福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「悟り、鈴木大拙」より・・5

2016-10-15 | 法話
楞厳経りょうごんきょうというお経に仏が諸仏菩薩阿羅漢(以下、諸仏菩薩阿羅漢が出てくきて答える)に次のような問いを出された。「いまあなたがたはわたしの教えている仏法の中に於いて無学を成じたことになっているがそれは何によって円通をえたものかまたどうやって三昧地に入ったのかそれを一々いてきかせてほしい」。こう仏が問われると25人の菩薩阿羅漢がそれぞれ自分の特殊の経験を宣べる。
1、 憍陳五比丘(きょうちんごびく、お釈迦様成道後最初の5人の弟子、阿若憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ)阿説示(あっさじ)•摩訶摩男(まかなまん)婆提梨迦(ばつだいりか)婆敷(ばしふ))は、これは仏の音声によってさとった。
2、 優婆尼沙陀は不浄相を観じて無学道を成じた。これは目から道にはいったといってもよろしい。
3、 香厳童子というのが沈香を嗅いでその香が鼻孔裏にはいりこんできたときこれは木にあらず、火にもあらず,去るに著くる所なく,来るに従って来るところもなし、こう観じて無漏を発明したということを書いてある。これは嗅覚からはいったものとみてよろしい。
4、 薬王・薬上の二人の菩薩は苦いとか酢っぱいとか、鹹いとか、淡いとか甘いとか辛いとかこういうような味の性質を分析してそれが空にあらず有にあらず、身心に即するにあらず、身心を離れるにもあらず、というところから悟りを開いたということになる。
5、 跋陀婆羅ばつだばらおよび十六人の菩薩は風呂に入ってそうして触覚から悟りの道にはいった。これは碧巌録にも出ている有名な話である。
6、 摩訶迦葉および紫金光比丘尼、このひとたちは世間の六塵すなわち我々が普通に実在とかんがえているところの世界が変壊の性をもっているもので実体のないものである、すなわち空寂なものであるということを悟ってここにすべての諸漏、有漏の境涯を離れることができたといっている。
7、 阿那律陀は目をつぶしてしまって目なくして十方を観見するときに精真洞然として掌の上の果を見るごとくに感じてそれから阿羅漢になったという。
8、 周利般特迦はすこぶる記憶の不足であった羅漢さんであるがこの人は仏から出入りの息を調べることを教えられてそれによって悟りの境会にはいった。数息観から入ったものとみてよい。
9、 憍梵鉢提きょうぼんはだいは味の性質を分析していた時に道で毒の針で足を怪我して全身非常に痛んだ、その時に「清浄の心というものはすべて痛みとか痛みを観ずるということはないものである」こう観じて三七日のうちに無学を発明した。苦しみの性質を分析してそれから道に入ったものと見える
10、 須菩提は般若経の対告衆であるがこの人は誰も知っている通り「空」を證得して羅漢道を成就した人である。
11、 舎利弗は迦葉兄弟にであって諸法因縁の相を聞いて心の無際を悟ったひとである。
12、 普賢菩薩は心聞発明して分別自在の所に圓通を證得した。
13、 孫陀羅難陀(そんだらなんだ、お釈迦様の弟子で異母兄弟)は座禅をして鼻端の白きを見るという一種の観法をやっている。三週間のあとに鼻中の気をみるに出入煙のごとし。身心内に明らかにして円かに世界に洞徹してあまねく煙のように虚浄の状態である。ちょうど玻璃の鏡のようであった。煙のように見えたものがついには真っ白になってしまってついにその出入りの息が光明赫奕として十方世界を照らすというようになで心の光が輝き出で、ここにおいて円通を得るということになった。
14、 富楼那弥多羅尼子ふるなみたらにしは弁才無碍なところから苦諦というものが元来空であると説いて、それから実相に達した。すなわち法音をもって魔怨を降伏し諸漏を消滅する。
15、 優波離は戒律の生涯によって身心寂滅の境界にはいることを得た。
16、 大目犍連(だいもっけんれん)は如来が因縁法に深き意味の存することを説かれたのを聞いてそれから阿羅漢道を成就したということになる。
17、 烏枢沙摩(うすさま)は火光三昧ですべてを焼き尽くしてそこに円通を得た。(このため今もって烏枢沙摩明王はトイレにまつられています)
18、 持地菩薩は大地の性と自分の肉体の性とお互いに同一性をもっているということを観じて道に入った。
19、 月光菩薩は水観の力によって
20、 瑠璃光菩薩は風力を観じて
21、 虚空蔵菩薩は虚空を観じて
22、 弥勒菩薩は一切は唯心である、唯識であると観じて
23、 大勢至菩薩は念仏から
24、 観音菩薩は「聞のなかに流れを入かえして所を亡じ、入る所すでに寂にして動静の二相了然として生ぜず」という境涯にはいられてそこでは聞もなくきかれるところもなく、覚も覚られるところもなく、空ということもなく空であるとされるものもなく、空ということも空であるということもない。このとき忽然として世間と出世顕とをともに超越して十方円明の境界へはいられた。そのときに二つの有難い所得、悟りがあったという。一つは十方如来の心と同じになって仏のもっておられる同一の慈悲の力を体得せられて。今一つは十方一切六道衆生と同一の心理状態へ入って同一の悲仰性を得られたという。(諸仏の慈悲力と衆生の助けを乞う心も共にえられたこと)・・因果の法は到底ひっくり返すわけにはいかぬがそれにもかかわらず一時なりとも因果の法を無視して悩める衆生を助けてやりたいというのが観音の妙智力である。

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