福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

往生兜率密記(無量壽院尊海)・・6

2021-03-06 | 諸経

往生兜率密記(無量壽院尊海)・・6

巻上往生機根第五

兜率往生の機根を明かすに就て大に総・別・合の三あり。

初めに「総」とは、上生経に云く、弥勒菩薩未来世の一切衆生の為に大帰依処と作る。疏に釈して曰く、我釈迦即ち滅度して真報の佛に未だ逢はず。末法の弟子をば皆慈尊に嘱へて度せしむ。又疏に釈迦末法の持戒犯戒有戒無戒、釈迦皆弥勒に嘱して之を度せしむと。華厳経の七十九にいわく、(弥勒が善財に告げる詞)釈迦如来所遣来の者を教化して、蓮華の如く悉く開悟せしめんと欲するがための故に、此に於いて命終し兜率天に生ず。諸経要集に、菩薩処胎経を引いて曰く、佛、弥勒に告ぐ偈に云く、汝が所の三會の人は是我が先に化する所也。九十六億の人は初會吾が五戒を受ける者なり。次は三帰の人、第二會、九十二億の者は第三會南無佛と一称せし者なり。皆仏道を成ずることを得。此の意、釈迦入滅已後、弥勒佛出世の暁に至るまで其の中間の末法の一切の衆生は皆悉く弥勒菩薩所化の機根也。如来の付属誠に以て明鏡也。誰か疑滞を懐き帰敬せざらんや。

次に「別」とは、上生経に別して三人を出す。一には生死を厭はず楽って天に生ずる者。疏に釈していわく、、彼に生ずる人を示す也。三人あり。一には菩薩の行法は生死を厭ず、生死の苦を受け楽って天に生ず、乃至自體の行、円ならざるが故に天に生じ、弥勒佛を見ることを得。二乗の生死の苦を厭ふに同ぜず。二には、無上菩提心を敬愛する者。疏に釈していわく、二には無上菩提心を敬愛する者、楽って勝行を修し大菩提を求めて弥勒のみもとに於いて大法を聞くが故に。三には弥勒のために弟子に作んと欲する者。疏に釈していわく、三に弥勒のために弟子に作んと欲する者、於悪界を願って善利を作す。乃至余の仏弟子と作れば彼に有情として済度を行ずべき無し。苦として厭ふべき無ければ欣心深からざるが故に。

後に「合」とは総別合わせて之を明らかにす。具に九品の機に分かつ。已上は顕機を述ぶ。若し密機を辨せば、凡そ真言所成就の果に三品の悉地あり。上はいわく密厳仏土なり。中はいわく十方浄厳なり。下はいわく諸天修羅宮これなり。此の悉地に就きて其の機根を明らかにするべし。先ず上謂密厳佛國とは真言の正機所顕の果なり。彼の正機に於いて頓漸超の三機あり。其の中に頓機の如きは坐を起たずして両部の海會を顕現し、身を動ぜずして十方の浄土に遊歴す。是の如き機類何ぞ唯兜率を求めんのみならんや。然りと雖も意楽する有りて都率に住せんと欲せば、現身に往詣す。漸超二機また現身に往ず。慈氏の儀軌にいわく、肉身を化せずして慈氏如来宮の中に住すと。又いわく、現身に知足天上に往きて慈氏菩薩を見たてまつると。その所成就の者衆多無数なり。具に陳ぶべからず云々。

次に中に謂く、十方浄厳とは結縁傍機所期の果なり。此の機、真言門に入ると雖も未だ一生に証果すること能ず。命終以降先ず安養都率等に往生して諸仏に親近し終に無上菩提を開く。是れ釈経に命終已後當生安楽國等といひ、又心地観経等に命終必生知足天宮等といふが如し。次に下に謂、諸天修羅宮とは是亦結縁傍機の悉地也。所謂一生に遮那の華台を開き難きによって諸天修羅宮等に生じて寿命を来際に延べ後佛の出世を待つ等是也。或いは又、三品の悉地に浅深を存ずることは随他の意、浅略の義なり。随自意深秘の門には三品ともに即身成仏の相也。已上古徳の義、之を記す。今案ずるに中品悉地の如きは浅略深秘に依って正機結縁に通ず。誠に我等如きの結縁の者は未だ遮那の、妙体を覚らず。猶菩提の実義に迷へり。大師の曰く、あらゆる僧尼頭を剃って欲を剃らず。衣を染めて心を染めず。戒定智慧は鱗角よりも乏しく、非法濫行は龍鱗よりも鬱(さかん)なりと云々。其れ之に當れり。若し滴ま三密の法則に住すと雖も未だかならずしも双修すること能ず。一密二密を修すると雖も其の心散乱すること狂象跳猿の如し。大日経にいわく、若し心散乱せば設ひ無量劫を経る中に成就を求めんと欲すも尚し得べからず。何に況や一生に現に法理を得んをや云々。若し此の如きならば、我等如きの愚昧、何ぞ一生に成仏することを得んや。唯如かず、両部諸尊の教行に結縁し、三業所犯の過非を伏除し、兼ねては慈氏の悲愍を蒙り、高祖の加被を受け願力を縁となし、廻向を助と為して兜率の内院に往き、弥勒の尊顔を拝せんには。殊に我が高祖弘法大師の本地、重々異説之ありと雖も、小野の法流最極の秘伝として弥勒菩薩と習ふ。疑ふらくは是弥勒菩薩内院の花臺を出でて小国の沙門と成りて衆生を誘引し化縁すでに尽きて兜率の宮殿に帰入したまへるか。遺告に曰く、門徒数千万なりと雖も併しながら吾後生の弟子也。祖師の吾顔を見ずと雖も心あらん之者は必ず吾名号を聞きて恩徳の由を知れ。是吾白屍の上に更に人の労を欲するには非ず。密教の寿命を護り継て龍華の三庭を開かしむべき謀なり。吾が閉眼の後は必ず兜率陀天に往生して弥勒慈尊の御前に侍るべし。五十六億余の後、必ず慈尊と共に下生し、肹候して吾先跡を問ふべし。亦且未だ下らざるの間は微雲管より信否を察すべし。是の時勤ある者は祐を得、不信の者は不幸ならん。努力努力後を疎ならしむこと勿れ云々。已上の文意、我が祖、後世の弟子等に勧戒の詞、既に以て慇懃なり。誰か敢えて違越せんや。又大師已に兜率に住みたまふ、門弟何ぞ拝せざらんや。これに因って薄草紙に曰く、抑々諸仏の悲願浅深なく、十方の刹土優劣無し。大師の門弟等は専ら中心を兜率に繫け上生を内院に遂ぐべきものか。之に依りて密厳の禅儀言く、高祖既に住したまふ、末資なんぞ願はざる云々。此の言は肝に銘ずるのみ云々。道範の発願に曰く、夫れ宿世の汲引に依って大師の遺法を受く、身を大師深禅の砌に容れて、命を大師の慈悲の室に終る。過現の縁すでに深し、当世何ぞ捨たまはんや。唯願くは大師浄刹に引導したまへ云々。此の如く発願して常に内院の往生を期すべし。亦臨終の用心常に意に懸くべきか。

問て曰く、世間の修行者を見るに信心にして而も修行すと雖も未だいずれの仏土に生ずべきかを願ず。亦無上菩提に廻向せざる者あり、この如きの機は何れの土に生ずべきや。

答、発願廻向はこれ仏道修行の要門なり。上生経にいわく、未だ道を得ざる者は各誓願を発すべし。我等天人八部今仏前において誠実の誓願を発さば、未来世に於いて弥勒に知遇せん。この身を捨て已って皆兜率陀天に生まれることを得ん.又いわく、此の功徳を以て廻向して弥勒のみ前に生ぜんと願へと。疏に釈して曰く、行有り、願い無れば而も行かならず孤にして未だかならずしも慈氏の所に生まれることを得ず。故に願ありて

行無しは而も願かならず虚し。前に既に因なければ果も生ぜざるが故に。所以に願と行と相たすけしむ。又智論の第七にいわく、福を作すに願なければ所標なしと。大荘厳論にいわく、佛國の事大なり。独り功徳を行じて成就すること能ざらんは、かならず願力を須日よ。牛の力車を挽くと雖もかならず御者を要して能く所至あるが如し。浄仏国土は願に由りて引成す。願力を以ての故に福徳増長して失せず壊せず。常に佛を見るが故なり。又諸経要集に新婆娑論を引きていわく、惟んみるに凡夫の力弱く悪を習ひ来ること多し。娑婆に住んで其の心怯弱なるを以て初めてこの法を習ふに退散せんことを恐畏る。常に大願を発してこの行を扶持すれば乃至命終までに心障悩なし。善根を種ゆるに随って含識と共に自由に弥勒内衆と往来せんと願はば、仏前に至らば念に随って修学して不退転を証明すべしと。又菩提心論を引いていわく、所修の善根皆悉く無上菩提に廻向すれば弥勒佛の前に生じて清浄の法を聞きて無生法忍を悟る。但し行住坐臥一生已来の所修の善根並びに法界の衆生と共に弥勒の仏前に廻向して速やかに不退を成すべしと云々。是の故に兜率を願う行者は一代の所修の一切の善根を以て内院に廻向すべきもの也。道範のいわく、年来余の佛菩薩明王天等の所に於いて薫修を積むこと有らば、其の行を退せず、以て往生の因と為すべし。所以は如何とならば諸仏の願行皆悉く同一にして衆生をして出離証入せしめんがためなり云々。(往生兜率密記巻上終)

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