カ行とラ行を組み合わせたオノマトペは、軽快感がある。
カラコロ、キラキラ、コロコロ・・・
クリカラも耳で聞く分には軽いが、文字を見ると中々の重量感だ。
「倶利伽羅」。
それに、龍王がついて、「倶利伽羅龍王」。
その威圧感は並大抵ではない。
倶利伽羅龍王というと、私は、目白不動の金乗院(豊島区高田)境内にある倶利伽羅龍王を、思い浮かべます。
人の肩くらいの高さか、剣に巻き付いた龍の姿が、実に堂々としている。
龍の顔が人間くさい。
足元の三猿の表情が、いたずらっぽいのもいい。
三猿ということは、この倶利伽羅龍王は、庚申塔の主尊だということになります。
それもまた極めて珍しいことで、石仏愛好家が撮影に夢中になるのも無理からぬことです。
野仏ブームの火付け役、若杉慧氏の『石仏のこころ』に、この倶利伽羅庚申塔のページがあります。
すこし長くなりますが、引用しておきます。
「如来が本来のすかだで現れ給うを自性輪身(じしょうりんしん)、菩薩のすがたをとって救いくださるを正法輪身(しょうぼうりんしん)、またどうしても仏法に従わないのみか反抗したり悪口をいったりする極悪の輩を教化するため憤怒の相をとって臨まれるのを教令輪身(きょうりょうりんしん)と呼ばれている。輪には高大なる容貌という意味がある。
何々明王と名のつくものはすべてどの如来かの教令輪身なのであるが、その中でも不動明王は大日如来の教令輪身として、密教ではこれを本尊としているお寺も少なくない。民間においてもひろく尊信され、お不動さんの名で呼ばれ、そのお堂もあちこちに建てられている。
不動明王の持つ利剣だけを独立した尊体とし、これに黒龍が絡まってまさに剣を呑まんとする状(ありさま)を示したものを倶利伽羅不動または倶利伽羅龍王と呼ぶ。クリカラは梵語で黒龍の意味だそうだ」。
「極悪の輩に憤怒相」は「北風と太陽」の北風に相当する。
仏教本来の教義か、インド民俗信仰からのものか、いずれにせよ、分かりいいが、効果のほどは疑問符がつく。
話し変わって、私の住まいは、東京・板橋。
20代の通学、通勤の足は、東武東上線でした。
都営地下鉄三田線の開通で、東上線を利用する回数は減ったものの、地元の電車のイメージは強い。
だから「東上線」の文字を見ると、つい目が留まってしまう。
先日、目にしたのが「埼玉県を走る東武東上線に沿って倶利伽羅龍王を訪ねる」。
『日本の石仏』という季刊誌の目次を目で追っている時のことです。
著者は、さいたま市の長島誠さん。
富士見市から東松山市まで、東上線沿いに8基の倶利伽羅龍王の紹介記事。
記事を片手に、早速、行って来ました。
以下は、その探訪記。
参考記事があるのに「探訪」とは大げさだが、長島氏の紹介記事は、住所がなくて、町名どまり。
行き着くのに何度も人に訊いて一苦労したので、これは「探訪」記なのです。
①栗谷津公園(富士見市針ヶ谷1-4)
結構な広さの公園なのに、地図には記載されていない。
農地が残っている住宅地の中に、公園はある。
谷津とは、アイヌ語で低湿地帯のこと。
公園はすり鉢状の窪地で中央に池。
池の水は、西側の崖下から湧き出ています。
湧き出る水は、水底がくっきりと見えるほど透明ですがすがしい。
湧出源の脇に覆い屋があり、中に倶利伽羅龍王がおわします。
飛び石伝いに覆い屋へ。
注連縄がはられ、倶利伽羅龍王の足元には供花が見えます。
今でも信仰が続いている証でしょう。
石柱の上半分に剣を呑みこむ龍王、下に「倶利伽羅不動明王」の文字。
地域の世話人6人によって、嘉永元年(1848)、造立されました。
倶利伽羅龍王の横に、由来を記す石碑が立っている。
「この泉は、近隣農家の飲み水として欠かすことのできない水源であり、また、下流の水田数町歩にわたる田作り用水として利用されておりました。
不動明王の石塔は、利剣に龍が四つの掌を絡ませて巻き付き、剣先を呑まんとするその背後には火焔が燃え上がった状態が倶利伽羅不動明王の象徴である。
これは昔、不動明王が外道と論争した時、智火剣に変身し、あるいは更に倶利伽羅大龍に変身し、敵を威圧して屈服せしめた。また、竜王に祈れば、雨を降らせ病気を治す、このような教理を祈願し、日願主、各組世話人の六人により嘉永元戌申六月、この石塔が建立された。(以下略)」
②跡見女子大下の中野バス停脇(新座市中野1-5-8)
東上線朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換える。
午前9時過ぎ。
車内は若い女性でいっぱい。
隣の新座駅で降りたら、彼女たちもぞろぞろ降りる。
跡見女子大の学生たちで、ここ新座駅前から出ている大学バスに乗るためです。。
私の目的地は、跡見女子大のすぐ下。
バスに乗れれば便利なのだが、そうはいかない。
と、書くとバスに乗りたいみたいだが、こんな女くさいバスは、こっちが願い下げにしたい。
川越街道を、川越方向に歩き出す。
丁度、2時限の始まる前あたりで、満員の大学バスが次々と追い抜いてゆく。
20分ほど歩いただろうか、中野バス停が見えてきた。
バス停の左脇の狭い道を下りると川にぶつかる。
橋を渡って左へ50mほど。
湧水が出ているが、地面から突き出たパイプから水が出るばかりで、情緒に欠けること夥しい。
パイプの上に目を転じると、去年の秋の落ち葉の茶色の中に石仏が数体見える。
左から、不動明王、衿羯羅童子、倶利伽羅龍王。
衿羯羅童子の相棒、制叱迦童子は不動明王の左、離れた場所にあり、フレームに入っていない。
龍王は小ぶりながら味がある。
顔全面が髭に覆われている。
バックの木の葉模様は、火焔だろうか。
宝暦10年(1760)造立と刻されています。
③仙波河岸史跡公園(川越市仙波町4-21-2)
写真は、新河岸川。
この川の左に仙波河岸史跡公園がある。
新河岸川から荒川経由江戸への舟運は、川越地方からのメインの物流手段でした。
地図は、「川越の観光と地域情報WEBカワゴエール」より借用
川越がある武蔵野台地は、坂道が多く、荷馬車による運搬には難儀が伴ったといわれています。
その解決のためには、新河岸川のできるだけ上流に物流拠点としての河岸が必要でした。
同時に船が通行できる運河の開削も不可欠でした。
運河と河岸の両方が完成したのが、明治10年(1880)、それからほぼ半世紀、昭和2年(1927)まで流通の集積地として、仙波河岸は機能してきました。
写真は、「カワゴエール」より借用
仙波河岸は、川越の町からもっとも近い河岸でした。
その仙波河岸史跡公園へ。
どうやら道を間違ったようで、行き止まりに。
右手にウッドデッキの通路があるので、進んでゆく。
左手に池のように湿地帯が広がっていて、どうやらこのウッドデッキは自然観察のための通路らしい。
通路が終わるとそこが、仙波の滝。
現状からは想像できませんが、水量豊かな滝が流れ落ち、その滝口に仙波河岸がありました。
倶利伽羅龍王は、河岸の最奥の崖下におわします。(白い立て看板の横奥)
火焔の形に切り込まれた石塔に、やや細見の龍が剣に巻きついています。
剣の下に「志多町鈴木権左◇◇」、左下に「六軒町 志き町◇中、十二人」と彫られている。
近寄って見る龍の顔には、疲れがにじんでいるように私には見える。
龍にもストレスがあるようだ。
④薬師堂(川越市豊田本570)
「車で行かれる方は、川越水上公園を目指して行かれると良い」とガイドにはある。
問題は、水上公園から薬師堂への道順なのだが、それは書いてない。
ものすごく不親切なのだ。
お寺の人ならご存知かもしれないと淡い期待を抱いて、通りがかりの善長寺を訪ねる。
これが正解だった。
住職夫人の書いてくれた地図通りに行くと薬師堂にぶつかった。
お堂以外の建物はなく、ポツンとわびしげな佇まい。
肝心の倶利伽羅龍王は、石灯籠の傍におわす。
これまでの3か所全てが水辺だったが、ここには水気はない。
倶利伽羅龍王は「水神」だから、水気のない場所での造立は考えにくい。
昔は、川か池が、近くにあったのだろう。
アップにしてみると龍の耳や指は、極めて人間くさい。
顔も、どこかで見た、誰かの顔のようでもある。
倶利伽羅龍王の背後から見た景色。
建立された宝永年間、見渡す限りの水田だったはずの景色には、ビルが建って、視界が遮られている。
⑤白髭神社(川越市吉田96-7)
道路から白髭神社を拝む。
反対を向くと「吉田白髭緑地」と書いた標識がある。
その傍らの階段を降りると湧水が出ていて、その湧水の守護神のように倶利伽羅龍王がおわす。
太くどっしりとした胴体が像に安定感を与えている。
造立は宝暦9年(1759)、一つ前の薬師堂の石像より1年前に造られたことになります。
龍が見る風景は、すばらしい。
湧水が流れ下る水路はきちんと整備され、春の草花が色鮮やかに咲き乱れている。
その先には肥沃な水田が広がって、まるで平和で豊かな春を絵に描いたような風景なのだ。
⑥青蓮寺(東松山市正代852)
寺の駐車場に車を止めながら、既視感をぬぐいきれない。
参道を歩いてても、一度来たことがあるような気がしてしようがない。
青蓮寺の墓地は、山門前にある。
倶利伽羅龍王は、墓地の南はずれ、石段を下りたところに祠があり、その中に佇んでいる。
横には、湧水が出ていて、それを貯める小さなため池がある。
シチュエーションは、白髭神社に似ているが、景色はこっちの方が一段落ちるようだ。
龍王の像容は、どれも似通っているように思える。
石塔を切り込んで火焔を表現するのは、仙波河岸史跡公園のものと同じ。
狭い地域だから、石工と時代が違っても、ついつい真似てしまうのかもしれない。
撮影を終えて、寺を離れたらうどん屋の看板が目に入った。
そういえば、この店でうどんを食べた。
客がいなくてガランとしていたな、と思い出した。
やはり青蓮寺には来たことがあったのです。
帰宅してフアイルをチェックしたら、倶利伽羅龍王もちゃんと撮ってあった。
その倶利伽羅龍王を見ても記憶が甦らないというのは、最悪ではないか。
個人的資質なのか老化なのか、いずれにせよ、なさけなくって涙がでる。
⑦東松山スイミングスクール(東松山市上野本1955-1)隣の不動沼
ここの倶利伽羅龍王の撮影には行かなかった。
長島氏の記事の写真を見て、一度、訪れたことがあると思い出したからです。
同じ東松山市でも青蓮寺のは忘れて、不動沼のは記憶している。
不思議なことだが、思い当たる原因は一つ。
不動沼の倶利伽羅龍王は、迫力ある造形で脳裏に焼き付いていたからです。
道路に面してスイミングスクールがある。
スイミングスクールの左は不動沼。
スクールと沼の間を進んでゆくと右手に祠がある。
祠の中に丸彫りの倶利伽羅龍王。
丸彫り龍王は珍しい。
私は初めて見た。
これまでの6体の龍王とは、顔容が異なるのが最大特徴か。
所々に色が残っていて、元は全身が彩色されていたことが判る。
身体に張り付く朱色は火焔だろう。
右肩に押さえつけているのは、宝珠か。
おどろおどろしい像容は一度見たら忘れられない。
不動沼は、水田灌漑のためのため池。
旱魃を恐れる農民たちによって水神として、倶利伽羅龍王が祀られたようだ。
東松山市教育委員会の解説版があるので、転載しておく。
「倶利伽羅不動尊
躍動する胴体をもつ黒龍が利剣にからみ、剣先から飲み込もうとしています。その左かたには鋭い爪を持った龍の手が、宝珠をわしづかみにしています。これが倶利伽羅不動尊であります。
倶利伽羅とは、インドの伝承で頭に半月を戴く、黒褐色の龍王であるといわれます。
倶利伽羅不動尊は、滝口や清水の湧出する水辺などに祀られることから、水神として造像されるものが多く、他に不動信仰に基づいたものがある。」
この解説版は「倶利伽羅不動尊」。
「倶利伽羅龍王」と「倶利伽羅不動尊」は異なるものと思われるが、その差異をよく理解できる説明が見つけられなかった。
だから、同じものとして、扱うことにします。
⑧蟹山不動尊集会所(滑川町羽尾191)
羽尾を流れる市野川には、橋が6つもある。
ガイドには、羽下橋袂とあるが、持参の地図に橋の名前は載っていない。
地元の人でも、普段、渡る橋の名前は知らない人が多い。
何人かに訊いてやっとたどり着く。
蟹山不動尊集会所の場所は、市野川に面したお寺か、お堂の跡地のようだった。
集会所の横と背後には、多数の石造物が立っている。
倶利伽羅龍王はその中の一つで、目立つ存在ではない。
長い髭は、今回回った8体で初めての像容。
品のあるイケ面で、指はスパナ状であることが特徴か。
「明治九丙子八月吉日」と刻されている。
集会所裏の小高い盛土の上に「御嶽蔵王大権現」の石碑。
スロープには、御嶽蔵王大権現の脇神である三笠山刀利天宮やその創始者普寛行者や覚明行者の文字塔が乱雑に立っている。
三笠山刀利天宮 普覚大行者
かつてこの地域には、熱心な御嶽講があったことを偲ばせるのだが、表通りからはそうした石造物があることは一切分からない。
まるで恥ずかしいものを隠すかのような感じがそこにはある。
倶利伽羅龍王は、水神だから川や池、沼、湧水、滝などの傍に祀られる。
今回回った東上線沿線は、特にそうした水のある風景が多い地域ではないが、倶利伽羅龍王だけでなく、弁財天、宇賀神、水天宮など水に関係が深い神仏が数多く祀られています。
私の写真フアイルには、「富士見市の弁財天」として10基の弁財天があります。
いずれも水に面していて、今回も付録として載せるつもりでしたが、記事の容量を超えるため止めました。
≪参考図書≫
○長島誠「埼玉県を走る東武東上線に沿って倶利伽羅龍王を訪ねる」『日本の石仏』NO1422012年夏号