福聚講

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今日5月7日は勤操大徳が七十四歳で入滅された日です

2024-05-07 | お大師様のお言葉

今日5月7日は勤操大徳が七十四歳で入滅された日です
天長四(827)年五月七日に大僧都であった勤操大徳が七十四歳で入滅されています。

お大師様の『性霊集「故贈正勤操大徳影讃」』に勤操大徳について記述されています。
「故贈正勤操大徳影讃
いかだはよく済し、車はよく運ぶ。しかれどもなお、御する人なければ遠きに致すこと能わず。柁の師なければ深きを越ゆること能わず。道もまたかくの如し。人を導くものは教なり。教を通ずる者は道あり。道は人なきときはすなわちふさがり、教は演ぶることなきときはすなわち廃る。百会未だ誕れざりしかば 瞻部(南瞻部州)一乗の雷に聾い、千部(竜樹菩薩)生まれざりしかば印度八不の日に瞽たり。童寿(鳩摩羅什)錍(べい、眼病治療の時の細い金属棒、、ここでは教えの事)を投げしかば、支那無起(涅槃)を覚り、蔵慈(智蔵と道慈)
炬を把りしかば、陽谷不異を識りき(日本は三論宗を知った)。いわゆる人よく道を弘むという、この言は実なるかな。

ここに一の薪を伝ふるものあり。法のいみな、勤操。俗姓は秦氏なり。母は嶋の史、大和州の武市のひとなり。はじめ母氏嗣なし。中心にこれをうれふ。しばし駕龍寺の玉像の前にもうでて香花をもてまことを表し、精勤して息をいのる。夜の夢に、明星懐にいる。遂にすなわちはらむことあり。法師うまれていまだいくばくもならざるに、耶(ちち)はやく棄背しき。孤露にして帰なし。母氏鞠養す。年はじめて十二にして大安寺信霊大徳についてわが師となす。景雲四年の秋、勅あって宮中および山階寺にして千の僧を度す。法師千勤の一なり。十六にして閑寂を渇望し、きょう塵(うるさいところ、俗なところ)を厭悪す。ついに忘帰のおもいをいだいて南嶽の窟にのぼる。弱冠におよぶころ、親教(大安寺の信霊大徳数)しば召して具足(具足戒、沙弥から比丘になるとき授かる二百五十戒)を受けしむ。入壇ののち、おなじき寺の三論の名匠善議大徳について三論の幽蹟をうけしむ。つとめ十年をへたり。かの大徳は故入唐学法沙門道慈律師の入室なり。公、篋をび訶(びか、僧院)のなかに鼓いて、念を巌薮の裏に摂む。寸陰を擲たずして二利これ競う。鶴の響き聞こえやすく、高天卑きに聴く。弘仁四年抜きんずるに律師をもってす。皇帝、法師を大極殿に屈して最勝(金光明最勝王経)を講ぜしむ。講じおわるの日、さらに紫宸殿において諸宗の大徳を集めて旗鼓を挙げしむるに(教論させる)、公をもって座主となす。すなわち義を立つ(議題を出す)。三論はこれ祖君の宗(法相宗に対して三論宗は祖先にあたる)。法相はすなわち臣子の教なり。何となれば阿僧(阿僧伽、無著のこと)は龍猛の中観を釈し、護法は提婆の百論を註する、ならびに帰命阿闍梨と称するが故なりと。時に敵宗の名将刀衂(へ)からし(折れ砕けて)、旗なびかす。皇帝これを歎じて即ち小僧都に任じ、造東寺の別当を兼ぬ。今上、堯の揖譲に膺(あたっ)て(堯のように嵯峨天皇が淳和天皇に譲位された)、舜の南風を扇ぐ(淳和天皇が嵯峨天皇の善政を受け継ぐ)。公、智あって弁なり。恭にして謙なり。人を導いて倦まず、物を救うに方便あるをもって、これを大僧都に擢んでて造西寺に転ず。公、位いよいよ高くして志逾(いよいよ)下れり。晏嬰の雌を守るがごとく(斉の名宰相・晏嬰が質素であったように質素)、囉雲の忍辱に似たり(忍辱第一といわれた羅睺羅尊者のように忍辱した)。四量(四無量心)を衣となし、一如(一切皆空)を座となす。無住の騎に乗って、この不二を唱え(無所得空の教えにより八不を唱え)、有為の人を慨いて彼の三空(無性空、異性空、自性空)を談ず。所有の善業ことごとくみな鑽仰す。あるいは勤めて煖子(断し、炬燵)を造って諸寺に普く施し、あるいは老僧の衣を設けて一心に供養す。あるいは倭曲(和讃)を整えもって義成(一切義成就菩薩)を沐浴し、あるいは漢楽を奏して、詞は能
仁に享す(お釈迦様に奉る)。三千佛の名を礼すること二十一年、八座の法華を講ずること三百余座、師吼の雅音を聞くもの腸を絶ち、迦陵の哀響見るもの愛死す。男女角い奔って発心し、華野に産を忘れて会を設く。職として悲調の感なり。如来の使わすところ、公にあらずして誰ぞ。もし乃し紫雲、塔に湧いて忠孝の感を表し、神艇海に泛んで歓声の応を現ず。心なくして扣くを待つこと貴賤を簡ばず。響を韞んで呼ぶに応ずる事昼夜を論ぜず(どんな質問にも答えられる智慧をもっていて響きにこたえるように答える)。
ああ如知の医王は、狂子によって影を滅し(如実知の仏は迷える衆生の為に滅度を示し)、大士(菩薩)の弘誓は酔児にしたがってもって迹を顕す。この界には憂苦すれども、
他境いは歓喜せん。電影駐りがたし。幻化誰か久からん。天長四年五月七日を以て中京西寺の北院において、奄然として化す(にわかに遷化)。春秋七十、﨟四十七、十日をもって東山の鳥辺の南の麓に荼毘す。この日、勅あって僧正を贈らる。詔、慇懃んり。九重哀悼し、四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)悲しみを含む。行路涙を掩い、尊卑肝を爛らす。知ると知らざると,だれか哀痛せざらん。弟子の僧等、丁氏の孝感を顧みて(丁蘭が親の像を刻んで仕えた)于邦の檀木を刻む(于填王が栴檀木で仏像を刻んだ故事)。日月に懸けんと欲して、詞を余が翰に憑む。貧道公と蘭膠なること春秋すでに久し。弘仁七年孟秋、もろもろの名僧を率いて高雄の金剛道場において三昧耶戒を授け、両部の灌頂に沐す。況やまた、祖宗はこれ一にして(三論の祖も竜樹、真言の祖も竜樹)法脈は毘季なり(法脈は兄弟)。筆を含んで述べんと欲するに覚えずして潜然(涙流れる)たり。佛城の将、人間の導、一に何ぞ早く帰って我を遺れつること唾のごとくなる。哀しいかん、哀しいかな。徳広くして跡繁く、道淵くして事多し。述者之を蔽す。三爻義を含まん(天地人が義を含む)。しかも偈を説いていわく、
菩薩菩薩体いずれにか似たる  顔容は酷だ世間の人に似たり
仏陀仏陀これいずれの色ぞ    面孔はあたかも諸趣(凡夫)の兪ともがらの如し。
吾が師の相貌は凡類に等しけれども 心行は文殊にして志は神の如し
三論懐に満ちて幻影を悲しみ 一乗(法華一乗)臆に韞んで梁津(救済者)を愛す
空裏の浮雲は幾か生滅する 圓中の紅蘂(園中の赤い花)は爾許(いくばく)の春ぞ
團團たる水鏡は空にして仮なり(水鏡に映る丸い月は満ち欠けして本来空である)灼灼たる空華はまた真にあらず(眼病のみる盛んな幻影華は真実に非ず)。
他の為にしか説いて常にこれを談ず 聴くもの歔欷(なげきいたむ)して苦身を厭う
去歳の鴻鴈(かり)は今歳も至りなん 東流の河水は返ることいずこの辰ぞ
夜の台寂寂として星霜久し 世を挙って風誦す これ公の塵
松柏りゅうりゅうとして猿の声切しきりなり 青鸞(佛音)の妙法誰に向かってか陳ん。
天長五年四月十三日」

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