石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

124伊勢路の石仏-3(金剛證寺続き)

2016-07-13 06:01:02 | 石仏

本堂から右へ、真っ直ぐ進む。

参道は、光り輝く緑に覆われている。

右手の作業所で男が二人材木を削っている。

気にも留めず、通り過ぎたが、彼らが何の作業をしているのか、このあと気付くことになる。

参道を跨いで、白い石門が立ち、その上に朱色の建物。

扁額には「極楽門」とある。

そして、楼門の右脚には「塔婆供養所奥の院」の看板も。

傍らの説明板には、こうある。

この門をくぐった者は、仏さまの慈悲の誓願によって、すべて皆極楽浄土へ往生せしむるという悲願によって建てられたものである」。

主語と述語が交錯する悪文だが、意味は分かる。

本堂前の仏足石では「千年の罪も消滅し」、福丑に触って「福徳智慧増進し、健康になる」現世利益に与ったばかり。

今度は、門をくぐれば「極楽浄土への往生間違いなし」と来世の安寧までも保証される有難さ。

「南無阿弥陀仏」を唱える必要もなく、ただこの門をくぐればいいというのだから、笑いが止まらない。

安請け合いしすぎではないかと心配するのは、根性が曲がっているからだろうか。

また、余計なことで足踏みをした。

本筋に戻そう。

金剛證寺が両部神道に基づく神仏習合の聖地、伊勢神宮の奥の院的存在であることは、先述した。

そして、この極楽門から先は、また別な奥の院となるのです。

この奥の院を支配しているのは、山中他界観と仏教の混合思想。

古来日本では、死者の霊は山中にとどまるとの山中他界が信じられていた。

伊勢地方の人たちにとって山中とは、朝熊岳を意味し、岳参りは先祖参りだった。

この山中他界観に、塔婆を建てて供養することで先祖の霊は成仏するという仏教思想が結びつく。

その具現化が、極楽門から奥の院まで続く卒塔婆の群立光景。

寺に訊いたところでは、その数、およそ2万本。(金剛證寺では「霊」と数えることもあるらしい。つまり、2万霊)

葬儀のあと、寺に申し込めば、戒名と施主名を書いた塔婆を建立してくれる。

ただし、奥の院も格差社会であることは否めず、ピンは50万円(幅580㎝、高さ7.8m)からキリの1万円(幅9㎝、高さ1.8m)まで。

これは、7回忌まで保存(つまり6年間保存)の塔婆料金で、保存期間が3か月未満ならば、5000円から1000円まで、1か月でいいやと思えば、500円で済む。

500円でも50万円でも、先祖の霊を供養することにおいてその効力に差はないのか、あの世に行って見ないことには判らない。

だから、必然、塔婆林は、この世に生きる施主さんの自己PRの場となって、美空ひばりや石原裕次郎、ご当地鳥羽一郎、山川豊の施主名がある塔婆は、最高ランクだった(である)といった都市伝説(田舎伝説?)が流れることになる。

「赤福の塔婆も大きいよ」とすれ違いの地元の人が教えてくれたので、探したが、見つけられなかった。

供養するのは、先祖霊だけではない。

「安全航海/大漁満足/為捕獲魚類一切精霊」とあるのは、漁師が施主の塔婆だろう。

当然、犬猫の卒塔婆もある。

参道わきの作業場で、木材にカンナをかけていたのは、この塔婆作りだったことになる。

 

奥の院に向かって左手の崖地は、墓域になっている。

この五輪塔群は九鬼家の墓地。

九鬼家は、関ヶ原の戦いで親子が東西に分かれ相戦い、敗れた父が伊勢湾の答志島で自害をした。

地元では有名な人物らしいが、私は興味ないので、素通り。

代わりに、興味深い墓があったので、紹介する。

極楽門をくぐってすぐ左、塔婆の壁の手前の墓域にある石碑に目が吸い寄せられる。

「アア
 戦死ヤアワレ
 兵隊ノ死ヌルヤ アワレ
 コラヘキレナイ サビシサヤ
 君ノタメ
 大君ノタメ
 死ンデシマフヤ
 ソノ心ヤ   竹内浩三」

一見、反戦詩のように思える。

右隣には「竹内浩三墓」があり、左側面に字が彫られている。

「  遺稿中ヨリ 昭和十四・一一・二一作
 私の好きな三ツ星さん
 私はいつでも元気です
 いつでも私を見て下さい
 私は諸君に見られても
 はづかしくない生活を
 力一杯やりますよ」

帰宅して、「竹内浩三」をネット検索。

大正10年生まれ、地元伊勢の詩人だった。

昭和20年4月、フィリピンで戦死した(戦死公報)ことになっている。

23歳だった。

いつでも紙があれば、詩を書き留めていたらしい。

徴兵されても。この詩作は続いていたという。

思想的な反戦詩というより、生活詩を書いたら、死ぬのはいやだという心の叫びが文字になった、そんなことのようだ。

石碑は「骨のうたう」という詩の一部。

全文を載せておく。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

他にも心打つ詩が沢山あるが、その紹介は、このブログの趣旨を外れるのでしません。

関心ある人は、ブログ「五月のようにー天性の詩人竹内浩三」http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/index.html

をご覧ください。

駐車場へ向かう道の途中に石仏群。

中に1基、興味ある石塔があった。

「奉納 大乗妙典六十六部
 内宮外宮朝熊岳千日参」。

享保9年(1724)、志州坂崎村の沙門自性という人が造立したものだが、注目は、千日参りの内容。

沙門自性なる出家者が、伊勢神宮の内宮、外宮を参詣し、朝熊岳を上って金剛證寺にお参りすることを千日続けたということ。

千日参りは全国各地にあるが、特定の神社か寺院を参詣するもので、神社と寺院混在のコースはめずらしいと言えるのではないか。

その1基おいた左にも「千日参」の石塔がある。

 

最後に、「おちんこ地蔵」。

旧参道を上り切った、山門前の石仏群の中にある。

文字通りオチンチンをもろ出ししたお地蔵さんだが、右に「大乗妙典」、左に「二千部供養」とある。

いかなる謂れがあるものか、寺に訊いたが、分からないとのことだった。

看板には、「子宝授け」の地蔵とあるが、像容と効能がストレート過ぎて、ひねりがなさすぎる。

オチンチンだけに限って言えば、前の地蔵の方が明らかに巨根。

願うなら、粗チンより、巨根の方が「効く」ように思うけれど、こんなことを云うから「不謹慎だ」と叱られることになる。

*次回の更新は、7月19日です。

 

 

 

 

 

 

 

 


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