第九番 明星山明智寺。御堂六間四面南向。本尊如意輪觀音 立像御長八寸三分(31㎝) 行基菩薩御作
當寺如意輪觀音は、建久二年(1191)明智禪師将來して、此處に堂を建て安置し給ふと云傳へたり。近世天正年中、横瀬氏の臣加藤何某と云勇士、厚く當寺の本尊を信じ、其領地持山と云處へ御堂を引移しけるに、 此里に疾疫大に起て民家悉く憂、飢渇に及び道路に倒るゝ者かぞへも盡すべからず。村の長、持山へ來 て曰く、是必ず本尊を當所へ移し奉りし祟成べし、早く本所へ皈し奉らんと乞ふ。住僧諾して予が心も 左の如し、明日此事を領主へ告て舊地に皈し奉らんと。其用意をなす處に、領主の使來て曰く、昨夜本 尊夢中に告て曰く、舊地は艮位(ごん北東)に當て當郡の鬼門關也、疫神彼地に鍾りて動すれば人民をなやます、吾彼地の疫病を除かんが為に跡を垂る、今此地に移るが故に舊地は悉く疫神の所有となる、早く舊地に帰すべし、若然らずんば彼地の人民遺子ある事なけんと。あらた成佛勅片時も黙止がたしと演説せしかば、 各掌を拍て感歎し、則今の道場に帰し奉れり。爰に於て民の疾病忽に瘉、餓莩蘇生して家にかえる。大旱の稻の雨を得て若然として興が如し。誠に甘露の法雨煩悩の燄を滅除すと、普門品の説疑なきものをや(観音經普門品に「甘露の法雨を澍らして、煩悩の燄を滅除す」)。抑亦當山を明星山と云事、天正の頃(16世紀)此横瀬の里に兵衛と云者ありき。其母不圖盲てけり。兵衛未だ稚かりしかば、貧家の業にせんすべなく、兵衛此寺の林に到て菓を拾い朝三暮四の糧に備つ。母は兵衛がなりゆく末を思ひ煩ひ、盲たるさへあるに心口も亂れて狂ありきぬ。或時兵衛當寺に來て例の如く菓を拾ふ處に、老僧來て汝が母の病を治せんと思ば此文を唱へよと、無垢清浄光恵日破諸闇の二句(「無垢清浄光。慧日破諸闇。能伏災風火。普明照世間」・・無垢清浄の光ありて、慧日諸々の闇を破り、よく災いの風火を伏して、普く明らかに世間を照らしたもう。観音経)を授け教へ給ひ、忽老僧の形を失す。兵衛幼稚なれども寺心厚く、憶持も亦甚つよき童にて能く此文を覺へ、 家に帰て其母に此文句一字をだに違へず教へて、母子ともに本尊の前に通夜し、通宵誦して丹心に祈る。 其夜已に黎明に内陣より、明々赫々たる星一つ飛來て其母が額を照し給へば、忽盲女が眼開け、母子驚歎して手舞足の蹈處を知らず。悦満面に溢て急ぎ己が家に帰れば、里人集り至て感歎の聲里どよむ迄かまびすしかりける。領主兵衛が孝心本尊の霊感を仰信して、山を明星山と號して末代に其霊験を示し、兵衛に賦税徭役を免じ、田畠を賜て永く孝徳を表し給ふ。誠に觀音の慧日の光何れの闍か照し給はざらん。其後眼病を憂、亦は失心狂亂せる者を此本尊に祈るに、霊験著しと云り。詠歌に曰
「廻り来て 其名を聞ば明智寺 心の月は曇らざるらん」
此詠歌は明智の二字に観音の虚空無垢清浄の智光の慧日、大日如来の法界體性智(サトリの智慧)同一體の光明なる義を含手、一度此智光照す時、無量の煩悩妄想の闇を破りて。本有常住の月明々たりと云意なるべし。亦彼盲女が眼開け、本心になりたる意に掛て見るも通ずべし。