福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「訓訳原人論・釈雲照」をもとに

2021-03-31 | 諸経

「訓訳原人論・釈雲照」をもとに

宗密禅師の略傳

・降誕、禅師は仏滅後千七百二十七年支那唐朝第九代代宗皇帝の大歴十四年(779)果州の西充(四川省南充市)に生まれたまふ。

・出家、幼より儒道を修学して業成り、まさに貢挙に赴かんとし、偶遂州大雲寺の道圓禅師に会通し、その禅法を味ひ遂に剃髪せらる。則ち第十二代憲宗皇帝の元和二年807禅師二十九歳の時なり。

・求法、その後円覚経を繙き未だ軸を終らずして大に感悟し、尋ねて清涼国師の華厳疏を覧て一言のもとに開通し、更に国師の門に入って華厳の宗派を嗣ぎ、大に教禅二學の蘊奥を叩きたまへり。

・化導、憲宗皇帝の元和十四年819韓退之が佛骨の表を上りて「佛は夷狄の人、口に先王の法言を謂わず、身に先王の法服を服せず、君臣の義・父子の情を知らず」と謗し、その他原道等を草して仏教を排斥せんとす。

又十五代文宗皇帝の大和元年827麟徳殿において大に三教(孔老釈)の対論あり、同九年835には僧尼の沙汰あり。尋で仏寺を毀し僧尼を還俗せしめ、仏教は漸次に衰へ、儒教と道教は之に乗じて勃興に気運に迎へり。この時に當たりて独り仏教の原底を究め或は多く疏抄を著し、或は広く経論を講じ、或は普く名邑大都に遊びて専ら法門の弘通に勤めしは宗密禅師なり。

・原人論の撰述、其の年代詳らかならずと雖も是亦他の理由あるに非ず。唯世人が韓退之等の文辞に迷て仏教の広大無辺の真意を無視し、儒教道教等の偏浅を修して以て仏教を破斥せんとするの徒を開導せんと欲するが為なるのみ。

・入寂、十六代の武宗皇帝の会昌元年841正月六日興福院に於て従容として坐滅せらる。世壽六十有三、戒臘三十四。

 

原人論序 終南山草堂寺沙門宗密述 

萬靈の蠢蠢たる皆な其の本あり。萬物の芸芸たる各の其の根に帰す。未だ根本有ること無くして而も枝末ある者あらざる也。況んや三才中之最靈(人間)にして而も本源無きを乎。且つ人を知る者は智。自から知る者は明。今我れ人身を禀得たり、而も自ら從來する所を知らず。曷(なん)ぞ能く他世の所趣を知らん乎。曷ぞ能く天下古今之人事を知らん乎。故に數十年中學ぶに常師無し。博く内外を攷(かんが)へ以って自身を原(たず)ぬ。之を原たずねて已まず、果して其の本を得る。然るに今、儒と道を習ふ者、秖(ただ)近きを知るは則ち乃祖・乃父、傳體相續して此身を受け得たり。遠きは則ち混沌の一氣剖(わかれ)て陰陽之二と為り、二は天地人の三を生じ。三は萬物を生ず。萬物と人と皆な氣を本と爲す。佛法を習ふ者、但だ云ふ、近きは則ち前生に業を造り、業に隨ふて報を受け、此の人身を得る。遠きは則ち業又惑に従ひ展轉し乃至阿頼耶識を身の根本と為す。皆な已に窮むと謂へども而も實は未し也。然るに孔老釋迦は皆な是れ至聖なり。時に隨ひ物に應じて教えを設け、道を殊(こと)にす。内外相資けて共に群庶を利す。萬行を策勤し、因果の始終を明かし、萬法を推究し、生起の本末を彰す。皆な聖意なりと雖も而も實あり權あり。(孔老の)二教は唯權、佛は權實を兼ぬ。萬行を策し、懲惡勸善同じく治に帰するときは則ち三教皆遵行すべし。萬法を推し理を窮め性を盡くし本源に至れば則ち佛教方に決了と為す。然れども當今の學士、各一宗に執して佛を師とする者に就くに、仍ほ實義に迷ふ。故に天地人物に於いて之を原(たずね)て源に至る能はず。余今還た内外の教理に依りて萬法を推窮す。初め淺より深に至り、權教を習ふ者において滯を斥して通ぜしめて其の本を極めしめ、後に了教

(『涅槃経』では了義経を大乗菩薩の法、不了義経を小乗声聞の法と判ずるが、了義・不了義の判別基準は諸経論において一様ではない)に依りて、展轉生起之義を顯示して、偏を會し、圓かならしめて末に至らしむ。      文に四篇あり。名けて原人也。

以下の構成は、迷執を斥く第一、偏浅を斥く第二、直に真源を顕す第三、本末を會通す第四。

原人論序              終         

原人論・終南山草堂寺沙門宗密述 

  斥迷執第一     

儒・道を習ばば   儒・道の二教は、人畜等の類、皆是れ虚無の大道より生成養育すと説く。謂く、道法より自然に元氣を生じ、元氣は天地を生じ、天地は萬物を生ず。故に愚智・貴賎・貧富・苦樂は皆な天より禀くること時と命に由れり。故に死後却って天地に歸し、其れ虚無に復すとなす。然るに外教の宗旨は但だ身によって行を立つるにあり。身之元由を究竟するにあらず。説く所の萬物も象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も而も備さに順逆・起滅・染淨の因縁を明かさず。故に習ふ者は是れ權なることを知らず。之を執して了と爲す。今略して擧げて之を詰せん。所言に萬物は皆な虚無大道より生ずるとせば、大道は即ち是れ生死賢愚之本、吉凶禍福之基なり。基の本、既に其れ常に存せば、則ち禍亂凶愚除くべからざる也。福慶賢善益すべからざる也。何ぞ老莊之教を用ん耶。又た道、虎狼を育し、桀紂を胎し、顏冉(徳行にすぐれた顔淵・冉伯牛)を夭し、夷齊(伯夷・叔斉)を禍す。何ぞ尊と名くる乎。又た「萬物は皆な是れ自然に生化す、因縁に非ず」と言はば、則ち一切因縁なき處、悉く生化すべし。謂く石まさに草を生ずべく、草或は人を生じ人畜等を生ずべし。又應に生ずること前後なく、起つこと早晩なかるべし。神仙は丹藥に藉らず、太平は賢良に藉らず、仁義は教習に藉らずんば、老莊周孔、何ぞ立教し軌則と為すことを用ん乎。又皆な元氣より生成すと言はば、則ち欻生(こっしょう・忽然と生じる)之神、未だ曾って習慮せず。豈に嬰孩にして便ち能く愛惡驕恣することを得ん焉。若し欻(こつ)有自然にして便ち能く隨念に愛惡す等と言はば、則ち五徳六藝悉く能く隨念に解せむ。何

ぞ因縁を待ちて學習して成ずるや。又た若し生は是れ気を禀けて而ち欻(たちまち・突然)有り、死は

是れ氣散じて欻(たちまち)無きならば、則ち誰をか鬼神と為さん乎。且つ世に前生を鑒達し往事を追憶することあるときは、則ち知る、生前の相續にして気を禀けて欻(たちま)ち有るに非ず。又、鬼神靈知、斷ぜざることを驗るときは則ち知る、死後氣散じて欻たちまち無なるに非ず。故に祭祀して求祷する典藉文あり。況んや死して蘇る者は幽途の事を説き、或は死後妻子を感動し怨恩を讎報すること、今古皆有るを耶。外、難じて曰く、「若し人、死して鬼と為るならば、則ち古來之鬼は巷路に填(み)ち塞がん。見る者あるべし、如何ぞ爾(しから)ざるや」。答て曰く「人、六道に死す。必ずしも皆な鬼と為らず。鬼は死して復た人と為る。豈に古來の積鬼常に存せん耶。且つ天地之氣は本と無知也。人は無知之氣を禀く。安なんぞ欻(たちま)ち起きて知あることを得ん乎。草木も亦た皆な気を禀く。何ぞ知らざる乎。又た貧富貴賎賢愚善惡吉凶禍福、皆な天命に由ると言はば、則ち天之賦命は、奚なんぞ貧は多く富は少に、賎は多く貴は少なく、乃至禍は多く福は少なることあらんや。苟くも多少之分、天に在らば、天は何んぞ平らかなざらる乎。況んや無行にして貴く、行を守って而も賎、無徳にして富み有徳にして貧、逆は吉、義は凶、仁は夭、暴は壽、乃至有道の者は喪び、無道の者は興るあり、既に皆な天に由らば天乃ち不道を興して有道を喪すなり。何ぞ善に福し謙に益するの賞、淫に禍し盈に害するの罰有んや。又た既に禍亂・反逆、皆な天命に由らば、則ち聖人教を設くるに、人を責めて

天を責めず、物を罪して命を罪せず、是れ不當也。然れば則ち詩に亂政を刺(そし)り書に王道を讃し禮に安上を稱し樂に移風を号す。豈に是れ上天之意に奉じ、造化之心に順ぜん乎。是に知る、此の教を専らにする者は未だ人を原(たずね)る能わず。

  偏淺を斥く第二 佛の不了義教を習ふ者  

佛教、淺きより深きに逝くに略して五等あり。一に人天教。二に小乘教。三に大乘法相教。四に大乘破相教。上の四は此篇中に在り。   五に一乘顯性教(此の一は第三篇中に在り)(ここでは、一から四までを未了義教、第五を了義教とする)            

(第一の人天教は人間の根源は業によるとする教えであるがしかし業を造る主体受ける客体を捨象していて不了義とする)

一(人天教)には佛初心人の為に且らく三世業報・善惡因果を説く。謂く上品十惡を造りて死して地獄に墮つ。中品は餓鬼。下品は畜生。故に佛且らく世の五常之教に類して、五戒を持たしめ三途を免るることを得て人道の中に生ず。天竺の世教の儀式殊と雖も、懲惡勸善には別無し、亦た仁義等の五常を離れて而も徳行の修すべき非ず。例せば此國には手を歛めて擧げ、吐番には手を散じて垂る。皆爲禮也   。不殺は是れ仁、不盜は是れ義、              不邪淫は是れ禮、不妄語は是れ信、酒肉を飮噉せざれば、神氣清潔にして智を益す也。   三途に生れるを免れ得て人道中に生ず。上品の十善及び施戒等を修して六欲天に生ず。四禪八定を修して色界無色界天に生ず。題中に天鬼地獄を標せざるは、界趣不同、見聞不及、凡俗尚ほ末を知らず。況んや肯(あえ)て本を窮めんや。故に俗教に対して且らく原人と標す。今ま佛經を敍す理、宜しく具さに列すべし。故に人天教と名くる也。

然るに業に三種有り。一に惡。二に善。三に不動。報に三時あり。謂る現報、生報、後報なり。   此教中に據るに業を身の本と為す。

今之を詰して曰く、既に造業に由りて五道の身を受く。未だ審かにせず、誰人か業を造り、誰人か報を受くと。若し此の眼耳手足能く業を造らば、初死之人、眼耳手足宛然たり。何ぞ見聞造作せざるや。若し心作ると言はば、何者か是れ心。若し肉心と言はば、肉心質あり、身内に繋る。如何んぞ速やかに眼耳に入って外の是非を辨ぜん。是非知らずんば何に因ってか取捨せん。且つ心と眼耳手足と倶に質閡となす。豈に内外相通じ運動應接して同じく業縁を造ることを得んや。若し但だ是れ喜怒愛惡、身口を發動して業を造らしむと言はば、喜怒等の情、乍ち起き乍ち滅す。自ら其體無し。將に何を主と為して業を作らん耶。設し此の如く別別に推尋すべからず。都て是れ我が此身心能く業を造ると言はば、此の身已に死して誰か苦樂之報を受くるや。若し死後更に身有りと言はば、豈に今日の身心、罪を造り福を修し、他の後世身心をして苦を受け樂を受けしむることあらんや。此れに據らば則ち修福の者は屈甚しく、造罪の者は幸甚なり。如何ぞ神理は此の如く無道なるや。故に知る、但だ此教を習ふ者、業縁を信ずと雖も身の本に達せず。

 

(第二の小乗教は色心の二要素を世界の根本とするが、これも「心」は眼耳鼻舌身の縁がなければ起こらないし、また「色」は四大に由つて成住壊空するというが無色界には四大は無いではないか、といいこれも未了義教とする)

二に小乘教は説かく、形骸之色、思慮之心、無始より來た因縁力の故に念念生滅して相續無窮なり。水の如く涓涓。燈の如く焔焔。身心假合して一に似たり、常に似たり。凡愚は不覺にして之に執して我と為し、此我を寶と為す。故に即ち貪(名利を貪りて以って我を榮へさす)、瞋(違情境を瞋って我を侵害せんことを恐る)、癡(非理を計校る)等の三毒を起す。三毒は意を撃ちて身口を發動して一切業を造る。業成じて逃れ難し。故に五道苦樂等の身(別業所感)三界勝劣等の處とを受く。共業所感、所受の身に於いて還て執して我と爲す。還た貪等を起こし造業受報す。身は則ち生老病死あり。死而して復た生る。界は則ち成・住・壞・空あり。空じて復た成る。          空劫より初て世界を成ずとは、頌に曰く「空界大風起り、傍廣數無量なり。厚さ十六洛叉。金剛も壞する能はず。此を持界風と名く。光音金藏の雲、布(しひ)て三千界に及び、雨は車軸の下す如し。風遏(さえぎり)て流れを聽さず。深さ十一洛叉なり。始め金剛界を作り、次第に金藏の雲あり。雨を注ぎて其内に滿つ。先ず、梵王界乃至夜摩天を成ず。風、清水を鼓して須彌七金等を成ず。滓濁は山地・四洲及び泥犁・鹹海外の輪圍と為り。方に器界立と名く。時に一増減を經る。乃至二禪の福盡きて人間に下生す。初め地餅林藤を食し後に粳米を銷せず。大小便利し男女形ち別れ、田を分かち主を立て、臣佐を求む。      種種差別し十九増減を経る。前を兼ね總じて二十増減を名けて成劫と為す」。議して曰く、空界劫中とは是れ道教は之を指して虚無之道といふ。然るに道の體は寂照靈通にして是れ虚無ならず。老氏或は之に迷ひ、或は權設して務めて人欲を断つ。故に空界を指して道と為す。空界中の大風とは、即ち彼の混沌の一氣なり。故に彼、道は一を生ずという也。金藏の雲とは、氣形の始、即ち太極也。雨下りて流れずとは陰氣の凝(こお)る也。陰陽相合して方に能く生成す。梵王界乃至須彌とは彼之天也。滓濁とは地なり。即ち一は二を生ず矣。二禪福盡きて下生すとは即ち人也。即ち二は三を生じ三才備れり。地餅已下乃至種種とは即ち三より萬物を生じるなり。此れ當に三皇已前穴居野食、未だ火化有らざる等にあたる也。但し其時、文字記載無きが故に後人の

傳聞不明なり。展轉錯謬して諸家の著作、種種異説す。佛教は又た三千世界を通明し、大唐に局らざるに縁るが故に、内外の教文全く同じからざる也。住とは住劫、亦た二十増減を経るなり。壞とは壞劫、亦た二十増減なり。前の十九増減に有情を壞し、後の一増減に器界を壊す。能壞は是れ火水風等の三災なり。空とは空劫、亦た二十増減中、空にして世界及諸有情無き也。          劫劫生生輪迴絶へず。無終無始にして汲井輪の如し。道教は只だ、今此世界未成時の一度の空劫を知りて、虚無混沌一氣等を名けて元始と為すと云ふ。空界已前に早く千千萬萬遍を經て成住壞空終りて而復た始まることを知らず。故に知りぬ、佛教法中の小乘淺淺之教は已に

外典深深之説を超へたり。            

都て此の身の本、是れ我ならざることを了ぜざるに由る。是れ我ならずとは、謂く、此の身は本と色心和合して相を為す。今推尋分析するに色に地水火風之四大有り。心に受(能く好惡之事を領納す)想(能く像を取

る者)行(能く造作する者、念念遷流す)   識(能く了別する者)之四蘊あり。若し皆れ是な我ならば、即ち

八我を成ず。況んや地大の中、復た衆多有り。謂く、三百六十段の骨、一一各別に皮毛筋肉肝心脾腎、各の相

是ならず。諸の心數等亦た各の不同なり。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展轉して乃至八萬四千の塵勞あり。既に此の衆多之物有り。知らず、定んで何を取て我と為んや。若し皆な是我ならば我即ち百千ならん。一身の中に多主紛亂せん。此れを離れての外、復た別法無し。翻覆して我を推すに皆不可得なり。便ち悟る、此身は但是れ衆縁仮和合の相にして元と我人無し。誰が為にか貪瞋し、誰が為にか殺盜施戒せん。(苦諦を知る也)。遂に心を三界の有漏の善惡に滞らせず(集諦を斷ずる也)。但だ無我の觀智を修し(道諦)、以って貪等を斷じ、諸業を止息すして我空眞如を證得す(滅諦)。乃至、阿羅漢果を得て、灰身滅智して方に諸苦を断ずるなり。此の宗の中に據るに、色心二法及び貪瞋癡を以て根・身・器界の本と為す也。過去未來、更に別法の本と為すなし。今之を詰して曰く「夫れ生を經、世を累ねて身の本と為す者は、自體須く間斷なかるべし。今五識は縁を闕けば起らず。(根境等を縁と為す)。意識は時ありて行ぜず。(悶絶・睡眠・滅盡定・無想定・無想天なり)。            無色界天は此の四大無し。如何んぞ此の身を持ち得て世世絶えざるや。是に知ぬ、此教を專ぱらにする者も亦た未だ身を原(たずね)ず。

 

(第三の大乗法相教では阿頼耶識が身の本であるという。先の小乗教は色心二元論であるが法相教では唯識のみ有つて色もその識の所変であるという。そして次の第四大乘破相教で批判して阿頼耶識により作り出された世界は妄であるが阿頼耶識は眞であるというが作り出された境が妄であるならば作り出す識も妄でなくてはならない、随ってこれも未了義教である、とする)

三に大乘法相教は説かく、一切有情は無始已來、法爾に八種の識あり。中に於いて第八阿頼耶識は是れ其の根本なり。頓に根身・器界・種子を變じて七識を轉生す。皆な能く自分の所縁を變現すれども都て實法なし。如何が變ずるや。謂く、我なり法なりと分別しつつ熏習せし力の故に、諸識の生ずる時に變じて我と法とに似たり。第六七識の無明、覆ふが故に、此れを縁じて執して實我實法と為す。患と(重病に心惛して異色人物を見る也)、夢(夢想の所見知るべし)とは患と夢との力に依るが故に、心に種種の外境に似て相現ずるを、夢

時には執して實に外物有りと為すも、寤さめ來て方に知る、唯だ夢の所變なることを。我身も亦た爾なり。唯識所變なり、迷ふが故に我及び諸境有りと執す。此に由りて惑を起こし業を造り、生死無窮なり。(廣くは前に説くが如し)。此の理を悟解すれば、方に我身は唯識所變也と知る。識を身の本と為す。      (不了之義は後に破するところの如し。)             

 

(第四の大乗破相教では心も境も皆な空であると説く。空こそ入生の眞源であるというのが大乗破相教の大意であるが,一切空であれば「空」そのものも「空」ではないか、またその「空」を認識するのは誰か、と問う。そしてこれも未了義教であるとする)

四に大乘破相教とは、前の大小乘・法相之執を破って密かに後の眞性空寂之理を顯はす。

破相之談は唯だ諸部の般若にみならず、遍ねく大乘經に在り。前の三教は次でに依って先後す。此の         

教は執に随って即く破す。定れる時節無し。故に龍樹は二種の般若を立つ。一は共。二は不共。共とは、二乘同じく聞て信解す。二乘の法執を破するが故に。不共とは唯だ菩薩のみ解す。密かに佛性を顕すが故なり。故に天竺の戒賢・智光(戒賢は唯識の学匠。護法の弟子。法相宗を開いた玄奘の師。法相大乗を最高とする三時教判をたてて、無相大乗を最高とする中観派の智光と論争したといわれる。)の二論師。各の三時教(

釈迦一代に説かれた教説を三時期に分類したもの。 法相宗では、初時教を有教(阿含経など)、第二時教を空教(般若経など)、第三時教を中道教(華厳経など)という。)を立てて此空教を措くに、或は唯識法相之前に在りといひ、或は後に在りといふ。今の意は後を取る。將に之を破さんと欲して、先ず之を詰て曰く「所變之境既に妄ならば、能變の識は豈に眞ならんや。若し一は有、一は無と言はば、此下却って彼の喩を將て之を破す。則ち夢想と所見の物と應に異なるべし。異ならば則ち夢は是れ物ならず。物は是れ夢ならず。寐め來り夢滅して其物應に在り。又た物、若し夢ならざれば、應に是れ眞物なるべし。夢若し物ならざれば何を以てか相と為さん。故に知りぬ、夢の時は則ち夢の想と夢の物と能見と所見との殊り有るに似たれども、理に據るときは則ち同一の虚妄にして都て無所有なり。諸識も亦た爾なり。皆な假りに衆縁に託して自性無きを以ての故に。故に中觀論に云く「未だ曾って一法として因縁より生ぜざるは非ず。是故に一切の法は不是れ空ならざる者無し」と。又云「因縁所生の法は我説く即ち是れ空なり」と。起信論に云く「一切の諸法は唯だ妄念に依りて差別あり、若し心念を離るれば即ち一切境界之相なし」と。經(金剛般若波羅蜜經)に云く「凡そ所有あらゆる相は皆な是れ虚妄なり」と。又(金剛般若經疏に)云く「一切相を離れるを即ち諸佛と名く」と。             此の如く等、大乘藏に徧し、是に知る、心と境と皆な空は方に是れ大乘の實理なり。若し此に約して身を原(たずぬ)れば、身は元是れ空、空即是れ本なり。

今復た此の教を詰して曰く「若し心境皆無ならば、無を知る者は誰ぞ。又た若し都すべて實法なくんば、何に依っては諸の虚妄を現ぜん。且つ現に世間の虚妄の物を見るに、未だ實法に依らずして而も能く起る者は非ず。濕性不變之水無くんば何ぞ虚妄假相之波有らん。若し淨明不變之境無くんば、何ぞ種種虚假之影有らん。又

前説の夢想と夢境とは誠に所言の如し。然るに此の虚妄之夢は必ず睡眠之人に依る。今既に心境皆な空ならば未審(いぶかし)何に依ってか妄を現ぜん。故に知りぬ、此教は但だ執情を破して、亦た未だ明らかに

眞靈之性を顯さず。故に法鼓經に云く「一切の空經は是れ有餘の説なり」と。有餘とは餘義未了也。大品經云「空は是れ大乘之初門。上之四教展轉相望するに前は淺く後は深し。若し且らく之を習ふて自から未了なりと知る、之を名けて淺と為す。若し執して了と為すは即ち偏と名く。故に習ふ人に就いて偏淺と云ふ也。

 

直に眞源を顕す第三         

(一切有情は無始巳來「如来蔵」を蔵しているがそれを自覚せず勝手に業を結んで生死の苦を受けてゐる。若し佛行を行じ、本に返り源に還て凡習を断除すれば一心、佛心に非ざることなく、一塵、佛土に非ざることなき事を悟る事が出來る。これこそ人生の眞源であるという)         

五に一乘顯性教とは、説かく、一切有情に皆な本覺の眞心あり。無始以來、常住清淨にして昭昭と昧からず、了了として常に知る。亦た佛性と名く。亦た如來藏と名く。無始際より妄相は之を翳して自ら覺知せず。但だ凡質を認めるが故に、躭著して業を結し生死の苦を受く。大覺之を愍れんで、一切皆空を説き、又た靈覺の眞心清淨にして全く諸佛に同じと開示す。故に華嚴經に云く「佛子よ、一衆生として如來の智慧を具有せざるはなし。但し妄想執著を以て證得せず。若し妄想を離るれば、一切智・自然智・無礙智、即現前することを得。便ち一塵に大千經卷を含む」の喩を挙げて塵を衆生に況し、經を佛智に況す。次後に又(華厳経に)云く「爾時、如來普く法界一切衆生を觀じて是の言を作さく。奇哉奇哉。此諸衆生。云何んが如來の智慧を具有して迷惑して見ざるや。我當に教ふるに聖道を以てし、其をして永く妄想を離れ自ら身中に於いて如來廣大智慧の佛と異ることなきを見るを得せしむべし」と。評して曰く、我等多劫に未だ眞宗に遇はず、返って自ら身を原(たずぬ)ることを解せず。但し虚妄之相に執して甘んじて凡下、或は畜或は人なりを認ず。今、至教に約して之を原たずねれば、方に本來是佛なりと覺るべし。故に須からく行は佛に依り、心は佛心に契(かな)ひ、本に返り、源に還り、凡習を斷除して之を損し又た損して以って無爲に至るべし。自然の應用恒沙なるを之を名け佛と曰ふ。當に知すべし、迷悟は同一の眞心なり。大なる哉、妙門の原人、此に至れる。

然れば佛の前五教を説きたまへるは、或は漸、或は頓。若し中下之機あれば、則ち淺より深に至り、漸漸誘接して先ず初教を説き、悪を離れて善に住せしめ、次に二三を説き、染を離れて淨に住せしめ、後に四五を説き、相を破し性を顯はし、權を會し實に歸し、實教の修に依り乃ち成佛に至らしむ。若し上上根智ならば則ち本より末に至る。謂く初めは便ち第五に依り頓に一眞の心體を指し、心體既に顯れて自ら一切皆是虚妄、本來空寂なりと覺る。但だ迷を以ての故に眞に託して起る。須からく眞を悟るの智を以て斷惡修善し息妄歸眞すべし。妄盡きて眞圓(まどか)なるを是を法身佛と名く。

             

  本末を會通す第四          (前に斥く所を會して同じく真源に歸し、皆な正義と為す。              )

(ここでは儒教道教は共に仏教の教えの一部とする。様々な境遇を生み出すのは三世の業であり、業の主体は我執である。我執があれば法執がある。我執と法執とは阿頼耶識を覚せざるが故に起る。そこで業の鐵鎖もその主体が阿頼耶識所変なる事を知れば空ずる事が出來る。)

眞性を身の本と為すと雖も、生起すること蓋し因由有り。端なくも忽ち身相を成すべからず。但し前宗未了なるに縁って、所以(ゆへに)節節に之を斥く。今將に本末會通す。乃至儒道も亦た是なり。初は唯だ第五の性教の所説なり。後段より已去、節級方に諸教に同ず。各の注に説くが如し。

謂く、初は唯一眞靈の性、不生不滅、不増不減、不變不易なり。衆生は無始より迷睡して自ら覺知せず、隱覆に由るが故に如來藏と名く。如來藏に依るが故に生滅の心相有り。此より方に是れ、第四教も亦た同く此

已下の生滅の諸相を破す。             所謂、不生不滅の眞心、生滅の妄想と和合して非一非異なるを名て阿頼耶識と為す。此の識に覺・不覺の二義あり。             此の下方に是れ第三の法相教の中も亦た同じ所説なり。不覺に依るが故に、最初の動念を名けて業相と為す。又、此の念は本と無なるを覺らざるが故に轉じて能見之識を成し及び所見の境界相現ず。又、此の境は自心より妄現することを覚らずして執して定有と為すを名けて法執と為す。       此の下方に是れ第二小乘教中も亦た所説に同ず。      此等に執するが故に、遂に自他之殊(ことなること)を見、便ち我執を成す。我相を執するが故に順情諸境を貪愛して、以って我を潤すことを欲す。違情諸境を瞋嫌して、相ひ損惱せんことを恐る。愚癡之情展轉増長す。  

此の下方に是第一人天教中も亦た所説に同ず。故に殺盜等の心神、此の惡業に乗じて地獄鬼畜等中に生ず。復た此の苦を怖るる者、或は性善なる者有り。施・戒等を行じ、心神此善業に乗じて中陰に運して母胎中に入る。此下方に是れ儒道二教も亦た所説に同ず。              氣を禀け、質を受く。(彼の所説、氣を以て本と為すを會す)

氣は則ち頓に四大を具し漸に諸根を成ず。心は則ち頓に四蘊を具し漸に諸識を成ず。十月滿足し生じ來るを人と名く。即ち我等の今の身心是也。故に知りぬ身心各の其の本有り。二類和合して方に一人を成ず。天と修羅等も大に此と同じ。然るに引業に因って此身を受得すと雖も、復た滿業に由っての故に貴賎貧富壽夭病健

盛衰苦樂あり。謂く前生の敬・慢を因と爲して今貴賎之果を感ず。乃至、仁は壽、殺は夭、施は富、慳は貧。種種の別報、具さに述ぶべからず。是れを以て此の身に或は惡無くして自ら禍に、善無くして自ら福に、不仁

にして壽、不殺にして夭等は、皆な是れ前生の滿業已に定れるが故に今世の所作に依らずして自然に然るが如し。外學の者は前世を知らずして但だ目覩に據って唯だ自然なりと執す。(彼の所説の自然を本と為すを會す)復た前生に少(わかきとき)修善して老て造惡す、或は少(わかきとき)惡にして老て善なる者あり、故に今世に少(わかきとき)は富貴にして樂しみ、老て大に貧賎にして苦む。或は少(わかきとき)貧苦にして老て富貴等あり。故に外學の者は唯だ否泰(「否」「泰」は易の六十四卦の一つで、「否」は陰陽の気が塞されて万物が生命力を失い、君臣が隔絶して天下が治まらない卦で、「泰」はその逆)は時運に由ることを執す。(彼の所説の皆天命に由ると云ふを會す)。然るに禀る所の氣、展轉して本を推せば、即ち混一の元氣也。起す所之心、展轉して源を窮むれば即ち眞一之靈心也。實を究めて之を言はば心外に的(まさ)に別法なし。元氣も亦た心之所變に従ふ前の轉識所現之境に屬す。是れ阿頼耶相分の所攝なり。初の一念の業相より分れて心・境の二と為る。心既に細より麁に至り、展轉妄計して乃至業を造り(前の敍列の如し)境も亦た微より著に至り、展轉變起して乃至天地あり。

即ち彼の始め太易より五重運轉し乃ち太極に至る。太極兩儀を生ず。彼れ自然の太道と説くは、此の眞性を説くが如くなれども其實但是れ一念能變の見分のみなり。彼れ元氣と云ふは此の一念初動の如くなれども其實但是境界之相なり。     

業既に成熟し即ち父母より二氣を禀受し業識と和合して人身を成就す。此に據らば則ち心識所變之境は乃ち二分と成り、一分は即ち心識と和合して人と成り、一分は心識と和合せずして即ち天地山河國邑と成る。三才中に唯だ人の靈なるは心神と合するに由る也。佛説の内の四大と外の四大と同ならずとは正に是此也。哀哉、寡學にして異執紛然たり。語を道流に寄す。成佛せんと欲する者は必須く麁細本末を洞明して方に能く棄末歸本し心源を返照すべし。麁盡き細除き靈性顯現せば法として達せざるなきを法報身と名く。應現無窮なるを化身佛と名く。

原人論   終         

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