大日経住心品にある「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」ということばのいみがどうしてもわからなかったのですが、最近わかった気がしてきました。今までは顕教の常識にとらわれてこうかんがえていたのです。即ち「大悲心を因とし、衆生を済度するのを方便とし、その結果菩提心という悟りへ到達する」と思いこんでいたのでわからなかったのです。密教ではこの関係が逆転するのでした。すなわち誰もが持つ菩提心という悟りの心を因として、大悲心による修行をおこない、それにより具体的救済活動をおこなっている姿(方便)こそが「悟り」そのものなのである、とするのでしょう。やはり凄いことが書いてあるのでした。
密教辞典にはこう書いてあります。「
1、菩提心為因・・菩提心とは一般には悟りを求める心のことで広くは宗教心が芽生えたことをいうが、求められるところの広大甚深の悟りは実はすでに自心に具わっている。ゆえにこのことを深く信じ戯論を捨てて大日如来自覚内証の体に合一して深心力を得るのが菩提心為因である。顕教ではこの境地は悟りの結果というべきであるが密教では初門(入門編)である。
2、大悲為根・・先の菩提心をゆるぎなく発展させるために菩提心の種から大悲の根を生ずる。修行者の修行力と本尊の大慈悲の加地力と法身大覚の法界力との三力加持により、行ずるところの善根は一切世界にゆるぎない根を下ろし、無限の価値を生ずる。
3、方便為究竟・・・・密教では方便とは実智から一段下がったものではなく智悲の具体化であり智悲は方便(手段)によりてはじめて現実となり、この現実となった方便によって却って智悲が極意に至る。ここに即事而真、当相即道の深意(現実の差別の世界そのままの中にに真実がある。)がある。・・」
「絶対の悟りの境地というものは、かなたにあるのではない、個々の現象のあらわれるすがた、そのなかに絶対が埋まっている「中村元・現代語訳大乗仏典」を変形」