◇田端八幡神社(田端2-7-2)
かつての神仏混合の名残を、これほど、意識させる光景も少ないだろう。
右が「田端八幡宮」。
左が、「東覚寺」。
今は、白壁で仕切られているが、昔は一体だった。
なにしろ、現在、東覚寺の名物・赤紙仁王は、その昔、八幡神社の参道入口に立っていたのです。
神仏分離令で、東覚寺へ移されたのでした。
一の鳥居の前には、なにやらコンクリート製の、橋の欄干状のものが、突き出ている。
昭和初期、八幡神社から200m南を東西に横切る谷田(やた)川の暗渠工事で不要になった橋を移転してきたもの。
さらに進むと参道は分岐して、左の石段は、男坂、そして右の女坂は、緩いスロープの富士塚となっている。
頂上には、富士塚の奥宮・浅間神社がある。
毎年、2月20日には、富士講の初拝みが行われる習わし。
神仏混合といえば、富士塚を上って左の不動明王は、その最たるものか。
普通、神社に不動明王はありえないから、神仏混合時代の痕跡と考えてよさそうだ。
本殿が新しいのは、平成5年に建立されたものだから。
昭和20年(1945)の東京大空襲で本殿は焼失、昭和36年(1961)に再建されたばかりなのに、平成2年またもや焼失した。
放火による惨事だった。
犯人は、左翼過激派。
即位の礼に反対して、神社放火という暴挙に出た、その愚行のターゲットとされてしまったという不幸。
男坂の階段を下りる。
途中、左側に自然石の石碑がある。
「皇孫殿下御降誕記念碑/大正十四年12月6日」とある。
皇孫殿下とは、昭和天皇第一皇女照宮成子(てるのみやしげこ)内親王のこと。
◇真言宗豊山派・白龍山東覚寺(田端2-7-3)
門前の真っ赤な物体が、先ず、眼に入る。
。
もともとは、阿吽の仁王像なのだが、赤紙がベタベタ張られて、元の金剛力士像はその一部も見られない。
通称赤紙仁王と呼ばれるこの仁王は、病を患う人がその患部に相当する仁王の体に赤紙を張ると治癒すると言われている。
疫病が流行った寛永年間に造立され、以降400年間、赤紙が張られない日はなかった。
御利益があって、治癒した場合は、お礼にわらじを供える習わしで、わらじかけも満杯のようだ。
八幡神社との仕切りの壁沿いに、不動明王とせいたか童子、こんがら童子脇侍。
山門を入る。
そんなに広くない境内だが、石仏の数は多い。
浮彫如意輪観音。
観音頭部。
銅製千手観音。
弘法大師一千五十年御遠忌祈念塔。
大日如来。
文殊菩薩。
弘法大師銅像。
大師稚児像。
二宮尊徳。
水子地蔵。
阿弥陀如来。
そして、なぜか、蜀山人(太田南畝)の狂歌碑がある。
文化14年造立の「雀供養之塔」。
資料によれば
「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」
と彫ってあるらしい。
漢字に直せば、(群雀 騒ぐ千声も 百声も 鶴の林の 鶴の一声)ということか。
鶴の一声とは、将軍の命令を指すのだから、言論統制風刺の狂歌だとする解説もある。
本堂に向かって左にある石造物3基は、
右から
九品仏/第二番/阿弥陀如来
中央は
享保3年(1718)造立の庚申塔
左は
西国二十九番丹後松尾寺写
ひと際目立つ銅製観音像は、鼓翼(はばたき)平和観音像。
戦時中群馬県の島温泉に集団疎開をした滝野川第一小学校の元生徒たちが平和を祈念して、平成7年(1995)に建立したもの。
鼓翼平和観音の前におわすのは、馬頭観音。
山門を出て、右へ曲がると塀際にも石仏がある。
育児/地蔵
六地蔵