福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶『大日経綱要』の要約その26

2014-11-16 | 諸経
第八六十心、第二
(大日経住心品のうち「世間の三妄執を越えて、出世間の心生ず・・」のところの「三妄執」についていえば)三劫とは無明煩悩である(通常は無限の時間を示す)。浄菩提心が光がわずかに発したときに取り除かれる麁なる煩悩を初劫といい、菩提心の光がさらに開明をするに至って除かれる細な妄執を第二劫という。その菩提心があまねく法界を照らすとき除かれる微細な妄執を極細妄執という。この三劫をつねに麁、細、極細の三妄執という。すなわち初劫を麁妄執、第二劫を細妄執、第三劫を極細妄執という。麁妄執は人我執で身心のうちに一の主体が存するとみるもの。仏教では人身は五薀の化和合のるゆえに人身には常に変わらぬ堅実な我体はない、とする人無我をとくもの。この人空無我により人我の妄執を取り除くのが初地の法門。・・真言行者が本尊の三密を修して三昧に入る時、往々不思議の霊相を観見することがあるが、・・この人空無我の観によりこれを断じ、無念無執に本尊を念じる。次の第二劫の細妄執とは五蘊の体(エッセンス)は三世にわたり実有とみるもの。小乗に於いてはこの五蘊の体を実有とみるから生死の存在を実有と見ることになりひいては生死界に大怖畏を感じ自分の涅槃を急ぐ。しかし大乗では五蘊の体、生死の実体も本来空と見るゆえに生死界に住して一切衆生を救済しようとの大心を抱き大慈悲の行を成ずるに至る。弘法大師はこの第二劫において第六住心と第七住心を開設された。(第六住心=他縁大乗心。第七住心=覚心不生心-一切は空であるとする)第六住心は法相宗で、第七は三論宗である。すなわち第二劫には萬有は心から生ずとする唯心縁起説と、またこの心自体も空であるとする三論宗の義が合わせて説かれている。第三劫は第二劫で除かれた法我執の煩悩のあとになお残る微細な煩悩(極細妄執)を断って真の佛智見を開顕するもの。弘法大師の「十住心論」によれば第三劫に第八(一道無畏心),九(極無自性心),十(秘密荘厳心)の教義が存する。
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