石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

110比叡山延暦寺の石造物(二)東塔

2015-09-03 05:42:57 | 石仏めぐり

このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルの2回目です。

根本中道への坂道の上に道標がある。

指さしの絵の下に「宿院 半丁 坂本 廿九丁」とある。

半丁さきの宿院とは、すぐ先の「宿坊延暦寺会館」のことだろうか。

朝早いせいか、広い坂道に人影はない。

眼下に目指す根本中堂があるという意外性がいい。

大抵、階段を上って、その上方に本殿を仰ぎ見るのが普通なのに、ここでは見下ろしながら、下りてゆく。

視野が広がって、気分は爽快。

そういえば、西塔も横川も、駐車場から聖地へはいずれも下って行くが、あれは意図的なコース設定なのではなかろうか。

根本中堂は、撮影禁止。

中庭があるが石造物はないので、撮影OKでも撮りたいものがないことになる。

根本中堂の前に、比叡山にしては珍しく、石像と銅像がおわす。

 

いずれも伝教大師最澄で、銅像は子供の頃のお姿。

傍らの説明板の内容。

伝教大師童形像

昭和12年、比叡山開創1150年を記念して建立されたものです。伝教大師のご遺訓に

我れ生まれてよりこの方 麤(そ)言(荒々しいことば)なく 手に笞罰(むちで打つ)せず 今我か同法(道を同じくする者)童子を打たずんば 我が大恩となさん 努力せよ 努力せよ

とあります。

 伝教大師の児童に対する心を世に伝えるものとして 全国小学校児童の一銭醵出金によって
建立されました

 石像の横の縦長の石碑は、最澄直筆の「山家学生式」全文。

「山家学生式(さんげがくしょうしき)」とは、比叡山の修行僧のために最澄が書いた規則。

 碑文とその意味を載せておく。

 『山家学生式』書き下し文

 古びた石段を上がった高台にあるのが、宮沢賢治歌碑。

 

1921年春、賢治は父に誘われて比叡山に登った。

父は熱心な門徒であり、息子の賢治は日蓮宗に心酔していて、父子は宗教面では、対立していた。

親鸞と日蓮に共通項があるとすれば、そのルーツは比叡山にあるということ。

果たして、比叡山で父子の距離は縮まったのだろうか。

 

ねがはくは
妙法如來
正遍知
大師のみ旨
成らしめたまへ

    宮沢賢治

毎年、9月21日の賢治忌には、この歌碑の前で、比叡山延暦寺が法要を執り行うのだそうです。

 

宮沢賢治歌碑の更に奥に入ると鳥居があって「星峯稲荷」の石柱が立っている。

 

 

稲荷は寺の鎮守だというが、最澄が比叡山の鎮守としたのは、山王神社だったはず。

 

それなのに比叡山の中核ともいうべき根本中堂に近接して、なぜ、稲荷社があるのか。

 

私には理解不能。

 

稲荷社だから、当然、狐がいる。

 

獰猛な顔だが、どんな意味があるのか。

 

 

石造物だから、載せておく。

 

もと来た道を戻る。

 

根本中堂対面に急な石段。

 

振り返ると根本中堂が俯瞰できるのだが、両側から覆いかぶさる木の枝葉で全体は見えない。

 

 

石段の上は文殊楼。

 

境内に亀趺塔がある。(「NO35 亀趺」をご覧ください)

 

 

 

 

根本中堂から坂道を上って、広場に戻り、大講堂へ向かう。≪続く≫

 

 

 


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