福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

高野山参拝報告

2016-03-16 | 講員の活動等ご紹介
 昨日15日と今日16日お大師様の日の1週間前ですが恒例の高野山参拝をさせていただきました。高野山は前日に降ったという雪が数センチ積もっていて朝は零下でした。

 いつものように朝四時半ころ一の橋から御参りをさせていただきましたが、まだ真っ暗でした。参道も一の橋からはいってすぐ灯篭の明かりがなくなり漆黒の闇となってしまいます。自分の下駄の音だけが参道に響いて不気味でしたが闇の中ではまったく手探りとなり摺り足でしか歩けなくなりました。不夜城の東京にいてはわからない光の有難さを思い知ります。同時に導いていただけるものを持ってない人は一生をこういう漆黒の闇の中で送っているようなものなのだ、お大師様に導いていただける自分などは本当にありがたいことだと改めて思い知りました。

 そしてなおも闇に下駄の音を響かせて歩いていくと、何十年か前、真別所で加行中、廟参した同配の修業僧に何かが憑りつき読経の声が裏声になってしまったことを思い出しました。参道は怖いところだ、と思い出しているうち、しかしこれは自分の周波数でいろいろな霊を呼び込んでいるのすぎないのではないかと思いつきました。善い心がけの周波数を発していれば、同じ周波数の善霊達がよってきて助けてくれ、心がけの悪い周波数を発していれば同じ周波数の悪霊たちがよってきてさらに悪い運勢となるのではないか、と思いついたのです。
まさにお大師様が「性霊集」で、「心暗きときは、すなわち遇うところ、ことごとく禍なり眼(まなこ)明らかなれば、途に触れて皆宝なり」とおっしゃったおことばの裏にはこういう生ま生しい霊界事情も含まれていたのかもしれないと思いました。

 御廟に着くと当然誰もいませんので御廟の正面に正座してこころゆくまで理趣経を上げることができました。途中でふと御廟の門を見上げると、無数のお大師様が四方八方に衆生済度に飛び出して行かれているようにも思えました。そしてそのあと余韻に浸りつつ師僧や自家の墓前にいき、鶯の初音にあわせて読経できました。

 こうして未明の参拝は終わったのですが、思いついて朝食後再度、一の橋からお参りしました。このとき参道の巨大な倒木を作業員の方たちが大勢で処理しているのに出会いました。さきほどの参拝帰りからわずか一時間半くらいの間に巨木が参道に倒れてきたのです。すこし帰りが遅かったら倒木にあたっていたかもしれません。また倒れるのが速かったら漆黒の闇の中で倒木に道を遮られてつまずいていたかもしれません。有難いタイミングで間一髪倒木の難からのがれていたのです。改めてお大師様にお礼を申し上げました。

 帰りは南海電車の中で遍路姿の老人を見ました。やはり遍路姿はいいものです。有難い霊気を発しています。また無言の「説法」を聞く気がします。福聚講でも御参りの時は遍路姿となりますが、これは本人が思っている以上に周囲に無言の説法をしていることになっているのではないかと、あらためて思わされた次第です。

 いま帰宅して、夕勤行をしましたがいつもとちがって高野山の霊気を体いっぱい含んで何とも言えない有難いお勤めができました。
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