観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・26/29
二十六観音の垂迹を軽んじて罰を蒙る事。
昔筑紫に浄土宗の学生の武士ありけり。所領の中を検地して神田の打出しを横領す。社僧神宮寺等憤り鎌倉に訴訟すと云へども餘田を取る事地頭の申し處一分道理在りとて取り上げもなかりければ地頭の方に往て猶頻りに訴ふれども地頭も聞入れず、後には然らば呪詛し奉らんといへども聊かも恐るる気色なく却っていかにも呪詛せよ、浄土門の行人神明なんどを何とか恐るべき、摂取の光明を蒙らん行人をば神明もいかで罰し玉ふべきとておこずきあざむきけり。さて神人ども憤り深くして呪詛しけるほどに、幾程もなく悪病つきて物狂をばしたりければ母の尼公、大に驚き恐れて、「我が孝養とも思ひて神田を返しまひらせて怠りを申し玉へ」と泣く泣く申しけれども用ひず。病次第に重りて頼りなく見へければ、母思ひかねて神明ををろし奉りて病者の元へ使をやりて枉げて神田を返しまひらせ怠を申して神田をも猶添て奉らせ玉へと云ふに、病人物狂しき気色にて頸をねじて、何條神と云ひて少しも用ひず。使いひそかに、しかじかと申しければ、巫に神著き玉ひて種々に託宣ありける時なれば母心得て、病人は神田返し奉らんと申し候、今度の命ばかり助けさせ玉へと申せば、巫打ち笑ひて頸をねじて、何条神と云者をや、あらきたなの心や、我は本地十一面観音なり、本師阿弥陀の願を頼み實の心有りて念仏をも申さば如何に愛おしくも覚へ貴からん。これ程に穢く濁りまさなき心にてはいかでか本願に相応すべきとてはたはたと弾指してはらはらと泣き玉ひければ、此れを聞く人皆涙を流しけり。さてねじたる頸直らずして息絶へにけり。最後の時年来の師匠学生善知識にて念仏を勧めければ、こざかしとて枕を以て打ちけるが、頸を打ちはずしたれば稀有に難を逃れたり。其の後母の尼公又患ひ玉ひて白山権現を下ろし奉りわびて申すやう、母は子に諫めを申ししかば御咎め有るべしとも覚へずと申すに、誠に制せし事はさる事なれども子を思ふ親の心切なる故に心中に我を恨みし事安からずとて遂に母をも取り殺し玉ひけり。彼の子息家を継いで有りけるも幾程なく家の棟に鷺の居りたりけるを占ひければ神の咎めと申しけるをその中に有りける陰陽師、神の罰何事の候べき封じ候はんと云ひけるが酒盃持ちながらしばられたる如くに後ろへ手を回してすぐに死にけり。彼の陰陽師が子息今に有りて此の事を且人にも語り侍るとぞ。当世の事なれば聞き及びたる人多く侍り。彼の子孫親類親類あることにて其の憚り侍れど人の悪を云はん為にはあらず、只神の威の軽からざる由を人に知らしめんが為なり。白山妙理大菩薩は伊弉諾尊にて本地十一面観音なり。泰澄の傳に具さなり。(泰澄大師傳記「我將伊弉珊尊眞身爲天照太神玉母。彼天嶺神代往昔爲神務國城。流法人者爲本地刹土。汝我欲拜本地眞身志妙也。我本地在天嶺禪頂。趂流尋源往而可拜。速隱畢。同年六月十八日蒙貴女語。攀登白山禪頂。住轉法輪岩室。向緑池祈念加持。一心不乱。猛利強盛。三密凝印觀。五相調身心。咒遍滿口。念力徹骨。尓時從池中示九頭龍王形。和尚振首責曰。此是方便。示現。非本地眞身。乃又十一面觀自在尊慈悲玉躰忽現矣。妙相遮眼。光明耀身。」)今の世の人諸宗共に我が宗を善しとばかり思ひ神明を軽んじ他宗の経疏、他宗の信ずる佛をば拝見せぬやうに思へり。悲しいかな悲しいかな釈迦如今の世に出世し玉ふとも此の強剛難化の衆生をば度し玉ふこと難かるべし。されば神明の折伏門にて罰し玉ふにあらざれば悪人おそるる事なし。是の如き現に恐ろしき罰明らかなる示現あるすら驚かず、説法者も我が宗に害あるとや思ひけん説きて人に聞かせざればいよいよ知る事なし。是を不浄説法(仏の正しい教えを理解できていないのに、自己の名声や利益を得ようとして、自分勝手な邪義・邪説を説くこと)と云ふ。皆沙門の罪なり。在家の人は正直にして僧の教に随ふものなれば己の見にまかせて恣に説法すれば一盲衆盲を引て相共に火坑に入るが如し。佛蔵経に曰く、寧ろ自ら利刀を以て舌を割くとも衆中に不淨説法を応すべからず、と。(佛藏經淨法品第六「我見人見衆生見者多墮邪見。斷滅見者多疾得道。何以故。是易捨故。是故當知。是人寧自以利刀割舌。不應衆中不淨説法」)又曰く、当来の世、悪魔変身して沙門の形と作り種種に邪説して多くの衆生をして邪見に入らしめ邪法を説く、と。(佛藏經卷中淨戒品之餘「舍利弗。如來在世三寶一味。我滅度後分爲五部。舍利弗。惡魔於今猶尚隱身。佐助調達破我法僧。如來大智現在世故。
弊魔不能成其大惡。當來之世惡魔變身。作沙門形入於僧中種種邪説。令多衆生入於邪
見爲説邪法。)又曰く、破戒の比丘乃至大杯酒を得んが為の故に諸白衣と佛法を演説す、と。
(佛藏經卷下淨見品第八「爾時破戒比丘。乃至爲得一杯酒故。與諸白衣演説佛法。於意云何。多貪恚癡多樂讀經。貪外經利行不清淨。是人能得信解無所有畢竟空法。能得具足沙門果不。不也世尊」。)今時の有様皆是也。悲しいかな悲しいかな、自ら顧みて慎むべし。柔和慈悲の御姿にては末世の衆生は度せらるべからず。故に観音も馬頭忿怒王忿怒鈎等の形を現じ猶大悲のあまり神明と現じ玉ひて強剛の衆生を降伏し玉へり。