言問通りを根津方向へ向かう途中、右手の東大浅野キャンパスの外側の一画に石碑が立っている。
「弥生式土器発掘ゆかりの地」。
◇弥生式土器発掘ゆかりの地」碑(弥生2-11)
弥生式土器は、東大周辺の弥生町で発掘されたので、地名を取って弥生式と命名された、と中学校で習った。
65年も前のことです。
「あ、ここがその場所なんだ」と改めて碑文を読むが、なんだかすっきりしない。
それは、「弥生式土器発掘の地」ではなく、「発掘ゆかりの地」であるから。
「ゆかり」は、「たどっていけばなんらかのつながりがある」というような意。
関係のあるなしを問われれば、「ある」のだが、ピンポイントでここだ、というほどの明確さはないということになる。
言問通りの反対側に白い立て板があるので、道を横切って近づいてみる。
なんとこちらは文京区教育委員会による「弥生式土器発見の地」の案内板。
内容は、ここがその発見地だ、というのではなく、3か所ある推定地の説明のようです。
こうした大切な説明板が、なぜ、「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑の傍に建てられていないのか、不思議でならない。
弥生式土器の発見地 |
提供: 文京区教育委員会 |
この説明板の不可解な点は、「急激な都市化で不明確になった発掘地点だか、推定地としては3か所があげられる」と明示しながら、推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる」と最後に否定していること。
推定地の根拠とされる「不忍池が見下ろせる崖地」は、発見者の一人坪井正五郎が『東洋学芸雑誌』に載せた貝塚スケッチの説明文が「向ヶ丘貝塚より上野公園をのぞむ景」に由るもの。
説明板の地図に従い、現地へ行ってみた。
①のサトウハチロー旧宅跡は、そもそも、なぜここが推定地であるかの説明がないのだから、ここから不忍池が見えないからといって、否定するのもおかしい話ではないか。
③の根津小学校裏の崖地は、フエンスがあって、入れない。
校庭を見下ろせる異人坂の上からは、不忍池を見ることは、方角的に無理のようだ。
最も信ぴょう性が高いと思われるのは、東大浅野キャンパス工学部9号館東側の空き地。
そもそもの「弥生式土器発見ゆかりの地」碑も、浅野キャンパス西北の隅に建てられている。
言問通りから構内に入る。
こんなところにも東大があるとは知らなかった。
工学部9号館は、構内最大のビルで、その東側には、草地が広がり、巨木が聳えている。
説明板がある。
昭和 49年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根本から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われた。そして明治 17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土し、昭和51年に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。
この「弥生二丁目遺跡」も弥生土器の発見地として有力視されている。
立ち入り禁止なので近寄れなかったが、巨木からは不忍池が見えるように思える。
ここが「ゆかりの地」の中で最適地と思われるが、どうだろうか。