今回は、日本石仏協会主催の石仏巡りツアーの報告。
非会員でもOKということで、初めての参加です。
日程は、2012年10月21日ー22日の一泊二日。
目的地は、岐阜県高山市高根町日和田高原。
参加費、2万3000円(バス代、宿泊費、昼食費込み)
21日、10時半、参加者23人を乗せて、バスは塩尻駅前をスタート。
参加者の平均年齢は、70歳前後とお見受けした。
男女比は、6対4。
女性が多いのが、意外だった。
ガイドは日本石仏協会中津川支部の3人。
3回の現地下見の上作成したという42ページの詳細な資料が配布された。
バスは木曽福島から開田高原へ。
開田高原でも何カ所かの石仏スポットがコースに組み込まれている。
1日目①「末川大橋石仏群と観音堂」(長野県木曽町開田高原末川)
小堂の中に西国三十三観音。
堂の左に10数基の石仏群がある。
前列の双体道祖神や後列の二十三夜塔にカメラの放列があるが、私の関心事はその脇の馬頭観音群にあった。
23基の馬頭観音像が整列している。
文字はない。
あっても読めないから時代ははっきりしないが、江戸末期から昭和までのものだろう。
「思っていたより少ないな」というのが、第一印象。
なにしろここ末川は、木曽馬の産地開田高原の中でも1,2を争う頭数の多い村だったからです。
馬が死ねば必ず馬頭観音碑を建てる。
それがこの地方の慣例でした。
とすれば、江戸時代から昭和まで、建立された石碑は厖大な数だったはずです。
木曽馬の歴史は古い。
木曽義仲が険阻な木曽山中の戦いを有利に進められたのは、木曽馬を乗りこなしていたからだったと伝えられています。
末川が馬産地として記録される初出は、天保年間(1830-1844)の『木曽巡行記』。
「駒は山深く寒地ほどよろし。木曽にては西野、末川、黒沢を好しとす。皆御嶽の裾野なり。然るに山民共牝馬を買い種馬にいたす程の元手なき貧窮の者多き故、福島の商人金主をいたし、牝馬買上預け置き、毎年飼料金壱分遺し、駒売後の節直(あた)ひの三分ケ一飼主へ与えるなり。西野、末川、福島町人よりの預り馬多し」
短い文章に「末川」が2回登場する。
前は、馬産地として、後ろは、預り馬の多い村として。
末川の大半の馬の持ち主は、飼主の農家ではなかったのです。
『木曽馬とともに』より借用
持ち主は木曽福島の商人で、彼らを「馬持ち」と云った。
一方、馬の借主は「馬屋元」と云ったが、大正時代に「馬持ち」は「馬地主」に、「馬屋元」は「馬小作」と分かりやすく名称が変わった。
仔馬の売却代金は、折半。
馬地主と馬小作の関係は永続する場合が多く、馬地主は馬小作に対して、茶塩の世話から冠婚葬祭等の不時の出費の用立てまで、担保なしの簡便な銀行としての役割も果たしていました。
馬小作制度は、木曽馬理解には不可欠なキーワードなのです。
1日目②「瑞松寺」(長野県木曽町開田高原末川)
山門を入ると右手に石造物群。
瑞松寺山門
カメラの集中砲火を浴びたのは、小屋掛けの延命地蔵尊。
名工・守屋貞治の作品は、開田高原と日和田高原にはここだけと云う話。
撮影が終わると刻字読みが始まる。
「じっくりと字を読みたいのに、撮影が終わるとさっさと移動してしまう」とこぼす御仁もいる。
ちょっと風変わりな石像の前で議論が始まっていた。
「上の丸石は要らない」
「いや、頭として必要だ」
「丸石を除けば観音さまだ」と侃々諤々。
正否はともかく、皆自信たっぷり。
さすが石仏協会のツアー、面白い。
1日目③路傍の一石三十三変化観音(長野県木曽町馬橋)
目的の一石三十三変化観音は、松の木の向こうの木の茂みの中にある。
松と紅葉の間からこちらに、国道をよぎって昔の街道が走っていたようだ。
だから一石三十三変化観音は、往来に面していたことになる。
彫りはいいのだが、カメラの腕がないので、あまりはっきりしない。
「下見に来た時、ああ、一石三十三所観音かと思ってよく見ることもなかったのですが、後で一石変化(へんげ)三十三観音だと分かって大変な見落としをした、大失敗を犯してしまったと落ち込みました」とは、ガイドのAさんの話。
一般の人たちには、チンプンカンプンだろう。
説明なしにこの話が出るところが、石仏協会主催のツアーらしい。
私は、すんなり理解した。
進歩があったということか。
うれしい。
(注)「三十三所観音」は、西国、坂東、秩父などの三十三カ所観音霊場の本尊。
「三十三変化観音」は、三十三体観音とも云う。観世音菩薩が衆生済度の
ために三十三の姿で示現する変化身の意。白衣観音、魚籃観音など。
御嶽山(おんたけさん)を遠望する絶景ポイントでバスが停まった。
霊山にふさわしい山容だ。
昔の人たちが、神として崇めたのも当然だろう。
そんなことを思いながらシャッターを切っていたが、御嶽信仰にからむ石造物が、この後、次々と現れることをこの段階では知らなかった。
1日目④「覚明石造物群」(長野県木曽町開田高原西野関谷)
バスでの石仏巡りの問題点は、全景を取りにくいこと。
バスから降りるのが遅いと、どこから撮っても、人が入り込んでしまう。
無人の全景を撮るには、いち早く現場に走るか、みんなが撮影し終わってバスに向かう時間を待つしかない。
この現場は、走った。
木の柱に囲まれて石造物が並んでいる。
石碑には、「覚明霊神」と刻まれている。
「御嶽神社」の石碑もある。
中央の人物像は何か、同行の石仏博士(と私が勝手に思っている)に訊いたら、「覚明」その人だと云う。
この段階では、「覚明」に無知のまま、シャッターを押していた。
これから先の記述は、だから、すべて帰宅してから得た知識によるものです。
正直にいえば、「覚明」だけでなく、木曽馬についても、日和田高原の歴史と民俗についても、全部が後知恵なのですが。
「覚明」は、文字遊びすれば、「革命」的変革をもたらした行者でした。
何が革命的だったか。
それまで、100日の精進、潔斎、参籠などの難行苦行した修験者にしか許されなかった御嶽山登拝を一般庶民に解放し、御嶽信仰を全国的に広めたからです。
天明(1781-1789)の頃のことでした。
霊神碑は御嶽信仰独自のもので、「死後その霊魂は御嶽へかえり、大神のお側に仕えまつる」という趣旨。
今度のツアーでは、覚明と普覚、それに空明の霊神しか見かけなかったが、御嶽山の登山道には霊神碑が林立し、山麓一帯を含めるとその数二万と『木曽福島町史』には書いてある。
中央の細長い石柱には「廿三夜」の文字。
覚明の命日、1月23日に御嶽講中がこの霊神場でお神酒を進ぜてお祭りをした、その証拠物件とも云えようか。
社の前に並ぶ馬頭観音。
中の1基には、昭和59年の文字が見える。
おそらく、この地域、最後の木曽馬だったはずです。
昭和25年に馬と牛の数が逆転、あっというまに馬は激減、牛の天下になった。
左にある牛頭天王の文字がそうした状況を物語っている。
バスは開田高原から北の方へ。
目的地の日和田高原は、木曽福島から高山への道のほぼ中間点。
(本来はここで地図を入れたいのだが、何度トライしても入らないので諦める。ふがいなく、なさけない)
高度があがるにつれ、車窓からの紅葉の色合いが一段と濃くなってゆく。
県境を越えて岐阜県高山市高根町へ。
高根町は、平成5年の合併で高山市の一部となった。
高山市高根町に入ったところで、3人の男がバスに乗り込んできた。
自己紹介によれば、高根町のNPO法人「YIK」の関係者た゜とのこと。
「YIK」は、人口流出、人口減に悩む高根町の町起こし運動体。
「Y:よしたよ I:いごいて K:くいて」(日和田の言葉で「よくしてくれてありがとう」の意)
彼らは、日和田高原に点在する550基の石仏を観光資源として利用すべく、今年の7月から「御嶽山の石仏巡りツアー」を始めた。
23人もの石仏巡り団体の受け入れは、彼らにとっても一大イベントに違いない。
今日と明日、石仏スポットを案内し、説明してくれると云う。
「YIK」の先導車の後をバスが追う形で、まずは最初のポイントへ。
1日目⑤留之原祭場(岐阜県高山市高根町留之原)
留之原は、文字通り、止めの原の意。
日和田高原の最南端に位置する。
二本の川に挟まれた台地だが、川からの斜面は急峻で登るのは容易ではなかった。
人が住み始めたのは、大正時代初期。
開拓が目的だった。
それに戦後の食糧難時代に入植した人たちが一緒になって集落を形成した。
留之原祭場の石造物は、そうした彼らの守護神として祀られたものらしい。
中央の立像は、妙見菩薩。
「亀に乗っている像は、たいてい妙見菩薩といってよい」と『日本石仏図典』にあるが、確かに亀趺に乗っている。
左端は保食神(うけもちのかみ)。
「食物を保持し、与えてくれる神」の意。
牛馬の神とする地域もあるという。
東京では見かけない。
私は、初めて見た。
だから「うけもちのかみ」という呼び方も「石仏博士」に教えてもらって知った。
日和田高原は、農業の最冷前線地帯だから、収穫は天候に左右されやすい。
獣医などいないから馬の病気は一家の命運を左右した。
人智を超えた神頼みの神として、留之原の人たちは保食神を選択したのだった。
日和田では、このあと、保食神を何基か目にすることになる。
午後3時、日和田集落に到着。
道の両側に家がポツリポツリと並ぶ、細長い集落。
その長さ約2キロ。
標高1300mの高地なのに集落があるのは、ここが飛騨と木曽福島を結ぶ道路の要衝地だったからです。
元禄検地で、すでに戸数18戸が記録されている。
18戸で村の石高わずか6石。
極貧の村だった。
現在の人口116人。
バス停一位森八幡神社の時刻表
137年前の明治5年には、56世帯、353人だった。
激減のきっかけは二つ。
昭和45年のダム建設と平成5年の高山市との大合併。
合併前の日和田の人口は186人だったから、わずか7年で4割も減ったことになる。
標高1300mでの紅葉は、すぐそこに冬が来ているというしるし。
軒まで積み上げられた薪が、冬支度万全を告げているかのようだ。
1日目⑥下村の祭場(岐阜県高山市高根町日和田)
「えっ、こんなとこに!」とびっくり。
民家の庭先に石仏が並んでいる。
しかも、場所に似合わず、逸品揃いなのだ。
圧巻は中央の一石火伏せ二神並立像。
向かって左が、愛宕大神、右が秋葉大神。
いずれも防火の神。
愛宕大神の像容は、本地仏の勝軍地蔵です。
珍しい神像が並んでいて、彫りもいいから見飽きない。
腕に自信があるのだろう。
ちゃんと石工名が刻んである。
「石工 信州上伊那郡西春近 宮下鉄弥」。
『木曽福島町史』によれば、宮下鉄弥は昭和の初めまで木曽に入り込んで仕事をしていたらしい。
特に開田村と日和田にかけて、彼の作品が多いという。
「腹巻きに鏡を入れておいて、時々鏡を取り出して自分の顔を見ながら、馬頭観音を彫っていた」とは、馬頭観音の制作を依頼した施主の話。
霊神碑などの大きな文字の彫り方を地元の石工に指導していたという話も伝わっている。
この一石火伏せ二神の両脇に立つ丸彫り石仏も素晴らしい。
大慈の台石に立つのが聖観音。
大悲が馬頭観音。
銘はないが、宮下鉄弥作品ではなかろうか。(と、素人の勝手な想像。根拠はない)
この馬頭観音像は墓標ではない。
にもかかわらず、忿怒相ではなく慈悲相であるのは、ここが木曽馬の産地だからだろう。
おとなしい木曽馬に忿怒相は似合わない。
ここにも、保食大神(うけもちのかみ)。
保食大神
寒冷地だから何度も飢饉に襲われてきた。
飢えの恐れのDNAが、保食大神に繋がっているように思える。
同じ馬頭観音なのに、墓標石仏には誰も見向きもしない。
よく見るとビニールハウスの骨組みのような細いパイプが石仏群を覆っている。
石仏が雨に濡れないためかと思っていたが、違った。
夏祭りの際、獅子が舞う。
その時の雨対策だと云う。
そういえば、ここは「下村祭場(さいじょう)」という場所なのです。
隣家の時ならぬ騒ぎをよそに黙々と豆ふるいに励むご婦人。
私の故郷・佐渡でも見かけなくなった光景。
なつかしいので、つい、パチリ。
1日目⑦一位森八幡宮(岐阜県高山市高根町日和田)
八幡神社は、日和田の産土神社。
元禄検地にも記載があるからその歴史は古い。
境内奥は国の天然記念物のイチイの原始林があるのだが、団体行動なので行くことが出来ず、従って写真はない。
日和田祭は、この一位森八幡神社を中心に行われる。
昔は8月1日から3日間行われたが、昭和の終わりにお盆休みの8月12、13,14日になり、人口減少に伴って3日が2日に、そして現在は8月13日の1日だけとなった。
圧巻は、小日和田の森越八幡神社への神幸。
森越八幡神社 (小日向) 鎌倉街道の前坂峠
旗、鉦、獅子、神楽の先導で神輿が前坂峠を越える。
神社で宮祭と直会を終え、祭場を回って夜遅く日和田八幡宮に還行するというものだった。
森越八幡神社での獅子舞(写真は高山市高根支所提供)
現在は、3日間の神事を車で回ることで1日に短縮している。
本殿右奥に石造物が並んでいる。
左から、普覚行者、金毘羅、愛宕、秋葉の三神、天照皇大神像、御嶽大神、覚明行者と並んでいるのだが、右端の覚明が写っていない。
なにしろ狭い所にカメラマンがひしめいて、引いた画が撮りにくい。
中央の天照皇大神像は素朴な感じの女性像。
団子鼻であか抜けない。
神は洗練された姿であってほしいとこれは私の余計な願望。
左右の像は、御嶽信仰の霊神像。
普覚行者霊神像 覚明行者霊神像
2神とも下駄をはいている。
同じ神でも、こちらは洗練されていない所がいい。
日和田の御嶽講は、明治の最盛期には、集落が全戸参加して御嶽山登拝を行っていた。
男女とも、白衣と笠それに金剛杖という装束。
夜明け前に日和田を発ち、六根清浄を唱えながら登頂、頂上での祭典を終えてその日のうちに帰村したという。
日和田での先達は空明行者だったが、彼の死後、御嶽講は急速に衰え、消滅してしまう。
1日目⑧原家跡(岐阜県高山市高根町日和田)
1日目最後の石仏スポットは、原家跡。
原家跡
原家の前に「富農」だとか、「素封家」だとか、「 資産家」とかつけた方が、原家を理解しやすいかもしれない。
私は、東京・板橋に住んでいる。
数年前、「板橋資産家夫婦殺害事件」があった。
飲み屋で、どのくらいの資産家だったか話題になったことがある。
「家の中で、札束にけつまずいてケガをした」と話す男がいた。
「板橋の自宅から池袋まで、所有地を歩いて行ける、と聞いた」という話も出た。
原家の場合はケタが違う。
日和田から木曽福島までの9里半(38キロ)、他人の土地を踏まずに行けた、と云われている。
当然、日和田の田畑の大半は、地主の原家の所有地であり、各農家の馬もまた馬地主の原家のものだった。
秋になると籾を背負った小作人が門前に列をなした。
11棟の水車小屋は、籾摺りにフル稼働していた。
馬の数は約300頭。
しかし、正確な石高と頭数は不明。
村当局が原家の財産を把握しきれていなかった上に、原家の文書は焼却されて残っていないからです。
その資産家原家も没落して、今は、見る影もない。
わずかに屋敷に入る観音開きの門扉と石垣の上に伸びる屋根付き板塀にその面影を残すのみです。
板塀が途切れたその先には、石垣に石仏が行儀よく並んで、道行く人を見下ろしている。
特記すべきは、左端の騎座金剛界大日如来。
馬に乗った大日如来は珍しい。
大馬地主原家の特注品だろうか。
あとはほとんど馬頭観音、それに地蔵が少し。
右端には、3基の双体像。
いずれも像容は地蔵だから、六地蔵ということになる。
最盛期の原家には、50―60人の大工や石工がいたが、彼らは美濃から来ていたので、日和田の人たちは知らなかったようだ、と『高根村史』には載っている。
これらの石仏群は、そうした雇われ石工の作品かもしれない。
1日目の日程は、これで終了。
宿泊旅館の「七峰館」に午後4時半に到着。
夕食までの時間を利用して、高山市副市長の歓迎の挨拶とNPO法人「YIK」代表による「日和田の石仏」についての話があった。
午後6時からの宴会には、副市長と「YIK」の関係者数人も出席、なごやかに懇談して散会となった。
次回、二日目の報告は、11月16日UPの予定。
参考図書
○高根村史(1984)
○開田村史(昭和55年)
○木曽福島町史(昭和58年)
○伊藤正起「木曽馬とともに」平成8年
○黒田三郎「木曽馬ものがたり」昭和52年
○吉永みち子「もっと馬を」1990
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