先日、A師から平安時代の高僧仁海僧正の母親の輪廻転生ことをききました。
「平安中期の真言小野流の祖仁海は小野に牛皮山曼荼羅寺(現在の随心院)を創建したが、これは亡母の生まれ変った牛を夢に見てこの牛の死んだ後に皮に両界曼荼羅を書き、本尊にしたためこの名がついている。生まれ変わりはある。しかも人間だから人間に生まれ変わるというものではない。動物にうまれかわることもあるぞ」というものでした。
仁海僧 . . . 本文を読む
第四節
四、ものが平等であって差別のないことを空という。ものそれ自体の本質は実体がなく生ずることも滅することもなく、それはことばでいいあらわすことができないから、空というのである。
すべてのものは互いに関係して成り立ち、たがいによりあって存在するものであって、ひとりでなりたつものではない。
丁度、光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、ものそれじたいの本質がただひとりでありえるというものでは . . . 本文を読む
第四節
三、さとりには決まった形やものがないからさとることはあるがさとられるものはない。
迷いがあるからさとりがというのであって、まよいがなくなれば悟りもなくなる。迷いを離れて悟りはなく、悟りを離れて迷いはない。
だから悟りのあるのはなおさまたげとなる。闇があるからテラスということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすと照らされるものとともになくなってしまうのがさとりである。
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第四節
二、道を修める生活にとって大切なことは両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
すべてのものは生ずることもなく、決まった性質のないものと知って、とらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。
とらわれないとは握り締めないこと、執着しないことである。道を修めるものは死を恐れず、また生をも願わない。この見方、あの見方とどのような見方のあとも追わないの . . . 本文を読む
第四節
一、道を修める者としてさけるべき二つの生活がある。その一は欲望に負けて欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を離れて心眼を開き、智恵を求め、さとりに導く中道の生活がある。
この中道の生活とはなにか、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の八つの正しい道である。
すべてのものは縁によって生滅するもの . . . 本文を読む
第三節
四、無量の因縁により現れたものが永久にそのまま存続すると信ずるのは常見という誤った考えである。またまったくなくなると信ずるのは断見という誤った考えである。
この断・常、有・無はものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものはもともとこの執着の姿を離れている。
ものはすべて縁によって起ったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永久不滅ではない。移 . . . 本文を読む
第三節 真実の姿
三、 すべてのものは来る事もなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ失うこともない。
仏は「すべてのものは有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなければ滅することもない」と説く。
すなわちすべてのものは因縁によって成り立つ。ものそれ自体の本性は実在性がないから有にあらずといい、また因縁から成り立っているので . . . 本文を読む
第三節
三、すべてのものは来る事もなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、従って得ることもなければ、失うこともない。
仏は「すべてのものは有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわちすべてのものは因縁からなっていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから有にあらずといい、また因縁からなっているので無でもないから無にあら . . . 本文を読む