今日は唐の太宗の没したの日。ウキぺデア等に依ると太宗は貞観23年5月26日(649年7月10日)に没しています。太宗は中国史上の名君として知られています。・太宗の対話を編集して為政者の心得を説いた『貞観政要』は頼朝・政子、家康等日本の歴代の為政者の愛読書でもあった。ここには、贅沢を誡めるために後宮を整理するとき美人は嫁ぎ先が見つかりやすいとして美人から先にリストラした(吉宗が享保の改革で大奥の美女 . . . 本文を読む
(運命を切り拓く大前提は「懺悔」であると最近思っています。不平不満からは運命は拓けません。)
「懺悔(岡本かの子「仏教人生読本」)さんげは心象上の生理作用です。人間の体の皮膚に老廃物が溜れば一つ一つの毛孔がふさがりついに健康に支障を来すように人間の心にも心を活かして行く上に不必要なものがたまる。たとえば、過去の嘆きとか悩みとか、罪悪を悔くいる気持ちとか、それらは体の皮膚にたまる老 . . . 本文を読む
今日は詩人R・W・エマソンの誕生日です。以下ウキぺデア等に依ります。エマソンは1803年5月25日ボストンに生まれています。神と自然と人間の究極的合一や自己の無限性を唱えたといいます。仏教的考えです。実際エマソンは印度哲学の影響を受けて「The Over Soul」の中で「我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し、人間の内には全なる魂がある。それは智者の沈黙であり、こ . . . 本文を読む
「おおいなる、お慈悲ひとつの身になりて、すごす月日は、貴とかりける」(お地蔵様の歌、詠み人知らず。)お地蔵さまはお釈迦様の入滅された後、56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世にあらわれるまでの間、衆生を救う役割を担っておられます。そして辺鄙な山中や道端に立ち尽くして自分は風雨に打たれながら、塗炭の苦しみにあえぐ衆生を無縁の大悲で救ってやろうと日日大奮闘されています。全く何の見返りもお求めになりません。 . . . 本文を読む
長元3年(1030)五月二十三日は、全国に 前年から蔓延した疫疾対策として観音像と請観音経の図写供養が求められた日です長元三年五月二十三日の太政官符に「太政官符五畿七道諸国司 応に丈六観世音菩薩一体・請観音経百巻を図写供養の事。右去春以来疾疫滋蔓し病死尽大。祈祷を致すも空しく旬月を経る。‥それ観世音菩薩といっぱ衆生の依怙なり、能く無畏を施し患病厄者は必ず苦源を抜く。急難に遭ふものはたちまちに解脱を . . . 本文を読む
今日は高野山八傑の一人道範入寂の日。道範は高野山正智院の学匠。高野山八傑の一人。字は本覺、和泉国船尾の人也。年甫はじめて十四、高野山に登り正智院明任に随て剃髪、志行精勤、學解最も顕る。建仁二年1203八月兼澄の嘱を得て寶光院に住し、建保四年1216十一月朔日、明任を拝して具支灌頂を稟け、又華王院覺海に宗義を問ひ、後京都に出て禅林寺静遍並びに金剛王院寶賢に受法し、御室宗覚法親王に就きて廣沢流の源底を . . . 本文を読む
貞観十一年(869)五月二十二日、新羅の船2隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走しています。(貞観の韓寇)『日本三代実録』「大宰府言す。「去る月(貞観十一年869年五月)二十二日の夜、新羅の海賊、艦二艘に乗り博多の津に来たり、豊前の年貢の絹綿を掠奪して即時逃竄す。兵を発して追へども遂に賊を獲ざりき」対馬守である小野春風は、多くの賊を討ち取り、新羅と内応していた30人を逮捕して追い払ったとさ . . . 本文を読む
細菌学者野口英世は1928年(昭和3年)の今日5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去しています。英世の成功の陰には母しかの観音様信仰がありました。野口英世の母シカは観音様に願掛けしたら家出した両親が帰ってきたという幼少期の経験から熱心な観音様の信者になっています。後年産婆になってとりあげた二千人の子はすべて安産で「お産の時は必ず観音様にお祈りしながらやんのし . . . 本文を読む
今日は聖武天皇が大安寺以下の諸寺に墾田等を施入された日。聖武天皇は「令法久住。抜済群生。天下太平。兆民快楽。法界有情、共成仏道」を願って施入されています。続日本紀に「天平勝宝元年(749)五月癸丑【二十】癸丑。詔、捨大安。薬師。元興。興福。東大五寺。各絁五百疋。綿一千屯。布一千端。稲一十万束。墾田地一百町。法隆寺、絁四百疋。綿一千屯。布八百端。稲一十万束。墾田地一百町。弘福。四天王二寺。各絁三百疋 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶四年(880)五月廿日癸酉条「廿日癸酉 快雨。 勅す。公卿及近衛兵衛衛門六府官人已下で陣頭に見在せる者を録し 穀倉院調布を以て之に賜ふ。 公卿に内蔵寮御服絹を加賚し、各の差有り。 外記内記仗下に侍る者も亦た預焉る。甘澍の賀なり。先是 勅有り、議定す。 廿二日より始めて 三ケ日間 賀茂松尾等社に於いて 将に潅頂経法を修すべし。 祈雨の為也。 崇朝遍雨す。 故に暫く停止す。 是時 右 . . . 本文を読む
今日は祈雨を醍醐清滝と室生竜穴に祈り効験があった日です。「夕拝備急至要抄」に「嘉禎三年1238、五月十九日・・近日陰気、天見ると雖も雨脚未だ地を湿らさず。稼穡の業、便を失ひ人民の愁ひ休なし。醍醐寺におおせられ法印権大僧都実賢,浄侶を率いて明二十日より清滝において孔雀経を転読せしむ。興福寺に於いて権僧正同浄侶を率いて室生寺竜穴神社において仁王経を転読せしむ。各七日を限る。‥時日をい経ずして忽ちに雨澤 . . . 本文を読む
続日本紀 / 天平九年(737)五月壬辰(十九日)条「 (聖武天皇)詔曰 四月以来 疫旱並行し、田苗燋萎す。是に由りて山川に祈祷し神祇に奠祭すれども未だ効験を得ず。今に至り猶苦しむ。朕不徳を以て實に玆の災を致せり。思ふに寛仁を布きて以て民の患を救はむ。国郡をして寃獄を審録し、骼路(きゃくろ・主要道路)を掩ひ、胔を埋めて、酒を禁ち、屠を断たせむ。 高年の徒、鰥寡こ独及び京内の僧尼男女、 疫に臥して自 . . . 本文を読む
今日は義賢が疱瘡平癒を祈り宮中で仁王経を修した日です。(後花園天皇)「)(寶徳四年1452五月)十九日、この日より三宝院義賢を召して禁中に仁王経を修す。」(師郷記、続史愚抄)三宝院義賢は足利満詮の子。後遍智院准后。東寺長者 ・三宝院門跡・醍醐寺座主・准三后(太皇太后,皇太后,皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた者をいう)。後花園天皇は102代。寛正二年にも三宝院義賢に心経を供養させています。続史愚抄 . . . 本文を読む
今日は大悲菩薩覚盛遷化の日金剛仏子叡尊感身学正記に「(建長元年(1249))五月十九日夜、招提寺長老覚盛上人、(學律房、広大利他願を発し後に号を改め窮情房)新浄衣に更衣し、裳上に二十五帖大衣を被り、頭北面東西、右脇にして臥す。左手に香炉を持ち、右手頬に舒す。口に大乗の文を唱え、心は法性の理に縁じ湛然として眠るが如く卒去す。」(以下密教辞典等に依る)覚盛は建久5年(1194年)から建長元年5月19日 . . . 本文を読む