福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

ウクライナとロシアはダビデとゴリアテである(小が大を攻撃し倒す例)

2022-08-14 | 法話

ウクライナとロシアはダビデとゴリアテである(小が大を攻撃し倒す例)

 

古来、小(弱者)が大(強者)を倒した例は枚挙に遑がありません。

以下、小が大を倒した例を挙げますがいずれも専守防衛のみで勝った例はありません。小なりと雖も積極的に相手の急所を攻撃して勝っています。

 

1,ダビデとゴリアテの例

数日前CNNのキャスターがロシアのウクライナ侵略を、「ダビデとゴリアテ」にたとえて放送していました。

ダビデとゴリアテとは、少年ダビデが巨人戦士ゴリアテを倒すという旧約聖書・サムエル記の逸話です。小さな者が大きな者を倒す例として用いられてきています。「旧約聖書・サムエル記」に、「ペリシテ人ダビデにいひけるは我がもとに來れ汝の肉を空の鳥と野の獣にあたへんと 。ダビデ、ペリシテ人にいひけるは汝は劍と槍と矛戟をもて我にきたる然れど我は萬軍のヱホバの名すなはち汝が搦みたるイスラエルの軍の神の名をもて汝にゆく。今日ヱホバ汝をわが手に付したまはん、われ汝をうちて汝の首級を取りペリシテ人の軍勢の尸體を今日空の鳥と地の野獣にあたへて全地をしてイスラエルに神あることをしらしめん 。且又この群衆みなヱホバは救ふに劍と槍を用ひたまはざることをしるにいたらん其は戰はヱホバによれば汝らを我らの手にわたしたまはんと 。ペリシテ人すなはち立あがり進みちかづきてダビデをむかへしかばダビデいそぎ陣にはせゆきてペリシテ人をむかふ 。ダビデ手を嚢にいれて其中より一つの石をとり投げてペリシテ人の顙を撃ければ石其顙に突きいりて俯伏に地にたふれたり。かくダビデ投石索と石をもてペリシテ人にかちペリシテ人をうちて之をころせり。然れどダビデの手には劍なかりしかば ダビデはしりてペリシテ人の上にのり其劍を取て之を鞘より抜きはなしこれをもて彼をころし其首級を斬りたり。爰にペリシテの人々其勇士の死ぬるを見てにげしかば イスラエルとユダの人おこり喊呼をあげてペリシテ人をおひガテの入口およびエクロンの門にいたる。」

 

 

2,古代西洋の有名な戦闘でも英雄は常に小さい勢力で大勢力の急所を攻撃して勝ってきました。

・アレキサンダー大王は、イッソスの戦い(紀元前333年)で4万の軍隊で60万のペルシャ軍を破っています。これはマケドニアの騎兵がペルシアの右翼を突破して、中央の側面を攻撃したためとされています。

 

・カルタゴのハンニバルはカンナエの戦い(紀元前216年)で5万の兵力で7万のローマ兵を破っています。陣形の勝利でした。

 

・ジュリアス・シーザーも、アレシア包囲戦(ガリア戦争)では7万の兵で20万のガリア人連合軍を破っています。

 

3,古代中国の小よく大の急所を攻撃して勝った例。

・「淝水の戦い」。383年、東晋の謝石は8万の軍で、中国統一をかけて100万の軍勢で攻撃してきた前秦の苻堅に勝っています。『十八史略』に「堅、ついに長安を発す。

戌卒(じゅそつ)六十余万、騎二十七万。晋、謝石をもって征討大都督となし、謝玄を前峰都督となす。衆八万を督してこれを拒ぐ。・・・玄ら勝に乗じて追撃す。秦兵大いに敗る。秦兵、肥水に逼りて陣す。玄、人をしていわしめて曰く、「陣を移して少しく卻(しりぞ)き、わが兵をして渡るを得しめよ。もって勝負を決せん。可ならんか」。堅、晋兵に聴して、半渡のときこれに蹙らんと欲し、兵を麾きて卻かしむ。秦兵退き、また止むべからず。朱序、陣後にあり、呼びて曰く、「秦兵敗る」。ついに潰ゆ。」

 

・周の武王の牧野の戦い。武王は牧野において、殷の紂王の大軍70万人を破っています。殷の紂王の兵が悪逆な紂王のために戦う戦意を失っていたからです。

 「史記・周本紀」に「帝紂、武王の来るを聞き、亦た兵七十万人を発し、武王を距ぐ。武

王、師尚父をして百夫と與に師を致さしめ(百人の勇力の士と共に、先陣

として敵に戦いの志を示させる。古は戦いを始めるとき、先ず勇力の士が

敵を犯す)、大卒(中軍)を以て(自ら)帝紂の師に馳す。紂の師、衆し

と雖も、皆戦いの心無く、心に武王の亟(すみやか)に入らんことを欲す。

紂の師皆兵(武器)を倒(さかさま)にして戦い、以て武王に開く。武王、

之に馳す。紂の兵皆崩れて、紂に畔く。紂走り、反り入りて、鹿台の上に

登り、其の珠玉を蒙り衣て、自ら火に燔きて死す。・」

 

 

・朱仙鎮の戦い。南宋の岳飛は五百騎で、金の十万の軍を破ったといわれる。(『小説十八史略』陳舜臣等)

 

 

・昆陽の戦い。23年、中国河南省にあった昆陽城にたてこもった劉秀(後漢の光武帝)が三千余の決死の兵で百万の王莽の軍の中堅を衝き破った戦い。

 『十八史略』「秀、昆陽・定陵・郾(えん)を徇(とな)えて、皆之を下す。莽、王邑・王尋を遣わし、大いに兵を発して山東を平らげしむ。長人巨無覇(きょむは)を以って塁尉(るいい)と為し、虎豹犀象の属を駆り、以って兵勢を助く。百余万と号す。旌旗(せいき)千里絶えず。諸将、兵の盛んなるを見て、皆走って昆陽に入り、散じ去らんと欲す。秀、郾・定陵に至り、悉(ことごと)く諸営の兵を発し、自ら歩騎千余に将として前鋒と為る。尋・邑兵数千を遣わして合戦せしむ。秀、之を奔(はし)らしめ、首を斬ること数十級なり。諸将曰く、劉将軍、平生小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ怪しむ可し、と。虎豹みな股戦(こせん)し「ち川(せん)」に溺死するもの万数なり」。

 

 

・官渡の戦い。西暦200年曹操が4万の兵で10万の袁紹軍を兵站奇襲で破っています。(三国志)

 

4,日本の例。

 

・千早城の戦い。『太平記』によると総勢100万の大軍が千早城を包囲したのに対し、籠城の楠木軍は僅か千人足らずの小勢で外から奇襲して守ったとされます。

「赤坂城軍事 

遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはかばかしく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いやいや此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。・・」

 

・河越夜戦。

北条氏康は、1546年に河越城を8万という関東管領の上杉憲政や、古河公方の足利晴氏の大軍に包囲されます。対する北条氏の兵力は1万程度のものでしたが、氏康は果敢な奇襲攻撃によってこの大軍を討ち破っています。

 

・毛利元就の厳島の合戦

狭い厳島に陶晴賢軍2万5千をおびき寄せて毛利元就の4千の軍が奇襲し包囲殲滅します。

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