今日は大師が役人の猟官運動に協力してあげた日です。
大師は人の世の深い苦しさを能くお分かりでした。役人の代筆をされた文に「死なんと欲すれども死なれず。天に訴へて生きなんと欲すれども生きられず」と書かれています。
人の官を求むるがための啓(大師が官位を求める官僚の代筆をされた文)
「某乙(注1)啓す。某乙聞く、巨石は重くして沈み、蚊虻は短くして飛ぶ。しかりと雖も巨石舟を得つれば深海を万里に過ぎ、蚊虻、鳳に附きぬれば高天を九空に翔る。遇と遇はざると何ぞそれ伏して惟んみれば我が右僕射馬足下(注2)鐘鼎(注3)代を累ねて一人に阿衡たり。よく仁ありよく恵ありて四海の父たり。允に文、允に智ありて万民の依たり。何ぞ仰止せざらん。某乙不幸にして時変に罹るに遇って外蕃に左遷せらる。農にあらず、桑にあらず、蚕食するもの多し。商にあらず、賈にあらず、蠧費(とひ・むしばみついやす)するもの衆し。先人(先祖)の田園は日々に男女の口に消じ、孝妣の舎宅は年々に僮僕の腹に尽きぬ。一両の親眷は千里の糧を給がず。四隣の知友誰か一朝の飢を済はむ。遂使(つひんじ)て妻妾は辺壌の塵と作り、僕従は行路の人となれり。影を弔ひて死なんと欲すれども死なれず。天に訴へて生きなんと欲すれども生きられず。涕は雨露ともに争ひ隕ち、形は木石と将んじて枯れ衰へぬ。常に歎くらくは辺壌の寃鬼(注4)とならんことを。ただ恨むらくは都下の生人とならざらんことを。
幸に春雨の平沢に沐して再び聖賢の闕下に入る(注5)。瓦石の望ここにおいて足んぬ。しかれどもなほ、人懸瓠にあらず。身金石にあらず。寒暑数々侵して身に体を覆ふ衣なく、烏兎代々謝して口に飢を支ふる食乏し。男女庭に満ちて朝な朝な苔を生す竈を歎き、僕隷舎に側ちて夜な夜な塵を飛ばすの甑を忿る。居諸荏苒として霜鬢颯然たり。星霜矢の如く、清河いずれの日ぞ。伏して乞ふ、江海の波瀾を翻して執鞭の一任(注6)を賜へ。しからばすなわち涸轍(こてつ)(注7)の途忽ちに江湖の鰭(ひれ)を掉(うごか)し、遊岱(ゆうたい)の魂乍に倚陶(いとう)が財に斉しからむ(注8)。今小願の至情に任へず。謹んで奉啓不宣。謹んで申す。
天長二年六月一日 前周防権守 啓上」
- 注1、藤原宗成。藤原北家。左大臣・藤原永手の曾孫。藤原三起の長男。官位は従五位上であったが伊予親王の変で流刑。その後許されたことは此の書状にもあるが、この御大師様代筆の嘆願書の功らしく、天長六年(829)には従五位下に叙爵されている。
- 注2,藤原緒嗣のこと、藤原式家。大師がこの陳情書を代筆された年天長二年825に右大臣になっている。
- 注3,功績
- 注4,恨霊
- 注5,大赦により聖賢のいる朝廷に召された
- 注6,低い閑職
- 注7,こてつ・水がなくなった轍
- 注8,死を司る大山府君がすむ岱山に遊ぶ魂のように死の近い自分の魂も倚頓や陶朱公という大金持ちと同じ喜びを感じる