。『先生が至らんでごめんしてな』と詫びる所に下りると『僕もつらいんや。ごめんして』と向こうも謝ってくれる。

仏の智慧は、あらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果の道理を明らかに知らせる。まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。という経典の言葉は、実際の生活の中でこんな形で、人を潤すのではないでしょうか。仏智こそ世間の潤滑油です。

私の娘も中学の先生をしていて、中川先生と同じような体験を語ってくれたことがありました。中学にもなると放課後、教室の掃除をいくら呼びかけても、なかなかしてくれないのだそうです。まだ学校出たての若い未熟な女先生ですから、余計云うこときかない。」(3枚目)

 「ベテランの先生だと『こらっ、やらんか』と叱るけれど、そんな器量はありません。だから情けないけれど、教師の私がほうきや雑巾もって掃除するの。すると二三人の生徒が手伝ってくれる。一緒に掃除しながらいろいろ話し合う。『先生、あの子、近頃おかしいでしょ。どうしてか、わかる?お母さんに新しいお父さんが来て、苗字が変わったのを隠しているのよ』とか、いろんな消息を聞かせてくれる。教壇から向き合っていては解らない情報が仕込める、と。

ある組の、担任もさじを投げるような番町の女生徒が問題を起こして職員室へ呼ばれた時、『長谷(娘の婚家の姓)となら話す』というので、ベテラン先生が驚いたという。『あなた、あんな生徒に信任があるのね。すごい隅に置けないわ』と。娘は『私は未熟者で不出来な教師だと自認してやっている。他の先生みたいな大きな顔していない。できないんだから。それがかえってああした番長たちに信頼されているらしいの。その他に理由が考えられない。それで私つくづく思ったのは、家にいる頃、お父さんがよく仏法の話を聞かしてくれたけど、本当にその通りだなって、家を出て、社会で仕事して、その事を改めて知らされた』と報告してくれたことがありました。」

これから どこをあるかう 雨がふりだした 山頭火(4枚目)

この掲示板の文章は、2012年7月25日のものです。

実は龍泉院の「聖語」が長文であることに気付いたのは、2010年の秋のことでした。

真言宗智山派寺院の聖語をまとめるに際して、2010年のものをそのまま記載してもよかったのですが、今でも同じように長文なのか、確かめたくて7月25日に行って来たものです。

模造紙4枚にびっしりと文字が並ぶ、同じスタイルで掲示板は立っていました。

文章の内容は、一昨年のとは、変わっています。

お寺で確認したら、月に一回ずつ、新しくしているということでした。

折角ですので、一昨年の分も掲載しておきます。

 

自分自身の無常を知る

「諸行無常」という言葉は、聖徳太子の昔から、日本人のあいだで知られている古い言葉と考えられます。法隆寺にある「玉虫の厨子」は、日本の木である檜で造られているそうですが、その下半部の台の側面に画かれた絵のテーマが「施身聞偈」という物語で、その中に「諸行無常」が出てきます。

むかし、雪山にひとりの修行者があった。木の実を食とし、長いあいだ座禅をしていたが、悟れる人に出会うこともなく、真実の言葉を聞く縁もなかった。この修行者を試みようとして、帝釈天は姿をかえて、おそろしい鬼の姿をした羅刹(悪鬼の一種、通力により人を魅し、また食らうという)となって、修行者に近づき、古い言葉の前半を口ずさんだ。「諸行は無常なり。これ生滅の法なり」。この言葉を聞いた修行者はよろこびにふるえた。「そうであった。わかりはじめたぞ」(1枚目)

 思わず立ちあがって、まわりを探した。「今の言葉は誰が云ったのだろうか」。見えるのは、恐ろしい羅刹の姿だけであった。「まさかこの羅刹が云うはずはあるまいが。火中の蓮華ということであろうか。私は今無知である。この羅刹はいつか仏から聞いているかもしれない」と思いなおして、羅刹に話しかけた。「良い言葉を聞かせてもらった。そのつづきを聞かせてほしい」。

羅刹は答えた。「だめだ、私は長いあいだ、食べるものがなくて、イライラし、思わず云っただけだ」。
「そう言わないで、どうか私の為にさっきの続きを教えてほしい。あれで全部でないはずだ。聞かせてもらったら一生あなたの弟子になってもいい」。
「お前さんは、賢こそうだが、自分のことばかり考えて、私の空腹のことは考えてくれないな」。
「いや、どうも。あなたの食べたいものはなんだね」(2枚目)

 「驚いてはいかんぜ。私の食べ物はただ一つ。暖かい生の人間の肉だよ。飲み物は人間の生き血だ」。
「よろしい。残りの言葉を聞かせてくれるなら、この私の体をあげよう。いつかは死ぬ身だ」。
「そうですかい。でも残りの言葉は、たった八字だよ。それでも命を捨てるかい」。
「かまわない。死ぬ命を捨てて、死なぬ命をもらうことができれば、」。
「その覚悟があるのならよく聞くがよい。つづきを云おう」。
修行者はよろこんで、持っていた鹿皮を羅刹の前に敷いた。
「和上よ、どうか敷いてください」。
羅刹は云った。
「生滅、滅し巳(おわ)りて、寂滅を楽となす。さあ、お前さんは望み通り聞いたのだから、今度は私が命をもらう番だよ」。
「ちょっと待ってください」。
「なに、今さら待てとは何だい」。(3枚目)

 「いや、そうではない。この尊い言葉はなんとしてものちの人に残したい。子の石、この木、この道に今の言葉を刻んで残したい。私は死んでもきっと誰かが発見してくれるだろう」。
「よろしい、待とう」。
偈文を書き残した修行者は、高い木の上に上った。
「木よ、聞いてくれ。私は法の為、一切の人びとの為に今から体を捨てるのだ」と身を投じた。その時羅刹は帝釈天に姿を変えて、修行者を受け止め、地上に下ろした。このありさまを知った諸天は「ああ、よかった。この修行者こそ本当の菩薩だ。すべての人を助けようとしている。無明の黒闇の中において大きな燈(あかり)となるお方だ」と喜んだ。

この物語が示すように「諸行無常」を知ることは、真実の生き方の出発点です。世間や社会の無常ならば、新聞やテレビのニュースを見るだけで解りますが、私自身の無常を知る為には、自己を見つめる落ち着いた心が与えられねば不可能なようです。聞法によって自己を知り、凡ての人が幸福になれる本当の楽しみを得ようではありませんか。最後までお読み戴いて有難うございました。(4枚目)

 

今回、ブログにあげることになり、1月11日、龍泉院へ行って来た。

長文の聖語はなく、御守り授与の正月用告知があるのみ。

フアンとしては、ちょっと寂しい。