第四十一節、積集膨張主義
「克己内省」の力が形を以て表れる時、それが即ち「積集膨張」となる。「積集」とは「徳」を積み、「力」を積むことだ。そうして養われた力や徳が今度は表へ拡がって行くときが『膨張』である。この「積集」ということは(日本書紀の)神武天皇の詔(神武天皇四十五年、「昔、我が天つ神、高皇産霊 たかみむすび の尊、大 おお 日霊 ひるめ の尊、此の豊葦原の瑞穂の国を挙げて、我が天つ祖、彦 ひこ 火 ほの瓊瓊 にに杵 ぎ
の尊に授け給ひき。ここに彦火の瓊瓊杵の尊、天の関 とを闘 ひら き、雲 くも 路 ぢを 披 おしひらけ、仙蹕 みゆき を馳せて戻 いた
り給ひき。是の時に、運よは鴻荒に属あひ、時は草昧に鐘あた れりき。故 かれ、蒙 くらしくて正しきを養ひ、此の西の偏 ほとり を治 しらしめき。皇祖皇考、神にしてまた聖 ひじり にましまし、慶 よろこびを積み、暉 ひかりを重 かさ ね、多 さら に年序 とし を歴たり。(天つ祖の降りまししより以逮、今に一百七十九万二千四百七十余歳なり。)而 しか はあれども、遼邈 はるか なる地 くに 、猶いまだ王沢に霑 うるお はず、遂に邑に君あり村に長あり。各自彊 さかい を分ち、用 もちて相凌蹀せしむ。抑 はた 又、塩土 しおつち を老翁 おじ に聞けるに、東に美 よき地 くに あり、青き山四 よもに周 めぐれり。其の中に亦、天の磐船に乗りて飛び降る者ありと曰 もおしき。余 あれ 謂おもふに、彼 その地 くには必天業を恢弘し、天の下に光宅するにたりぬべし。蓋し六合 くに の中心 もなか か。厥の飛び降りし者は、謂ふに是饒速 にぎはや 日 びか。何ぞ就きて都せざらめや」)にも「慶(よろこび)を積み暉(かがやき)を重ね」とあって其の義があらわれている。即ち「智」と「徳」とを積集するの謂いである。別して具にいえば「暉(かがやき)を重ね」とは智恵の積集で是は内に属しておる、「「慶(よろこび)を積む」という方は徳の実行を積み重ねることで是は外にぞくしておる。・・とりわけ最も尊い意義を有しておるのは「蒙して以て正を養ふ」というこの「蒙養」の文字である。(易経に「蒙以養正聖功也」とあり、これは「子供に正しい教育を与える(正しい教育で子供を養う)のは(子供の)達人への道だ」という意味です)・・天の文明を地上に下ろして祖先以来「積慶重暉」の功徳を積んで多くの年所を経たというのだ。・・時が草昧に属して居るからさういう不開明の世に非常に懸隔のある文明を率直に敷るということは出来から徐に時を待たねばならぬ。其れが即ち「蒙養」ということだ。・・天から高千穂を踏み台にしてそこに地上の積集力を養って後の準備をされたものが弥々大和国を基礎として膨張の実をおあげになったというわけである。大和そのものはいたって小さい場所だ、あんな小さい所を占領するために態々日向をお出ましになったのではない。『神武東征』とは古来習慣的に用いる称えだけれども、大和を征服するのが目的ではなく実は世界的大活動の発端が大和だったのだ。即ち世界の中心は日本である、そのまた日本の中心が大和であるとのお考えから樫原に宮柱を御建てになったので、それは飽くまで世界に向けて進軍された其の第一歩であることを知らなければならぬ。・・ことに大和朝廷時代に聖徳太子がご出現になって、佛教並びに儒教即ち印度・支那の文明を我に吸収して國體の神随の道(かんながらのみち)をば「道徳」の根拠と定め儒教をその枝葉となし、佛教を同じくそれの果実と判定して、三道融合の渾然たる一大作用を発揮せしめられたのは全く世界のあらゆる文明を調和藤一すべき國體の本作用を規準的に闡明せられたものである。(注・・吉田兼倶の「唯一神道名法要集」では、聖徳太子の言として、「吾が日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉に現はし、天竺は花実を開く。故に仏教は方法の花実たり。儒教は方法の枝葉たり。神道は方法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也。枝葉花実ヲ以てその根源ヲ顕はす。花落ちて根に帰るが故に、今此の仏法東ス。吾が国の、三国の根本タルコトヲ明かサンが為也。尓りし自リ以来、仏法此に流布す」と書いています)
・・大和の國を基礎とした日本の文化が当時すでに世界統一の気運を明確に任持し、且つその規模を具体的に示していることは聖徳太子の文教開発のご指導に明らかであるが、それがさらに(聖武天皇の時代)大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界的戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。 それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。
さふいうわけでこの時代に支那は勿論の事、印度からも学者や彫刻家が渡来してさまざまの文化芸術が伝わった事に依って、奈良朝の文化は宗教的敬虔なる色彩と併せて、世界的包容の襟度を示した頗る潤沢な材料が燦然たる輝きをもって後世に胎されておる。それは第一に聖武天皇の偉大なる抱負にもとずいた世界的交通交換の賜にほかならない。・・今からさかのぼって千二百年の昔である、然も舞台は小さい大和の国であう。大和を基礎に世界を相手にしたといふのはこのことである。・・・斯く観察し来ると、神武天皇の日向をおでになったことは単に小さな大和の国を目がけて長髓彦(神武東征時、大和地方で東征に抵抗した豪族の長)のごときものを漸く追い払って国を開かれてやれやれと安心したのではない。即ちその希望は所謂「東征」の意義は、世界的包容を持つものであると予は確信する。・・
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